二、現世−4
「はなびが病院から出られないんじゃ、仕方ないじゃない」
「でも、毎年みんなで行ってるのに」
ただ、彼女はダダをこねるという困ったことはしない。唇の裏を噛み、それをとがらせることで隠していた。
「来年があるから、ね?」
「和ちゃんと一緒に行きたかったのに」
その言葉に、環は「まっ」と声をあげた。なだめるために撫でていた頭を頬にずらし、期待をこめたまなざしで和臣を見る。
「和臣君、はなびと約束してくれたの?」
「……うん」
耳を赤くして、和臣は首肯する。そのわずかな動作で、環の目は糸のように細められた。
「大丈夫よはなび、花火大会行けなくても、和臣君はいなくならないから」
今度は「ねっ?」と和臣を見る。恥ずかしさのあまりうつむいた頭を、カナデは含み笑いでこづくふりをした。
「さっすがはなび、私の娘」
誇らしげに、環は寝乱れたはなびの髪を櫛ですきはじめた。
「だから家に帰りたーいって泣いたりしないのね。泣き虫なのに全然看護師さん困らせないと思ったら、ふぅん、なるほどねぇ……」
一人で納得しながら、鮮やかな手つきで三つ編みにしていく。その様子は看護ではなく母親そのもので、カナデはタエが時折見せる表情が母性ではないと初めて気づいた。
「色男」
カナデが野次れば、和臣に前髪の間から睨まれる。当たり前だけどカナデの姿が見えない環は、何も知らずに朗らかな声をかけた。
「和臣君、はなびの誕生日は花火大会の日だから、覚えておいてね」
「来年は一緒に行こうね!」
「うん」
照れながらも、和臣は嬉しそうに笑った。カナデがにこりと純粋に微笑む和臣を見たのは、これが初めてだった。
けれど、また手が腹部に下りたのは見逃さなかった。
「はなびん家、毎年花火大会行ってるの。前ね、くじで三等当てたことあるんだ……」
それでも、はなびの思い出話をちゃんと聞いている。射的でゲームソフトをとってもらったことがあると、自ら積極的に話に参加していた。
だからカナデは、訊くタイミングを失ってしまった。
――花火大会っていつだ。
和臣から、毎年夏に花火大会があることは聞かされていた。会場は河川敷で、その近くに神社があり、夏祭りと秋祭りは同じ会場であること。そして去年は事情により、花火があがらなかったことも。
「誕生日って言えるんだから、毎年同じ日なんだろうけど……」
「八月十五日よ」
声がして、カナデは足元を見下ろした。
「十四日に歌謡ショーがあって、十五日に花火大会があるの。十六日は灯篭流しよ」
片耳をピクリと動かし、ホタルは大口であくびをする。
「ちょうどお盆だからね。里帰りの人も来るから、けっこうにぎやかよ」
身体をうんと伸ばしてうずくまる背に、あえていつ来たのかは訊かず、カナデは小声で話しかけた。
「……はなびは、花火大会の日に生まれたからはなびなのか?」
「そうよ」
予想はしていたけど、即答されるとどうにも笑ってしまう。尾だけ色が違うからホタル。花火大会の日に生まれたからはなび。
「覚えやすくていいでしょう」
「そうだな」
環は幼い頃の感性が、今も継続されてるらしかった。
カナデが光を背負うため、影にいるホタルの瞳は黒く丸い。それは楽しげな笑い声のするほうを向いたけど、決して顔を出すつもりはないようだ。
「なぁ、ホタル」
「話があるの」
「……その言葉、そのまま返してやるよ」
嘆息するカナデにかまわず、ホタルは腰を上げる。
「ここじゃできないのか?」
「環がいると落ち着かないのよ」
環が来ているのを知っていたらしい。和臣たちの団欒を見ないよううつむいて、彼女はカナデをせかした。
「はやく」
「まぁ待てって」
