守護龍
越前進が異世界に転生し、この町、テスリスに来て、テスラの家でニートのような生活を始めてから一ヶ月位が経った。
あの日、同じ電車に乗っていた女性のことは依然気になっていたが、テスラの家の居心地が良すぎるので何も考えずに食ったり寝たりを繰り返していた。
労働の義務という感覚が特に無いらしいので、仕事はテスラの父、ガハクが全てやってくれるし、家事も全部テスラがやってくれた。
偶然平沢進の曲が全部入ったマイクロSDカードとスマホの手動充電器を見つけた越前は、毎日24時間平沢進を聴き続けた。
そしてふと、異世界転生したのに自分には何の突出した能力もドラマチックな展開も無いなと思った。
折角異世界転生したんだから何か異世界転生らしいことをしようと考えた越前進は、異世界転生をテーマにして小説を書くことにした。
ノートとペンをコンビニで買ってきて、(そう、この異世界にはノートもペンもコンビニもある)それに1日1ページ、それっぽいものを書くことにした。
「テスラ、この世界には龍とかいないのか?」
「居ることは居るけど、別に面白いものじゃないわ、普通に喋るし、200年生きてるけどエヴァンゲリオンっていうよく分からない神話の話を延々聞かされるわよ、多分1時間で飽きると思う」
「あまり愉快な題材じゃないな…」
「この町は人間の町だけど、別の町に行けば他の種族も沢山いる、エルフやリザードマン、ドワーフ、喋る獣達…はもうアグロに会ったことがあるわね、エチゼンは」
「そうか…そう言えば、アグロはどうしてアグロと呼ばれることを嫌がってるんだ?」
「よく居る馬の名前だからよ、猫にタマとかクロとか付けるのと同じだから」
唐突に、越前進は、突拍子もないある事を思った。
『もしもこの世界の住人が全員異世界転生者だったら』?
それは何の根拠もない越前の勝手な妄想だったが、越前はテスラとの会話に真理を見たような気がした。もしそんな狂った前提があったとしたら、テスラやガハクがやけに元の世界の文化や越前自身を簡単に受け入れることにも説明がつくんじゃないか…?
いや、ただの妄想かもしれない。テスラはこの町で産まれたと言っているし、もし全員異世界転生者だったら、町の様子ももっと元の世界の面影が強く残っているはずだ。
「どうかしたの?エチゼン」
「いや、急に元の世界が懐かしくなって…」
「そう、その、エチゼンが前にやっていた、コンビニバイトという仕事は楽しかった?やり甲斐はあった?」
「正直、全くない、あの世界では働くことは義務だったんだ、やりたいからやる、みたいなものではなかった」
「不自由な世界ね、そんな世界には住みたくないな」
「でも、コンビニの制服を着ている女の子のことをやたらと可愛いと思うようになった」
「制服というのは、その仕事専用の衣服ね?お父さんの着てるみたいな」
「そうだよ、初めて可愛いと思ったのはファミマミクさんを見た時かな…」
「それも、美少女キャラクター?」
「ハツネミクっていう、すごい人気の女の子のキャラクターがいたんだ、彼女はちょっと特殊で、美少女キャラクターなのに歌ったり踊ったり、ライブだってしていた」
「ライブっていうのはお祭りみたいなものね?この町でも時々やってるわよ、私も皆の前で踊ったことがあるわ」
「テスラの踊っている所か、見たいや」
「少し踊りましょうか」
「え?」
テスラは越前の手を強く引っ張って、夜の町の広場まで走っていった。今まで見たことないくらい顔を輝かせて。朱に染まる頬の汗がキラキラと光る。
テスラは激しく踊った。足運びとしなやかな手の動き、越前は無心でそれを眺めていた。狩りをする獣が、尻尾をゆるやかに動かして獲物を油断させるような、そんな魅力的な動きをしていた。
タンタン、とテスラが足を揃えて踊りが終わった。
越前は我に返り、小さく拍手した
「なんか馬鹿みたいな顔してるわよ、エチゼン。」
息を切らしながらクスクスと笑うテスラ。
「すごいよテスラ、美しかった」
「ありがとう、踊りにはちょっと自信があるのよ」
越前とテスラが家に帰る途中、空が突然暗さを急激に増した。
越前は昔、YouTubeでクジラの鳴き声を聴いたことがあるが、それに似た、如何にも巨大な生物の吠えるような声が響いた。
「あれは?」
「え?」
「今、空にいるもの」
「暗くて何も見えないわ」
「見えないんだけど、居るだろ、何か」
この町の上を今も通過している。何かが。
「聞こえないが?この声が」
「何も、風の音だけよ」
風の音よりも大きいこの鳴き声が聞こえないのか?
「もしかして、エチゼンの守護龍かもしれないわね」
「守護龍?」
「本当は龍ではなくて、神様みたいなものなんだけど、守護龍はその人にしか見えないし聞こえないから」
龍も見たことがないのに。余りにも巨大すぎる。殆ど空そのもののような。巨大で黒い。
「守護龍は主を選ぶ。エチゼンは選ばれたのかもね」
「選ばれるようなこと何もしてないぜ」
「何か物語を書き始めたでしょう?それが影響しているのかも」
「昨日食べたシチューのレシピと感想を書いただけだ!変なものは何も書いてない」
この鯨の声は何と言っているのだろう?
チ カ イ
越前にはそう聴こえた。