二、現世−11
――環。
「うん」
――あたし、幸せだった。
「……本当?」
何度も何度もまばたきをしても、視界はにごったまま。
――本当。環と一緒にいられて、ずっと、ずっと一緒にいられて、嬉しかった。
「私も、私も一緒にいれてよかった」
涙が、止まってくれない。
――あたしがまだ小さいとき、花火大会に連れてってくれたよね。環、綿飴何色にするか悩んでさ。あたしに一口くれて、あれ、甘くてべたべたして、ヒゲにくっついたのが気になってしかたなかった。でも美味しかった。
――一緒に見た花火、今も覚えてる。
近距離で打ち上げられた花火は、環たちの頭上で花開き、後ろに転げてしまいそうなほど顔をあげた。柳花火が垂れてきた時は、火傷してしまうのではないかと思うぐらいに近く、そして美しかった。
――環。
「うん?」
――大好きだよ。
その言葉が最後。皮膚に食い込みそうなほどだった空気が、小さな音を立てて切れた。
「……うん」
一緒に自分の糸も切れたようで、環はその場に座り込む。うなじの後れ毛が頬にかかって、片方のスリッパが脱げたけど、あふれる涙でどうでもよくなっていた。
画面は、真っ暗になっている。
泣き崩れる環に、それはわからない。けど、ホタルがもうなにもいわないのは、もうわかっていた。
最後にひとつ、環も言いたいことがある。でも、嗚咽が邪魔をして声が出ない。
懸命に涙の痙攣をこらえていく間に、画面に明かりがともる。
「私も、大好き」
言い終えたころには、すべてのやり取りは消え、仕事の原稿しか残っていなかった。
8
「ホタルは、いつから俺が死んでないってわかってたんだ?」
話しかけるカナデの頭上で、綿菓子のような入道雲が胸を張って空を歩いていた。
行きはカナデに背を向けていたホタルが、今は隣を同じ歩調で歩いている。それでも見えるのは彼女の小さな背中だけど、話しかけると顔をあげてくれた。
「黄泉で会ったときから」
「ずいぶん勘がいいんだな」
市内一の大きさといわれる川を挟む土手の上から、カナデはそれを見下ろす。今自分が歩いているのと同じ、先のとがった砂利が、土手の下に敷かれている。太陽が昇りきったころになれば、近所の子供たちがそこで元気よく遊びはじめるのだろう。
水面を反射させる陽光に目を細め、カナデは大きなのびをする。まだ頭が完全に覚醒し切れていないようで、しきりに首を動かしては骨を鳴らした。
「勘っていうか、雰囲気が違うって見てすぐにわかるのよ。あぁ、この人は自分とは違う、ってね」
腰を下げて足にばねをつくり、ホタルはカナデの肩に飛び乗る。ジャージの光沢に足をすべらせかけたが、爪をたててなんとか持ちこたえた。
「それに、あったかい」
「あったかい?」
ジャージが熱を吸収しているからではないらしい。今度は爪を立てないよう注意しながら、彼女はカナデの頭へと移動をした。
「体温がね、あたしたちよりも高いの。それに身体も重いわ」
頭に意識を向けてみれば、なるほど、ホタルはすこしひやりとする。現世の猫が頭に乗れば、カナデは必然的に下を向いてしまうはずなのに、首にはほとんど負荷がかからなかった。
「あたしだけじゃないわよ。死者ならみんな、一目でわかると思う」
話す呼気は感じるのだけど、血潮の流れがわからない。意図してホタルに触れたことがなかったので、カナデは死者と幽体離脱者の違いなんてまったく知らなかった。
「カナデはどうして、身体に戻らないで玉梓やってるの?」
「……知りたい?」
縦にふられたあごが、頭に当たってすこし痛い。
まっすぐだった進行方向を突如変更し、カナデは土手をそりすべりの要領で下る。砂利ギリギリで踵ブレーキをかけると、慣性の法則にならってホタルが頭上を飛んだ。
見事な着地を披露し、彼女は怒りもせずカナデを心配する。
