二、現世−7
「行くって、どこに!?」
「恩田家。俺ここらへんの地理知らないから、道案内頼むぞ」
それを聞いたとたん、ホタルは抱きかかえられたカナデの腕に爪を立てた。
「嫌、絶対行かない!」
「歩いていける距離だよな? 一時間も歩くんだったらバスとか使わないと……」
「話聞きなさいよ!」
ホタルの声をとことん無視して、カナデはあっけにとられた表情をする和臣にいってきますの挨拶をする。はなびにはホタルの姿が宙に浮いてるように見えるのだろうか。和臣以上に目を見開き、けれど何もいわなかった。
「太陽浴びるなんて一年ぶりだ……帰りはゆっくり歩きたいな」
「だから、行かないってば!」
彼女が苦しまない程度に腕の力を強め、暴れて逃げ出さないようにする。軽快に踵を返し、出入り口ではなくすぐ脇の壁へとまっすぐに歩いた。
「何で黄泉は太陽がないのにあんなに明るいんだろうな……」
身構えもせず、ただいつもどおりに歩く。それだけで、簡単に壁をすり抜けることができた。
「環さん、いるかな。いなかったら職場まで行かないといけないな……何の仕事してるんだ?」
「……会いにいったって、どうせあたしのこと見えないわよ」
観念したのか、ホタルは大人しくなる。けれど口は達者なようで、そのごもっともな意見にカナデは口をつぐんだ。リノリウムの床は、実体のないカナデの足音をたてることがない。
「見えなくても、話ぐらいはできると思ってさ」
「声だって聞こえるわけないもの」
片手を手すりについて外を見やれば、中庭の木からすずめが飛びたっていく。今はちょうどよいぐらいの気温だけど、これからどんどん上がっていくことだろう。ホタルが顔を洗っても、雨は降らないらしい。
「環さんに会いたいって言ったのはホタルだろ? つまんない意地張るなよ」
嫌がらせにジャージに穴を開けようと牙をたてるホタルは、カナデに鼻頭をおされて口を離した。
「……会いに行くっていったって、心の準備がまだできてないのよ」
「じゃあ今のうちに準備しといてくれ」
冷たいともいえるカナデの返事に、彼女は小さく息を吐く。
「環はあたしのこと見えないのよ? 話だってできないのよ?」
「行けば何とかなるって」
カナデのデタラメな音程の口笛に、ホタルはますます脱力した。
「まだ生きてる人には、あたしの気持ちなんてわからないわよ」
「和臣だって、幽体離脱してる間はそこらの幽霊と同じで誰にも気づかれないさ」
「身体に戻れば、いつだって家族に会えるし話だってできるじゃない」
二度目のため息が手の甲にかかると、彼女はそこにあごを乗せる。ヒゲがあたったが、一瞬だけだった。
「カナデもそうよね」
「…………」
カナデは、答えない。
「うらやましいわ、戻れる身体があるなんて。――おろして、もう逃げたりしないから」
ゆるんだ腕の中から飛び出して、ホタルはカナデの数歩先を歩みはじめた。
ジャージのポケットに手をつっこみ、カナデは猫背気味に、リズムよく左右にふれる尾をながめる。
「……そうでもないけどな」
ガイドはその呟きにちらと振り返り、何も言わずに再び前を向いた。
6
「本当にここであってるのか?」
「ちゃんと『恩田』って書いてあるじゃない」
むっとした口調で答え、ホタルは身長差の激しいカナデを見上げた。
大きいとも小さいともいえない青い壁の恩田家は、病院から徒歩でも十分通えるぐらいの距離にあった。市内を流れる川に沿って歩き、似たような家のたくさんある住宅地をジグザグに曲がった。
一人で来いと言われたら、正直、自信がない。
「カナデも猫だったらもっと早く着けたんだけど」
「塀の上歩くのは勘弁してくれ」
インターホンを鳴らしもせず、カナデは勝手に敷地へと侵入する。ホタルの額よりは広い庭には、雑草の目立ち始めた花壇で小さなひまわりが咲いていた。
