二、現世−12
そうやって、わざとせかす。ホタルのうろたえる様が、見ていて申し訳ないけど面白かった。
彼女にもう、蘇る気がないのはわかっていた。
「……必ず、転生しないといけないの?」
「必ず、って?」
前足で石を撫で、ホタルはいいよどんだ。
「すぐに、転生しないといけないの?」
「……何が言いたいんだ?」
「まだ転生したくないのよ」
覗きこむように、鳶色の瞳がこちらを見る。
「もう蘇ろうとは思わないわ。けど、まだ現世にいたいの」
「でも、転生をくりかえせば、また環さんやはなびの生まれ変わりと逢えると思うけど」
「あたしはホタルとして、環たちのそばにいたいのよ」
ホタルは、猫として生まれた自分をほこりに思っているのだろう。猫らしからぬしゃんとした背筋で、きっぱりと言った。
「必ず、転生するから。だから、幽霊でいいから、まだ現世に残っていたいの」
「……それがホタルの願い?」
「変更はできないの?」
「いや」
否定しつつ、カナデはあぐらをかいた脚を手でさすった。
「変更はできるけど……どうせなら少しいじってみないか?」
「いじる?」
「そう」
カナデは、どうにもあぐらが苦手だ。ひざの裏が痛くなってきて、たまらず腰を上げた。
「どうせ幽霊でいるなら、別の種類の霊になればいい。守護霊とか、どうだ?」
前屈をして、いかに自分の体がかたいかを思い知る。黄泉での単調な生活は、筋肉を確実に衰えさせているようだった。
「守護霊なんて、そう簡単になれるもんじゃないからな。あれはやっぱりタエ様に願わないと」
それは、ナリアキに教えてもらったことだ。昔あった事例を、彼は事細かにカナデに教えてくれていた。
「そうすれば、一緒にいられるし守ってやれるし、陰ながら支えることもできる。これは、黄泉じゃあまり珍しいことじゃないから、タエ様もすんなり許してくれるさ」
現世での残留を望む死者に守護霊をすすめるのは、どの区でも行われていることらしい。現世でのやりがいのある仕事に、多くの死者が快く引き受けてくれるそうだ。
「決めるのはホタルだから無理にとは言わないけど。とにかくまずは病院に戻らないとな」
行くぞ、と声をかけ、カナデは土手をのぼる。一息おいて、ホタルも後を続いた。
てっきり考え事に夢中で下ばかり見てると思えば、彼女は凛とした面持ちでカナデの隣につく。川の流れを表現するように、尾を緩やかに揺らした。
「花火大会、もうすぐよ。ここの河川敷に出店が出て、たくさん人が来るの」
「その頃俺は黄泉だな」
黄泉でもごくまれに、どこかの区の神が花火大会を催すことがあるらしい。あいにくカナデは、それを見たことがなかった。
「恩田家は毎年、行ってるんだよな?」
「そうよ、恒例行事だもの」
「一昨年、誰も怪我しなかったか?」
「……その時は、会場より離れた場所で見たらしいから」
この市での花火大会のことを、カナデは和臣に教えてもらっていた。
「暴発事故、ひどかったらしいわね」
去年、花火があがらなかったのは、その前の年に事故があったためだ。
打ち上げ前の花火が何らかの弾みで点火され、地上で火薬球が炸裂した。死者が出るほどの事故となり、翌年の花火は中止された。
それでもやはり、今年は復活するらしい。
「やっぱり、花火大会は夏のイベントだからね。安全性についてもちゃんとしてるらしいし」
「……そっか」
「それがどうかしたの?」
いや、とカナデは言葉をにごす。でもそれを曖昧にすると今度はホタルに爪を立てられそうなので、続けた。
「和臣、花火にトラウマあるんじゃないかと思って」
「トラウマ? だってあの子、はなびと行く約束してたじゃない」
「だから大丈夫だとは思うんだけどな……」
