二、現世−6
「たとえあの時、ホタルが死ななくても、恩田親子よりお前のほうが先に死ぬのは決まってるんだぞ?」
「わかってる」
「そうしたらまた、悲しむ人がいる。今回みたいなことが起きなくても、ホタルが死ぬのは事実だ。蘇りたいっていう願いじゃ、ただそれから逃げてるだけだぞ」
「わかってる……」
「撫でてもいいか?」
返事はない。
ただ、ホタルは身を引かない。じっとうずくまり、身体が震えるのをおさえ、今までためていたものすべてを吐き出そうとしているようだった。
カナデは手を宙に浮かべ、漆黒の背がわずかに自分へとかしいだと見ると、乱暴に毛並みを逆立ててやった。
そこでホタルのひきつりが一瞬止まったが、首から尾へと毛並みを整えて撫でていくと、再び肩が震え始めた。
けれどもう、涙は流れない。
そして、ぽつりと呟いた。
「環に会いたい」
○○○
「じゃあ、学校、行けないの?」
昨日の涙で腫れたはなびの目が、わずかながらに見開かれた。
朝の回診の時間。主治医らしい女医は、点滴の痕が痛々しいはなびの腕を撫でながら、それを告げた。
『階段から落ちたとき、骨をちょっとややこしい折りかたしちゃったの。他の子より、リハビリに時間がかかっちゃうの』
ホタルが自分を責める最大の原因は、これだった。
たかが七歳の子供が、階段から落ちたときに、蒲田行進曲ばりの受け身を取れるわけがない。衝撃で複雑骨折した足は治りに時間がかかるが、頭を強打して頚骨を損傷しなかったのは奇跡といえた。
「はなびちゃんの頑張り次第で、早く行けるようにはなるけど……」
始業式には間に合わない。小さくふった頭の後ろで、シニヨンをとめるコンコルドが朝日を反射した。
朝日を浴びるのもまた久しぶりのことで、カナデはこっそり窓際に移動する。ホタルがごとく目を細め、大きく伸びをし軽くラジオ体操の真似事をした。
後ろでは、朝に持ち出すべきではない、重たい話をしている。寝起きで回りきらない頭に話しかけてショックを軽減させているのなら、女医も頭がいいと密かに思ってみる。
そもそも、退院はいつかと訊きだしたのははなびのほうだ。学校に行けないのがよほどこたえたらしい、また唇を噛んでいた。
それがクセだからだろうか、はなびは下唇が厚い。なにかと口元に目がいってしまうのはカナデだけではないらしく、女医は指でそれをやめさせた。
「……はなびが頑張ったら、来年の花火大会までには、歩けるようになる?」
「もちろん」
「和ちゃんと一緒に、行ける?」
「もちろん! 初詣だって行けるわよ!」
その力強い肯定に、はなびの顔はまたたく間に笑顔となっていった。
「じゃあ、すぐリハビリする!」
「まだ骨がくっついてないからダメ」
ふとした時にみせる気ぜわしさも、母親譲りらしい。女医に笑われて、はなびははずかしそうに和臣を見た。
退院の日取りを教えられた和臣は、すこぶる健康そうだ。はなびと目が合って笑うしぐさは、立派に恋愛論を確立させている。
「……最近の子はみんなそうなのかね」
カナデはぼそりと呟き、陽光ににじみ出た涙をぬぐった。
和臣のベッドの下で、ホタルも今の話を聞いていただろう。はなびはホタルのことを責めてなどいない。身体だって、時がたてば元に戻るのだ。
どうやって言い聞かせれば、彼女は納得してくれるだろう。
回診が終わると、カナデはおもむろに口を開いた。
「ホタルは、生前どんな性格だったんだ?」
視界の奥に、和臣の驚いた顔が見える。
「ホタルは、生前どういう子だった?」
答えが返ってこないので、カナデは再び問う。でも、やっぱり返事はない。
昨日のお土産のジュースを飲み、はなびはぼうっと脚のギプスを眺めていた。
「ホタルは……」
やっぱり、はなびにはホタルしか見えないらしい。小さな嘆息をこぼし、カナデはじっとこちらの様子をうかがう和臣に目を細めてみせた。