「お尻、草の色ついちゃうよ?」
「ジャージ黒いからいいんだよ」
そもそもこの身体では色も何もつかない。
ホタルは川辺りまで行こうとするが、カナデは座ったまま。それに彼女は首をすくめ、大人しく隣に座った。
「俺さ……」
「うん?」
頭の中で話の道筋を練り、カナデは口の中でそれを数度転がしてみる。どこから話せば、ホタルはすんなり納得してくれるだろうか。
「ホタルは、死者が願いを一つしか叶えられないのは知ってるよな?」
黄泉ではじめに教えられたことを、ホタルは覚えてくれていた。
「俺は、それを前借りしてるんだ」
「前借り?」
これは、覚えていない。覚えていないというか、知っていないしこちらも教えていない。
「本来願いは死後じゃないと受け入れてもらえないけど、俺はそれを生きている間に叶えてくれってかけあったんだ。そしたらタエ様はそれを許してくれた。そのかわり俺は死んだ後、どんなに悔いを残していても願いを叶えてもらえないんだ」
「……その願いは、そんなに大事なことだったの?」
「たぶんな」
「たぶん?」
ホタルのいぶかしげな視線に、カナデは苦笑するしかない。
「なんて願ったか、覚えてないんだ。それが交換条件だから」
正直言うと、その時の会話もろくに覚えていなかった。
「願いの前借りなんて特例も特例だから、何かしら代償が必要なんだよ。だから俺は、タエ様が満足するまで玉梓の仕事をすることと、願いに関する記憶を止められることが契約の条件になったんだ」
記憶を止めただけ。だから、頭の中にはまだ残っているはず。ただ、それを思い出そうとすると音が聞こえなくなったり、目がかすんだりと五感のどれかを遮断されてしまう。
「現世での俺が、どういう人間なのかを知らない。家族のこともおぼろげだし、どこに住んでるとか、どういう友達がいたのかとか、学校とか、わからないんだ」
それがカナデの願いに関する記憶だと、神は言った。
「だから俺は、いつまでたっても半人前の玉梓なんだよ」
ジャージに腕章といういでたちは、それを区別するため。異質の玉梓は、黄泉内でも受け入れられず邪険に扱われることのほうが多かった。
「それでも、これだけのことするんだから大事な願いなんだろうとは思う」
「……その願いは、いつになったら叶えてもらえるの?」
「さぁな」
カナデの投げやりな答えに、ホタルはすねを小突いてきた。
「タエ様の気が済むまで、ずっとだよ。今すぐにでも叶えられるかもしれないし、十年以上も先のことなのかもしれない。もしかしたら、もう叶ってるかもしれないんだ」
カナデが現世に戻れるのは、タエ神の気がすんだとき。それまでは、ずっと黄泉でこきつかわれるしかない。
「辛くない?」
「目的があるんだから、そうは思わないさ」
建前じゃなく、本音だ。途中で放り投げようとしないのは、その先に自分の望むものがあるからなのだろう。
「ただ遊んでたわけじゃないのね……」
「当たり前だろ。今頃、俺の身体はどっかで抜け殻状態なんだから」
身体は、和臣と同じ幽体離脱状態だ。一年以上も魂が戻らずにいて、果たして大丈夫なのか。正直カナデにはどうでもいいことだった。
「そう考えると、やっぱり願いって重要なことなのね」
「一生につき一度きりだからな。願いなく転生できる人間ってそうはいないぞ」
そこまでいって、カナデは「あっ」とわざとらしく声をあげた。そろそろ本題を切り出さねばならないのだ。
「ホタルはこれからどうするんだ?」
「……うーん」
首を傾げてはいるものの、それがただのポーズだというのはバレバレだ。わかっていて、カナデはあえてもう一度説明した。
「蘇るには別の人間の魂が必要なんだ。誰の魂でもいい。どうする? 誰にする? なんだったら、これからここを通った人間でもいいだろ」