立ち上がり、カナデは和臣にその旨を耳元で伝える。はなびたちの話を聞き、目線はずっとそちらにあっても、彼は器用に手で了解サインをつくってくれた。
それはほんのわずかで、ただ手を動かしただけにしか見えないはず。環は思惑通り気づかなかった。
が、はなびは別だった。
「和ちゃん、ホタルがいるの?」
手の動きを見るだけで、そこまではかることができるのか。
カナデはひそかに感心したが、はなびのそれをゆるさない者が一人、いた。
「はなび、変なこと言うんじゃないの」
環だ。
「ホタルは死んじゃったの。いるわけないでしょう?」
かねがねそう言い聞かせているらしく、口調は念を押すようだ。けれどそれに、娘は臆さなかった。
「でもお母さん、はなび見たもん」
「それはただの、目の錯覚」
「見た。あの日だって、ホタルがいて……」
「だから階段から落ちた、でしょう?」
環の声が冷ややかになり、ようやくはなびは肩をこわばらせる。また、唇を噛んだ。
「だったら、ホタルが落としたのね」
「違うもん!」
はなびが声をあげると、環もつられたように声を重ねて立ち上がった。
「馬鹿なこと言わないで!」
それは部屋中に響き、一瞬にして場の空気を止める。みな、一様に息をひそめてこちらの様子をうかがった。
水を打ったような静けさの中、環の声だけが、四方に散って天井で消えた。
「ホタルは死んだの! もういないの! 見えるとか、変なこと言わないで!」
環はさらに何か続けようとし、それをこらえて息だけを吐く。肩を大きく上下させ、しばし立ち尽くすと、荷物をつかんで部屋を飛び出してしまった。
環の怒声の余韻が残り、部屋では誰も、口を開こうとしなかった。
ただ、はなびのすすり泣きだけがあった。
「ホタルはいるもん」
「はなび……」
たまらず、和臣はベッドから降りる。
「ホタルはいるもん、さっきだって会ったもん」
頬をつたう寸前で涙をふき、鼻水を何度も何度もすする。和臣に泣き顔を見られるのが恥ずかしいようだったけど、首を固定されているため手で覆うことしかできていなかった。
「はなびが階段から落ちたのは、ホタルのせいじゃないもん。はなびが悪いんだもん」
和臣は何もいわず、ただ頭を撫でる。なぐさめ役が和臣に決まると、すこしずつ、室内の空気が戻っていく。
「ホタルは悪くないもん」
カナデがちらりとホタルを見ると、彼女は背を向け、視線をまっさらな床にそそいでいた。
「和ちゃん。ホタルは、いるもんね?」
はなびの問いに、和臣は答えなかった。
何も言わず、ただ頭を撫で続ける。もう片方の手はまた腹部にあって、シワのできたパジャマをきつく握りしめていた。
「……カナデ、もういい?」
ゆるりと首をもたげたホタルは、とげのある声で言った。
「話聞いてくれるんでしょ? 外に出よう」
「もう環はいないけど?」
「はなびがいても落ち着かないの」
語尾に、微々たる怒気がふくまれている。それに気づいたカナデが顔を覗き込もうとすると、ホタルは過敏に拒否した。
「今の、聞いたでしょ? あたし環に嫌われてるのよ」
「嫌ってるもんか」
カナデの否定に、きつく睨みあげてくる。
「知ったような口きかないで!」
「知ったようなもなにも……」
浅く息を吐き、カナデはその瞳を指さした。
「泣いてた」
さされた瞳は、その言葉を信じられずに泳ぐ。
「環さん、泣いてた。はなびが変なこと言うから泣いてたんじゃないのぐらい、俺にだってわかるさ」
「でも……」
口ごもりながら、ホタルは顔に手をやる。猫が顔を洗うと雨が降るというけど、ホタルの今のしぐさで、明日雨が降るのだろうか。
彼女が声を発したくないのを知っていて、カナデはあえて声をかけた。
「部屋から離れるといろいろ支障があってね。話すなら廊下にしよう」