カナデが花火大会の事情を知っているのは、教えてくれた和臣に特殊な事情があるからだ。
「あいつ、暴発事故に巻き込まれたんだよ」
彼が黄泉へと通うきっかけをつくったのが、それだった。
「それで、一回、死んでるからな」
○○○
「ただいま、和臣」
耳元でそうささやくと、和臣は驚きに声をあげそうになったのを手で叩いて封じ込めた。
あごと手の平が小気味よい音をたて、室内に響く。
「……今、蚊がいたんだ」
視線が一斉に集まって、和臣はそう笑ってごまかした。
いつもの患者たちだけならともかく、朝と同じ女医と看護師がいたのに、カナデは気づかなかった。いかに和臣を驚かすかに集中して、壁をすり抜けたのがバレなかったかばかりを気にしていたのだ。
無言で和臣に睨まれ、カナデは頭を下げる。
女医たちは何をしているのかと思えば、はなびの首の固定を外していたようだ。首の自由がきいて、彼女は頭を回して筋肉をほぐれさせているようだった。
女医たちが去っていくのを待って、和臣はようやく口を開いた。
「次やったらゆるさないからね」
「もうやることもないって」
告げるのが遠まわしすぎると思い、カナデは「帰るよ」とつけたした。
「……ホタルたち、仲直りしたの?」
「まぁな」
死者が納得し仕事が終わった以上、もう帰らなくてはならない。今回のように現世に降りる仕事は、しばらく与えられることがないだろう。
「最後に挨拶してから帰ろうと思ってさ」
カナデがあごでしゃくった先には、はなびと、その腿の上にホタルがいる。現世に降りたばかりのときの溝はもうそこにはなく、二人が寄り添うのはとても自然なことのように思われた。
「……お母さんと、仲直りした?」
「うん。心配してくれてありがとうね、はなび」
はなびに、猫がしゃべるという驚きはないらしい。触れないのがもどかしいようで、手を宙にさまよわせていた。
二人はそれから、とくにこれといった会話をしなかった。ただ黙ってそこに座り、なにをするでもなく、ブラインド越しの太陽でひなたぼっこをしているようだ。
「……はなび」
「うん?」
「ありがとう」
「うん」
ふっくらとしたあごを引き、はなびはホタルを見下ろした。
そして次第に、その焦点があわなくなっていった。
触れるのをあきらめてベッドの上に投げ出していた手を、再びホタルに寄せる。けどその手はホタルに触れてなお宙をかき、なにかを探しているようだった。
「……はなび?」
その様子に、和臣が声をかける。先ほどとは明らかに様子がおかしいことが、誰の目から見てもわかった。
「ホタル、いなくなっちゃった」
淡々と、はなびは言う。悲しみもなく、ただ、消えたということを報告した。
「でも……」
ホタルは、その場から一歩も動いていない。まだはなびの腿の上にいる。和臣の目にも、カナデの目にも、それは見えていた。
ホタルがいなくなったのではなく、はなびがホタルを見ることができなくなったのだ。
そう教えようとした和臣を、ホタルが首をふって制した。
「このほうがいいのよ」
「でも……」
「はなびには、あたしが成仏したと思っていいてほしいの」
「……和ちゃん?」
無垢な表情で首をかしげるはなびに、和臣は唇を引きしめる。そうして自分の中で、不満を消化させているようだった。
「……ホタル、ちゃんと成仏したよ」
そして、笑む。はなびを安心させるように、ホタルの意思を尊重させるために。
はなびが和臣の言葉を信じ、ホタルはほっと安堵の息をつく。そして寝そべったままの体勢で、ねだるようにカナデを見た。
「あの……カナデ、もうちょっとここにいてもいい?」
「いいよ。そんなに急がないから」
ありがとう、とホタルは呟く。そして目を伏せ、気持ち少しだけ、はなびに寄り添った。
白い尾がそっと、ギプスを撫でた。