「和臣、通訳してくれ」
「うん」
ご指名がかかり、和臣が嬉しそうに首をふる。そのわずかな声に、はなびの注意がひかれた。
「和ちゃん、どしたの?」
和臣の視線に、小首をかしげようとする。指で窓際をさされて、無人の空間を見るようにうながされた。
「そこに、カナデ兄がいるんだ」
「ここに?」
カナデははなびの目の前で手を打ち鳴らしてみるが、その音ですら聞こえないらしい。大きな目を細めてみせるけど、やっぱり焦点がカナデに合うことがなかった。
「ホタルのこと、訊きたいんだってさ」
「いいよ」
はなびの即答が、実にすがすがしい。それに肩をすくめて、カナデは腕を組んだ。
「ホタルは、死ぬ前どんな性格だった?」
「……ホタルは、死ぬ前どんな性格だった? って」
一言一句違わず、和臣はそのまま伝える。はなびは肩で顔の向きをかえ、和臣の通訳を聞き、カナデのほうを向きなおして答えるという実に細かい動きをしてくれた。
「はなびとかお母さんとかお父さんとか、なれてる人にじゃないと身体をなでさせてくれないんだよ」
警戒心が強いのは、やはり生前からのことらしい。
「はなびが生まれる前から……お母さんが子供の頃に飼い始めたんだって。だからホタルははなびのお姉ちゃんだし、お母さんだよ」
「死んじゃって、悲しかった?」
その質問には、苦々しい顔でうなずくだけだった。
「ホタルが見えるってわかったとき、どう思った?」
「嬉しかった……なのにホタル、はなびから逃げたんだ」
頭の中でそのことを回想しているらしい。瞼を閉じ、無事なほうの脚がかすかに動く。
「ホタルね、はなびとお母さんがケンカするから、ずっとはなびに見つからないようにしてたの。でもはなび、どうしてもお母さんとホタルを会わせたかったんだ」
ぱっと目を開き、カナデのほうをみて笑ってみせる。
「その時に階段から落ちちゃったんだ。これはホタルのせいじゃないよ? ちゃんと足元見なかったはなびが悪いんだ」
その瞳が偶然に、カナデの顔をとらえた。
「……ホタルに一番会いたがってるのは、お母さんなんだよ」
けどそれも一瞬のことで、彼女はシーツのしわをのばしながらポツリポツリと言葉をつむぐ。
「お母さんよく、はなびに隠れて泣いてたんだ。ホタルがいたって言ったら、怒って、いつもその後泣いてたの」
小さく息をつき、続ける。
「だからどうしても、ホタルをお母さんに会わせたくて。お母さんがホタルのこと見えないなら、はなびが伝えようと思って」
わずかに曲げられた唇は、自分の姿をあざ笑っているかのようだった。
「……他に質問、ある?」
沈黙に耐えられなかったらしい。はなびはそう言って、カナデをせかした。
けれどカナデにもう、訊きたいことがなかった。
「和臣。はなびにありがとうって伝えてくれ」
一緒に、頭を叩くようになでる。つらいことを思い出させてごめん、と、声に出さず心で伝えておいた。
もちろんカナデははなびに触れることがなく、はなびもカナデの手の感触を知ることはない。「どういたしまして」と返ってくる頃にはもう、カナデははなびから離れていた。
「――ホタル、いるんだろ?」
床にひざをつき、カナデはベッドの下を覗き込む。薄暗いそこには、影に同化しきれない白い尾があった。
ホタルはカナデに気づくと、身を起こして近づいてくる。暗いところにいるため、瞳孔が丸く開かれていた。
「俺たちが現世にいられる時間も限られてるんだ。いつまでもここにいたってしょうがない」
出てこい、と遠まわしにいう。ホタルはカナデの真意を探ることができず、あと一歩というところでパイプの陰に隠れてしまった。
それに小さな舌打ちをし、カナデは腕を伸ばして無理矢理引っ張り出した。
「さ、行くぞ」
「ちょ、離してよ!」
有無をいわせずといった様子のカナデに、ホタルがたまらず声をあげた。