二、現世−9
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下着類から色柄物へと洗濯機の中身を取り替え、環はスリッパを鳴らしながらリビングへと戻った。
一人ぶん少ないそれを干したときにポニーテールの後れ毛が気になったけど、どうせ家にいるのだからとそのままにした。急ぎの仕事のない、一日中ゆっくりできる日はいつもはなびのもとへと通うのだけど、今日はどうしてもそういう気分になれなかった。
昨日のことが、頭から離れない。
母子の口喧嘩なんて日常茶飯事で、これからはなびが思春期にはいればもっとひどくなるのはわかっている。だからこれぐらい、どうってことないはず。そう自分に言い聞かせても、思考が分裂したかのように飲み込めずにいた。
リビングに入ると、すぐにカウンター横に置かれた食器が目に入る。ホタルが長年愛用し続けた、傷だらけのランチョンボウルだ。それは首輪と同じ赤にしたのだけど、月日がたつにつれ色あせ今はどちらかというとピンクに近い。四十九日まではそこにドライフードと水を入れていたが、今は空のまま、捨てきれずに放置されていた。
環はたまに、そこでホタルが身をかがめている幻を見る。それは幽霊でもなんでもなくて、直後にはなびがまったく別のところでホタルを目撃することがしばしばあった。
早く処分しなければ。そう思ってはみるものの、ホコリがたまればついつい洗ってもとの場所に戻してしまう。起きぬけについ、水を補給しようとしてしまう。
もう四十九日もとうに過ぎたはずなのに、まだ、ホタルの死になれていなかった。
ラジオのパーソナリティーの声に呼ばれるように、環はキッチンへと足を運ぶ。デパートで買った、夏季限定の葛餅を食べようと思った。
冷蔵庫に手をかける寸前、コップの麦茶が残り少ないことを思い出す。われながら要領が悪いと思いつつも、環はおやつを持たずにテーブルへと向かった。
そして、立ち止まった。
「え……」
洗濯機に呼ばれてから近づいてもいないパソコン画面に、新たに文字が打ち込まれているのだ。
たまき、と。
カウンターに片手を置き、環は画面を凝視する。乾き気味の瞳は、瞼をあげると涙がにじんだ。
さっきまでエアコンでも足りないほど暑かった空気が、鳥肌が立つほどに冷え、ピンと張りつめている。まばたきと呼吸が最低限ゆるされているようで、その他の部分を動かすとすべてが切れて散り散りになってしまいそうだった。
それに別段、恐怖は覚えない。誰かが侵入してきたとして、なぜこんな無意味なことをするのだろう。パソコンが壊れたのか、それとも幽霊か……。
もし、幽霊だったら。
期待が宿る環の目の前で、再び、たまき、と画面に文字が浮く。キーボードは動かなかった。液晶の奥から色がにじんだようだった。
たまき、ともう一度。それは間違いなく自分に向けられたもので、何か反応を返せという意味合いもあった。
「だれ……?」
おずおずと、環は問う。問うてはいるけど、それが誰なのかはわかっていた。
――ほたる
その文字に、環の心が踊る。それとは裏腹に、表情はだんだん険しくなっていった。
「ホタル、なの?」
――そう ほたる たまきがちいさいころからかっていた ほたる くろくて しっぽがしろい ねこ
話すのと同じスピードで打たれる文字は、句読点がなければ変換もない。その読みづらさに環はよけい顔をしかめた。
けれどもそれも、次第に変換されるようになる。文字が浮かぶのも早くなる。パソコンが、この不思議な入力に慣れたかのようだった。
――お願い環、逃げないで。
ホタルは間違いなく、自分のことを見ている。そう悟り、環は四肢に力をこめて棒のようにかためる。そうして、逃げ出そうとする足を抑えたつもりだった。
「何の、用?」
のどの奥から絞り出した声は、ひどくかすれている。飲み物はすぐ目の前にあるのに、そこまで動くことができない。
――環に会いたかった。
「私をつれていきたいの?」
――違う。
「そうでしょう? 私のことが嫌いなんでしょう?」
――違う、違うよ。
まるで、本当にホタルが頭をふっているようだ。
――あたしは、環にどうしても伝えたいことがあって、
「私のことが憎いんでしょう?」
口を開けば、そんなことしか出てこない。ホタルに伝えるべきことが、醜い言葉にせき止められて出てこない。
「私がちゃんと、ホタルの世話をしなかったから。いたずらもしたから。だから……」
――違う、環。環は、あたしをたくさん可愛がってくれた。
「小学校の時、着地する時の体が面白くて、抱いた手をわざと離したことがあった。中学の時、お母さんと喧嘩した腹いせにホタルにあたったことがあった。高校の時、彼氏と電話してるときに部屋から閉め出したことがあった」
話すたびに、ホタルとの記憶が次々と蘇ってくる。そこにあるのはいつも身勝手な自分で、環に背を向け去っていくホタルの後ろ姿だった。
後ろめたさなのだろう。画面を見ることができない。
「大学にあがって、アルバイトに疲れて、餌をあげるの忘れたわ。つわりがひどくて、トイレに駆け込む拍子に尻尾を踏んだこともあった。夫婦喧嘩のとき、おびえさせてしまった。はなびが生まれてからは、そっちにつきっきりで全然かまえなかったわ」
息継ぎをするのも忘れて、環は一気に言い放つ。その間にもパソコンでは文字が続くのだけど、見る余裕なんてなかった。
「ホタルが苦しんでいるのに、私、原稿をあげに行った。寄り道して、帰ってきたらホタルはもっともっと苦しんでて、私は……」
目が熱い。瞼をおろしても、それは変わらなかった。
「私は何もできなくて」
死にゆくホタルを、ただ見守ることしかできなかった。
「いつも、はなび、はなびってホタルのことほっといて」
ホタルが遊んでほしくて擦り寄ってきても、はなびの幼稚園の発表会準備で無視をした。
「だから、ホタルははなびを……」
一緒に、つれていこうとした。
最後まで言わずに、環は自分の口を押さえた。
本当は、こんなことを言いたいんじゃない。わかっているのに、唇には関係のないことばかりがのった。
どうして、と環は息だけで呟く。
「どうして……」
ホタルにどうして。自分にどうして。しまいには、何に対してのどうしてなのか自分でもわからなくなる。
「どうして……ねぇ、ホタル、どうして?」
ぼやけた視界では文字が読めない。けど、画面にあるのは環の言葉を否定するものばかりだった。
ホタルはどうやって、ここに文字を打ち込んでいるのだろう。自分には、それを知るすべがない。娘ならそれをいとも簡単にあばくのに、自分はただ、こうやって今起きている現象を見ることしかできなかった。
「どうして……」
頬を、涙が伝う。
「どうして、私にはホタルが見えないの?」
こらえきれず、環は両手で顔を覆った。
ホタルと一番長くいたのは自分であるはずなのに、環にはホタルの幽霊を見ることができない。まだ数年しか一緒にいないはなびは、ホタルの姿を自分ゆずりの目でとらえてしまう。