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二、現世−10

「私……」

 はなびに嫉妬していた。

 誰よりも、ホタルと一緒にいたのに。誰よりも、ホタルを知っていたのに。

 誰よりも、ホタルが好きだったのに。

 なのに、自分にはホタルが見えない。

 はなびがホタルの報告をするたびに、環はいたという場所を自分の目で確かめた。でもそこには髭一本なくて、どんなに目を凝らしても、ただ空気があるだけで。

 ホタルの見えるはなびが、とてもうらやましかった。

 うらやましくて、うらやましくて、ねたましくて、悔しくて。無邪気に笑うはなびに、いつしかきつくあたるようになっていた。

「ごめん。ごめんね」

 ごめんね、はなび。怒ってばかりでごめんなさい。お母さんは、ホタルが見えるはなびがうらやましかった。

「ごめんなさい、ホタル」

 ごめんなさい、ホタル。私は、あなたを可愛がってあげることができなかった。もっともっと、一緒にいるべきだった。もっと、もっと、優しく接すべきだった。

「私、最低よ……」

 肩をふるわせ、喉をしゃくりあげ、それでも環は声をふりしぼる。一刻も早くホタルの言葉が見たくて、何度も何度も目をこすった。

 涙は、止まることなくあふれ出す。それでも懸命に顔をあげれば、いくつもの言葉が並んでいた。

 ――あたしは、環を恨んだことなんて一度もないよ。

「嘘!」

 ――嘘ついてどうするのよ。……そりゃ、環があたしのこと見えないっていうのは寂しかったけど。

 環の目に再び涙が盛り上がり、ホタルはあわてて続ける。

 ――でも、恨んでないっていうのは本当。

 環の濡れた瞳では、文字を追うこともできないはずなのに、ホタルの言っていることがわかる。声が聞こえるわけではないけど、思いはしっかりと伝わっていた。

 ――環、悪いことばっかり憶えてる。それじゃあ、楽しかったこと一つもないみたいじゃない。

「それは……」

 環が口ごもると、ホタルの含み笑いまで聞こえるような気がした。

 ――環のお母さんもね、あたしの着地見たくて、放って遊んだことあるのよ。喜ぶあなたたちの顔見ると嬉しくてね。別に嫌だと思ったことはなかったな。

「でも」

 ――お母さんと喧嘩して、あたしにあたっても、あとでちゃんと謝ってくれたじゃない。

 ホタルの語りはゆっくりなのに、環はそれに口を挟むことができなかった。

 ――環に初めて彼氏ができて、毎日まいにち電話ばっかりでさ。あたしのこと全然かまってくれなかったけど、環が嬉しそうで、あたしも嬉しかったな。

 ――別にご飯忘れられても、あたしどこにしまってるのか知ってるの。だから勝手にご飯食べてたし……つまみ食いしてたの環気づかなかったものね。

 ――しっぽを踏むなんて、何度もあったじゃない。環もわざとやったんじゃないし、子供がいるならしかたないわ。あたしは子供産んだことなかったからわからないけど、素敵よね、自分の子供がお腹の中にいるって。

 ――夫婦喧嘩したあと、環いつもあたしのところに来たでしょう? ちっちゃい時みたいにあたしに鼻水つけて泣きじゃくってさ、この子はいつまでたってもかわらないな、って思った。

 ――はなびが生まれて、あたし本当に嬉しかった。環はお母さんなんだもの、はなびにつきっきりで何が悪いっていうのよ。

 ひとしきり言い終え、ホタルはしばし沈黙をする。環に発言をうながしているのではなく、自分の中で次の話をどう伝えるかを考えているようだった。

 庭に通じた掃きだし窓は開け放たれ、そこからかすかに蝉の音が聞こえてくる。風が吹き込んで揺らすレースのカーテンを、まっさらに洗濯したいなと環はふと思った。あのカーテンには、ホタルの爪あとがしっかりと残っている。

