二、現世−5
5
ホタルが死んだのは、まだわずかに雪の残る、初春。はなびが卒園して、入学準備がある程度整った頃だった。
オレンジのランドセルを背負い、嬉しそうに家の中を走り回るはなび。ホタルにそれを自慢して、勉強道具のかわりに足腰の弱くなった自分を入れてくれたりもした。
冬が去るのを名残惜しむように、氷雨が降った日。ホタルの死に、環と同じぐらい、はなびも泣いていた。
自分が弔われる様を、ホタルは魂となった姿で、まるで他人事のようにながめていた。
屋根を打つ雨雪の音が、すすり泣きに包まれた空間を寒々しく埋めていった。
幽霊になったのはいいけれど、どうやって成仏したらいいのかわからない。ホタルはとりあえず四十九日まで待つことにし、人知れず家の中に潜んでいた。
生前使っていたお気に入りのクッションなどはまだ残っていたから、よくそこで横になった。死んでからみょうに身体が軽くなってしばらく慣れなかったけど、何の踏み台もなしにテレビの上に飛び乗ることができて、若さを取り戻したような気分だった。
『――ホタル?』
そんなホタルの姿を、はなびの眼はとらえているようだった。
生まれた時からずっと一緒にいた家族が死んだショックで、しばらくの間ふさぎこんでいたはなび。けれど入学して新しい友達が増えてから、次第に活発さを取り戻しつつあった。
たしかその日は、腕にタンポポの時計をしていた。毎年春になると、はなびは大量のタンポポを摘んで帰り、真っ黒な毛並みに花粉をつけてくれたものだった。
『お母さん、ホタルがいる!』
『どこにいるっていうの?』
『ホラ、そのクッションのとこ――あれ?』
『いないじゃない。気のせいよ、はなび』
ただし見えるのは一瞬だけで、目の錯覚としてあしらわれるのがほとんど。
本人も最初は幻だと思うことにしていたが、日がたつにつれ見える時間が長くなると、それがホタルであると確信したようだった。
見かけるたびに報告される環は、それを受け止めることができなかったらしい。はなびが嘘をつく子ではないとわかっているけど、自分が見えないものを信じることはとても難しいことだった。
そしていつしかはなびがホタルの報告をすると、口調に怒気が含まれるようになっていた。
『お母さん、ホタ――』
『ホタルなんていないの!』
母子の間に溝ができるのを懸念して、ホタルははなびの目のつかないところに隠れるようになった。
それでも家を離れる気にはなれず、はなびが学校にいっている間は、クッションの上にいた。そこからだと、仕事に取り組む環をよく見ることができた。
環には、ホタルが見えない。それに、ホタルは悲しみを覚えた。
ホタルにとって、環はなにより大切な相棒だ。家族よりももっと、強い絆で結ばれていると思っていた。
だからこそ、見えないことが悲しかった。
事が起きたのは、四十九日が過ぎたころだ。
『はなび最近、ホタルがいるって言わないわね』
『うん……ホタル、どっか行っちゃった』
ホタルはいまだ現世にとどまっていた。
長らく姿を見られていないから、気が緩んでいたのだろう。はなびが二階の自室から出てきたので、近くのものに身を隠す。そのタイミングをあやまってしまったのだ。
ホタルの象徴ともいえる尾が、はなびに見つかってしまった。
『――ホタル!』
長らく会っていなかったため、はなびの喜びもひとしおだっただろう。
なのにホタルは、逃げた。
『ホタル、どうして逃げるの?』
その頃にはもう、はなびはホタルの姿を完全にとらえることができるようになっていた。
猫と人間の、身体能力の差。ホタルは身軽に廊下をかけ、段とばしに階下へと降りる。
もちろん、はなびも後を追ってきた。
『お母さん、ホタルが――あっ!』
『はなび!』
娘が階段を踏み外し、転げ落ちる。それを、環は見た。かけつけても間に合わない。そうわかっていたのか、それとも恐怖で足がすくんだのか、ダイニングのドアノブを握りしめたまま、微動だにしなかった。