「おじゃましまーす」
身に染みついた習慣で、スニーカーを脱ぐ。あがりかまちに立ち、靴もきちんとそろえておいた。
左手の開け放たれたドアは、リビングに続いているらしい。すこしスペースを空けて、右手にはトイレ。そのすぐ隣に風呂場らしき脱衣所があった。
例の階段は、正面やや左にむかえていた。
とくに急というわけでもないが、段数がある。二階の廊下までの吹き抜けが空間を高く見せるが、どこか暗い印象を覚える。焦げ茶の壁と人が怪我をしたという先入観が、多少なり含まれていた。
事故現場をじろじろ眺めるとホタルの気にさわると思い、カナデはすぐに視線から外す。玄関とはうってかわって明るい日差しのこぼれるリビングをのぞくと、そこには環がいた。
「……環さん、仕事してるんじゃなかったのか?」
「フリーライターだから、たいてい家にいるのよ。会社にも行ったりしてるんだけど」
戸口にたたずみ、ホタルはしばし、複雑な感情の織り交ざった瞳で環を見つめていた。
カウンターつきのキッチンを背に、環はテーブルの上に運ばれたノート型パソコンの前でなにやら思案している。ホタルのいる位置だと、椅子の脚に絡ませた足から液晶画面を見すえる横顔まで、ポニーテールの後れ毛がちらついているのまでも、すべて視界に入れることができた。
ホタルの沈黙はそう長くなく、すぐに腰を上げてテレビの前に据え置かれたソファーへと飛び乗る。肘掛の部分におかれた傷だらけのクッションに顔をうずめ、久しぶりの我が家を全身で味わっていた。
テレビは電源が切られ、そのかわりにラジオが流れている。洗濯機の音が、なんだか他人の家だというのに懐かしかった。
環の背後に回るカナデは、無意識のうちに忍び足になっていた。集中した空気がぴりぴりと伝わってきて、物音を立ててはいけない気がするのだ。
画面を覗き込むときは、息まで止めてしまった。爪先立ちで額にひさしをつくり、目をこらして書きかけの原稿の文字を追う。
連載コラム、のようだ。
「子育てのこと書いてるのよ」
首だけをソファーの背もたれからはみ出して、ホタルが解説する。
「玉城蛍……」
「環のペンネーム」
ホタルがあくびをすると、血色のいい口内が丸見えだった。喉の奥には黒い色素沈着があり、舌は薄く逆三角形になっている。
「だいぶ行き詰ってるみたいね」
顔をクッションにこすりつけ、ホタルが背もたれの上に飛び乗る。環の眉間に刻まれたしわの数を数えて、「そろそろね」と呟いた。
「そろそろ?」
「集中力が切れるのよ」
間髪おかず、環が言葉になりきらない声をあげて身体をうんと伸ばす。組みほどかれた指がカナデの鼻先をかすめたが、彼女はまるで気づく様子がなかった。
そしてタイミングよく、洗濯機が電子音を発する。待ってましたといわんばかりに立ち上がり、環は鼻歌をうたいながらダイニングを出て行った。
「……びっくりした」
しばらく戻ってこないと予想し、カナデはそっと、環のぬくもりの残る椅子に座る。画面の中では中途半端に書き捨てられた文章が取り残され、凹凸の少ないキーボードのわきには飲みかけの麦茶が置いてあった。
おそるおそるパソコンに手をのばしたカナデは、触れる寸前で手を止める。
鼓膜の裏側で、なにか波長のようなものを感じたからだ。
「……タエ様?」
『鋭いわね』
彼女のとがった唇が、頭に浮かんだ。
『ここまで来たのはいいけど、アナタどうするつもりなの?』
「いや……」
乾いた笑みを浮かべ、カナデはパソコンから手を離す。椅子の背もたれに身体をあずけ、腿の間に手を入れて神の声に耳を傾けた。
「どうにかして、二人の間を取り持ちたくて」
誰もいないのに一人でしゃべりだしたカナデに、ホタルが目を見張る。徐々に高くなる陽光が横顔にかかり、瞳孔は本能にしたがい糸のように細くなっていた。