二、現世−3
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「――カナデ兄」
日が落ちると病室のベッドは全て埋まっていて、和臣の声も必然的にひそめられていた。
おのおの好きなことをしているので、和臣が小声で何か話していようとも、誰も気に留めることはないだろう。ジャージのポケットに手をつっこみ、カナデは患者を一人ひとり観察しながら再び腰を下ろした。
「飯は?」
「もう食べたよ」
黄泉での食事と違って、実に満足そうだ。
けれど、ホタルを連れてこなかったことは不満らしい。
「ホタルは?」
「『探さなくても帰ってくるわよ』って、さっきタエ様が」
「タエ姉、来てるの?」
「いや、黄泉から見てるだけ」
やはりというかなんというか、和臣は落胆した。
「……和ちゃん?」
そんな和臣を、はなびが不思議そうな目で見る。
「そこに、カナデって人がいるの?」
「見えない? 黒い服着てるんだけど」
「見えない」
はなびは横たわったまま、目をこらしてカナデの姿を探す。視線はちょうど顔にあたっているのだけど、確認できないために焦点が合わず、ただ宙を泳いでいるだけだった。
その様子に、和臣はまた肩を落とす。
「ホタルしか見えないみたいなんだ」
「はなび、幽霊なんて見たことないもん」
彼女は唇を尖らせすねてみせたけど、カナデも和臣もそれを曖昧な笑みで流しておいた。
「和臣。はなびは、恩田環の娘なんだろ?」
「たぶんね」
「……和ちゃん、なんて言ったの?」
「はなびは、恩田環って人の娘なんじゃないかって」
さっきはホタルに気を取られていたので、カナデが彼女を今回の関連者として見るのはこれが初めてだった。
つややかな黒い髪は耳の上で二つに結ばれていて、口は笑うとなお大きくなる。カナデは恩田環を実際に見たことがないけど、はなびは母によく似た面立ちをしているのだろう。
カナデには、髪や唇より、くるみのような大きな目が印象的な子だった。
「……和臣、お前、あの子にどこまで話したんだ?」
不安になって、カナデは和臣に小声で訊いた。別にはなびには聞こえないのがわかっているのだけど、まだ気分までは幽霊になりきれていないのだ。
「どこまでって?」
「黄泉のこととか、ホタルがなぜここにいるのかとか、俺が玉梓だっていうこととか」
「何も言ってないよ」
和臣が胸を張って言うので、カナデはほっと安堵の息をついた。
現世の人間が黄泉の存在を知るのは、なんとしても避けたいことだ。黄泉や願い神の存在を知れば、それを目当てに命を投げ捨てる者が大勢出るかもしれない。
だから、和臣が黄泉を行き来するのも喜ばしいことではないのだ。
「カナデは、天国でのホタルの飼い主ってことにしてる」
「……うまい言い訳だな」
その賢さを揶揄しているのだけど、和臣はわかっているのかいないのか。口角を上げて、話しかけてくるはなびを振り向いた。
「ホタルのこと、いじめてない?」
てっきり和臣にだと思ったら、カナデに対して話しかけているようだ。
「いじめてないよ」
しかも和臣は、カナデの返事も聞かずに返してしまう。別にいじめてると答えるつもりはなかったのだけど、無視されたようでなんともさびしい気持ちになった。
「ホタル、はなびのこと何か言ってた?」
「何か、って?」
言うも何も、恩田はなびの存在を知ったのは現世に降りてからだ。語り手のホタルは行方不明だし、カナデにはなんの情報も与えられていない。
自分から話をふったけど、内容を話すには何かためらうものがあるようだ。はなびはしばし沈黙し、固定された首に手を寄せた。
そして、意を決して口を開いた。
「はなびがケガしたの――」
「はなび! 遅くなってごめんね!」
それを遮ったのは、先ほどエレベーターで居合わせた女性だった。
