一、黄泉−1
一、黄泉
1
死後の国には、宿がある。
「お世話になりました」
その宿の名前を『黄泉』といった。
「これで、心おきなく転生ができます」
離れから渡り廊下へと続く石畳の上で、一人の女性が、青年に向かって一礼する。彼女のマロンブラウンに染めた髪は部分的に色が薄く、それは白髪染め独特の残り模様だった。
その人工的な色に反し、服は絹の死装束。足袋もなにもはかず裸足のままで、それは黒い作務衣を着た青年も同様だった。
親子ほども歳の違う女性に、青年は慣れた様子で顔をあげさせる。肩からさげた頭陀袋からハンカチを取り出したところを見ると、どうやら女性は感動のあまり泣いているらしい。
仲良く談笑をする先輩の姿を、カナデは渡り廊下からぼんやりと眺めていた。
あの女性の死者は、たしか一人娘の結婚式を目前に事故で亡くなり、黄泉に来たはずだ。娘の花嫁姿が見たいと願っていて、今日、その願いが受理されていた。
黄泉は黄泉でも、この黄泉は一般的に知られている死後の国とはまた違う。入り口も出口もない円状の塀に囲まれている宿で、塀の向こうに世界があるわけでもなく、ただ、現世に悔いのある魂だけが導かれる宿だった。
現世でひとつの人生を歩んだ魂は、死後、ひとつだけ神に願いを叶えてもらうことができる。それまでの間をこの離れ宿で過ごし、死者の身の回りの世話をする仲居をつとめるのが、カナデたち玉梓の仕事だった。
「……で、あってるはずだよな」
先輩に教えられた知識を復習しながら、カナデは腕章ごと、自らの二の腕をつかんだ。
黒い作務衣に生成りの頭陀袋を下げて、左の二の腕に紅の腕章をかけているのが、神に死者の願いを伝える玉梓の正装だ。カナデが着るのは同じ黒でもただのジャージで、足はスニーカー。半人前の玉梓であるから、まだ一度も死者の世話を受け持ったことがなかった。
単品でならくすんだ栗色のようにも見える紅の腕章は、光の加減で色が変わる。握る手に力をこめれば、腕と連動して、血潮のように脈を打った。
宿の古さを物語る緋色の梁と、この渡り廊下の欄干は同じ色で、黄泉の中はどこも似たような外見になっている。近くを流れる川からは水車の音がして、カナデは一面に敷き詰められた玉砂利をぼんやりと数えていた。
「……本当に、ありがとう」
離れからはあいかわらず、礼を言う女性の声が聞こえる。さっきからずっとその様子を見ているのだけど、彼女はまったくカナデに気づかなかった。
「………――ぁ」
欄干に頬杖をつき、カナデはひとつ、あくびをした。
黄泉での宿泊部屋は基本的に離れで、客室の間を渡り廊下がしきっている。その廊下もまた年代もので、歩くたびに歯軋りのような音がした。
「礼を言うべきなのは、僕ではなく神なんですけどね」
女性と話している青年の名前は、ナリアキという。カナデにとって、彼は黄泉のことを教えてくれる兄のようなものだった。
「……来ましたね、わたしのお迎え」
ほんの数日前に黄泉を訪れた女性は、足元の玉砂利が波打ち始めたのに気づいて、またにこりと微笑んだ。その表情は黄泉に来たばかりのころと明らかに違っていて、満ち足りたような笑顔に後悔はどこにもなかった。
「次は、悔いのない人生を送ってくださいね」
ナリアキの声が終わるか終わらないか。空から、綿飴のようにまるい薄紅色の雲が降りてくる。女性の背丈よりも大きなその雲は、黄泉の空に常にいくつか浮いているもので、死者の唯一の移動手段だった。
雲はまるで自らの意思があるかのように、大きな口をあけて、女性を頭から丸呑みにしてしまう。そして満足げに身体を震わせたかと思うと、急速に縮んでいく。カナデは初めてこれを見たときとても驚いたけど、最近は普通に受け流すようになっていた。
綿飴を押し固めるように、雲がビー玉へと姿を変える。地面に落ちたそれは、波打つ玉砂利に飲み込まれて、姿を消してしまった。
それは現世に降り、生物の母体へともぐりこむ。そして生まれ、死に、あの雲に飲まれ、再び現世に落ちる。輪廻転生のサイクルは、そうしてつながっているようだった。
一仕事終えたナリアキが、波のおさまった砂利を足でなでる。そして空を仰いで、次いで渡り廊下を振り向き、ようやくカナデの存在に気づいたようだった。
「……カナデ君?」
にこやかな表情はあいかわらずで、手を振りながらこちらへとやってくる。
遠目でもわかる長身は、近づけば近づくほど細さを増す。身のこなしに隙というものがなく、欄干にあずけた背は凛と伸びていた。
大きな伸びをひとつ。ナリアキは首をひねって、再びあくびをするカナデを見た。
「また迷子にでもなった?」
「自分の担当区域ぐらい迷いませんよ。俺、玉梓一年以上やってるんですから」
ちょっと休んでるだけです、と唇をとがらせれば、ナリアキは頭を撫でてくる。年もそれほど違わないのに子供扱いをされても、カナデは特に嫌だと思わなかった。
「今の人の願い叶えるのに、現世に降りたんですか?」
死者の願いによっては、一度現世に降りなければならない場合がある。その時は、必ず玉梓が同伴しなければならなかった。
ただ宿しかない黄泉にいるのは、どんな玉梓であれ飽きてしまう。現世に降りるのを唯一の楽しみにしている玉梓も少なくなかった。
きっとナリアキもそうだとカナデは思っていたけど、彼は返事に言葉をにごした。
「タエ様には降りてもいいって言われたんだけど、お客様には水鏡だけで我慢してもらったよ」
「たまには黄泉から出て気分転換すればいいのに……」
「もう現世にはついていけないから」
彼の苦笑に、カナデは大いに納得した。
ナリアキと自分は、同じ玉梓でも、育った環境が違うのだ。
「ナリアキさんの時代は、車とか、なかったですもんね」
「ジャージもなかったよ」
ナリアキが現世に降りても、進化した世界に戸惑うばかりだろう。
「僕は黄泉で玉梓をやって、死者たちに現世の話を聞くだけでじゅうぶん。それが何よりの楽しみなんだ」
精悍な立ち振る舞いも、瞳に秘めた眼力も、カナデのいた現世では見ることがない。時代が違うことは、彼のザンギリ頭がなにより物語っていた。