 ――あと、ね。

 ホタルの次の話は、自分が死んだときのことだ。

 ――会社に原稿あげに行ったのは、やっぱり悲しかったな。はなびが一緒にいてくれたけど、環にもそばにいてほしかった。

「ごめんね……」

 ――わかってる。ちゃあんとわかってる。環、帰りに、あたしの好きなもの買ってきてくれたもんね。

 ホタルがもう長くないのは、誰の目からも明らかだった。だからそれまでに好きなものを食べさせようと、環は急いで買い物を終え、帰ってきたのだが。

 ――食べられなくて、ごめんね。

 ホタルはもう、食べることすらできなかった。

 ――環が帰ってきて、あたしすぐ玄関に行きたかったんだけど、体が動かなかったの。

 腰が抜けてしまい、四肢は空をかくばかり。目も虚ろで、触れられた身体は痩せ細り肋骨が浮いていた。

 ――あたしが危ないって聞いてさ、宗治(そうじ)さんもあわてて帰ってきてくれたよね。宗治さん、猫苦手なのに、あの時はじめてあたしにさわったのよ。

 宗治さん。それは、環が出版社のアルバイト中に知り合った夫のこと。ホタルがさん付けで呼ぶのが、環には意外だった。

 ――みんな、あたしのことずっと撫でてくれたもんね。温かかった。死ぬの、恐くなかったよ。

 ホタルは目と口を開けたまま、冷たくなっていった。死に際に断末魔の悲鳴をあげることもなかった。ただ、ろうそくの灯が消えるようにゆっくりと生を手放していった。

 ――死んでからも、ちゃんとあたしの身体埋めてくれたものね。庭にお墓つくってくれれば、あたしいつも近くにいられるわ。

 ホタルは、庭のすみに埋めた。毎日手入れをするつもりだったけど、いつしか環は庭を見ることですら拒むようになっていた。

 ――とくに、やり残したこともない。このまま成仏できるかな、って思ったのに、あたしここに残っちゃって。

「私が……認めないから?」

 ホタルは、きっとうなずいたはずだ。

 ――あたしは死んだの。それは環もよくわかってる。

 ただね、と文字が改行される。いつのまにか、ホタルの言葉は原稿用紙を何枚にもわたってつづられていた。

 ――環が、泣くから。環が泣いてたら、あたし安心して成仏することができない。

 そのパソコンの前で、環は何度泣いたことだろう。ホタルの食器を洗うたび、写真を見るたびに、泣いた。けれど、涙はいつまでたっても枯れることがなかった。

 ――だからっていって、ずっと家にいたあたしもあたしなんだけど。

 ううん、と環は頭をふる。ホタルが家にいてくれて、成仏しなかったことが不謹慎だけど嬉しかった。

 ――だから、はなびにケガさせて……

「それは違う!」

 否定には、力をこめた。

「違う! あれは事故で、ホタルのせいじゃない!」

 言いたかったことを、ようやく口にできた。そう思うと、ホタルの目じりにまた涙が山をつくった。

 あの日。

 はなびがまたホタルを見たと、二階から声がした。いつしか環はそれを無視するようになっていて、今日のようにリビングで仕事をしていた。

 そして、なにか悲鳴のような声が聞こえた。

 あわててダイニングから出れば、まさにはなびが階段から転げた瞬間。鈍い打撲音と、骨のあげた耳を覆いたくなるような音。

 頭をしたたか打ち付け、気を失った娘。片足はありえない方向へと曲がり、それは糸を切られた操り人形のようだった。

「ホタルは、助けてくれた……」

 駆け寄ることはおろかまばたきですらできなかった環を動かしたのは、もうこの世にいないはずのホタルだった。

『    !』

 あの時、環の耳には、たしかにホタルの声が届いていた。

 そのなつかしい鳴き声に、環は我に返った。そして冷静に、対処することができた。

「なのに、私、ホタルのせいにしたの。あの時私がすぐに階段に行けば、落ちてくるはなびを受け止められたじゃない。私がはなびを否定しなかったら、あの子もあんなに躍起にならなかった」

 自分の後悔を、すべてホタルに押し付けていた。

 ――誰も悪くないよ、環。

 ホタルが優しく語りかけた直後、画面が一瞬、暗くなった。

 ――お願い、もうちょっと頑張って。最後にこれだけ言いたいの。

 それは誰に向けたものなのだろうか。ホタルがもうすぐ行ってしまうと感じて、環はしっかり画面を見ようと何度もまばたきをした。


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