息を切らし、病室で注目を浴びるのもかまわず小走りにやってくる。腕に抱えられた花束は、大きく揺さぶられてすっかり疲れきってしまっていた。
「お母さん!」
その花束を受け取り、はなびは心底嬉しそうな顔をした。
「ごめんね、また迷っちゃって。もう何回も来てるのに」
女性は早口にそう詫び、はなびに調子を尋ねる。ベッドを調節して身体を起こさせ、花瓶の花をかえてくるとまた小走りに病室を出ていった。
気ぜわしい人だな、とカナデは印象づける。
そして、首をひねった。
「お母さん……?」
はなびはたしかに、彼女のことをそう呼んだ。
ということは、彼女が件の恩田環だ。
にわかに信じられなくて、カナデは和臣に訊いていた。
「そうだよ? 今のがはなびのお母さん。ボク、名前は初めて知ったんだけど……」
名前なんてどうでもいい。カナデはただ、彼女を見たとき、とっさにはなびの母だと思えなかったのだ。
はなびの未来図をそのままあらわしたような、血縁者だと言われても非のつけられない女性。姉としては離れすぎているけど、母とも思えないほど、彼女は若い。
ホタルの話を思い起こせば、今の恩田環は二十六歳だ。
「はなびがいくつか、わかるか?」
「七歳じゃないかな? わかんないけど、今小一だよ」
彼女がはなびを産んだのは、十九歳。
「……別に今の時代、驚くことじゃないか」
悶々とした気持ちを抱えつつも、カナデは無理やり結論付けた。このご時勢、十代で子を産む女性もそう少なくはないのだ。
カナデの母は、何歳で自分を産んだのだろう。考えてはみるものの、答えは出なかった。
和臣は、はなびと同じ小学校に通っているということも教えてくれた。
「学校で何回か見かけたこともあるし、家も近いんだってさ」
仲良くなったのは、入院してから。和臣は苦笑まじりに言うけど、嫌そうではなかった。
環が戻ってきた。
ようやく和臣を目にする余裕ができたらしく、おみやげのお菓子をおすそわけする。頭を撫でながら顔色を見る様は、彼女が看護関係にあるのかと思うほど手馴れていた。
「和臣君、調子はどう?」
「もうすぐ退院できるって、お医者さんが」
「そっか……はなびも寂しくなるね」
いつの間にか、先ほどの気ぜわしさも消え、落ち着きを取り戻している。ベッドに椅子を寄せ、鞄から着替えなどを取り出し始めた。
「お母さん、面会時間まだ大丈夫なの?」
「大丈夫。片付けだけだから、はなびとお話できるよ」
どうやら、面会時間を気にして焦っていたらしい。使い込んだ腕時計で時間を確認し、環は無駄な動きなく身辺を片づけていった。
「今度はもっとゆっくり来るからね」
「はなび平気だから、お母さん仕事行っていいよ」
その口調が和臣にそっくりで、カナデは思わず笑ってしまう。
いぶかしげにこちらを見てくる和臣に、カナデは再び尋ねた。
「恩田環がなんの仕事してるか、知ってるか?」
「さぁ……ホタルなら知ってるんじゃないの?」
そのホタルがいないのだ。
家の話をする恩田母子には、とくにおかしなところは見受けられない。先ほどはなびが言いかけたことは後回しにされたし、とにかく願いの中心であるホタルがいなければ話は進まなかった。
貧乏ゆすりを始めそうになるのをこらえ、カナデはホタルの帰りを待つ。もう一度探しに行こうかとも思ったが、タエの忠告が耳に残り動くことができなかった。
「お母さん。はなび、いつ退院できるの?」
「……夏休みはずっと病院かな」
「二学期は?」
「どうだろ、はなび次第だよ」
環の返事には、何かが隠されている。カナデはすぐそれに気づいたけど、隠された事柄までは探ることができない。
「はなびは、どうして入院したんだ?」
「階段から落ちたって」
和臣が入院した時には、もう隣のベッドで寝ていたらしい。
「じゃあ、今年の花火大会は行けないの?」
はなびの声が、ふいに高くなる。静かな病室に、その声はよくとおった。