嫌な音を立ててはなびがフローリングに転がっても、それは変わることがなかった。
『――環!』
だからホタルは、聞こえないとわかっていても、呼んでいた。
倒れたまま動かないはなびに、驚きと恐怖で、尾の毛が逆立つ。
それは、はなびの無事を知るまで、おさまることがなかった。
○○○
「……環は、あたしがはなびを連れてこうとしたと思ったのよ」
どこに? という愚問はしない。行き先が死後の国だということぐらい、カナデにも見当がついた。
黄泉のときのクセで、カナデは手すりにひじをつき、夢中で窓ガラスごしに空を見ていた。
もうすっかり日が沈み、数え切れないほどの星がめまぐるしく瞬いている。それがこんなに綺麗なものだということを、カナデは初めて知った。
今まで見てきた黄泉の空は、作り物のような空だった。空がまるで天井のように、圧迫感のある空。やはり現世の空は綺麗だなと、しみじみ感じてしまう。
「……ちょっと、聞いてる?」
「聞いてない」
涙声で話すホタルには悪いけど、カナデは途中から、星空に魅入られて聞く気を失っていた。
気になることといえば、ひとつ。
「どうして、さっき、はなびから逃げたんだ?」
「それは……」
ホタルは口ごもり、手すりの上で身体を丸めてしまう。輪をかけたような猫背が、光を受けて毛並みを反射させていた。
カナデはそれを、撫でてみたいと思う。ホタルは毛がふさふさ立っているのではなく、身体の線にそって流れている上品な猫だ。毎日神経質なほど手入れされていて、毛玉なんてどこにもなかった。
今手を伸ばせば、ひっかかれる。そう悟って、カナデは黙って彼女の答えを待った。
「はなびに、嫌われたから」
「もうちょっといい嘘つけよ」
間髪あけず、カナデはそれを否定した。
「自分を責めてるんだろ?」
顔を寄せて覗き込めば、丸い瞳はそらされ、滅多に見えない白目があらわとなる。
「自分が見つからなければ、はなびは追うことがなかった。自分が逃げなければ、はなびは階段から落ちることがなかった。ってさ」
ホタルの沈黙は、肯定を意味する。
「それは、事故だ」
重力にしたがっていた白い尾が、次第に振り子のように振れていく。
「お前はわざとやったわけじゃない。ならそれは事故で、はなびもそれをちゃんとわかってるさ」
はなびはあの時なにを言いかけていたのか、カナデにはわかった気がした。
『はなびがケガしたの――』
「『自分のせいだって言ってなかった?』って、俺に訊こうとしてた」
「だってあたしのせいだもの」
「ホタル……」
なかなか納得してくれそうにない。
「きっと環さんだって、わかって……」
「嘘!」
カナデにすべてを言わせず、ホタルは叫んだ。その声が大きくて、奥で翻訳される前の声までしっかりと響いてくる。
病室にまで届いたのではないかと心配になったけど、はなびや和臣がやってくる気配はなかった。
「環は、あたしのことゆるしちゃくれないわ!」
叫びが叫びになりきらず、引き裂いたように、ホタルの声がかすれた。
「だってあたし……」
言葉になりきらず、ただ、鳴く。
それでもかすかに聞こえたものに、カナデはため息をつくしかなかった。
「蘇りたいっていうのは、自分が死んだ過去をなくしたいからか? 自分が死ななかったら、親子の仲も悪くならなかったし、はなびも階段から落ちることはないから?」
「そうよ」
堰を切ったようにあふれ出した涙は、環が流した涙とはものが違った。
「そうすれば、こんなことにはならなかった。環があたしを思い出しては泣くこともない」
ホタルの涙は、空気のようなものだ。綺麗な弧を描いたまつげから落ちると、しずくの形をつくって床に落ちる。窓ガラスについた雨粒にも、よく似ていた。
死んでから今までの涙がすべてあふれているかのように、次々と空気が変化していく。それでも声を噛みしめるホタルの背に手を伸ばし、カナデは寸前でとめた。