異臭
カボチャを大量に乗せた馬車が若い夫婦の死体を轢く。
血と泥の着いた車輪は硬い土の上をゴロゴロと転がっている。
正午を告げる教会の鐘。
一匹の美しい蝶が少女の鼻に止まる。美しいエメラルドの瞳と、黄金に輝く美しい髪、柔らかな唇。少女は蝶に気付かない。少女は死んでいた。
市場の焼け跡。そこら中に槍や、桑や、折れた矢や割れた剣が落ちている。
木の小屋がまたひとつクシャッと潰れた。
越前進は、人の肉の焦げる匂いを初めて嗅いだ。
端的に言うと、越前進は異世界転生した。
それまではしがないコンビニのバイトだった28歳の越前進は、店に入ってきた猛烈な異臭を放つ浮浪者にこう言われた。
「何でもいい、食いもんをくれ、一週間雨しか飲んでないんだよ」
この辺りは浮浪者が多く、餓死する浮浪者も決して少なくはない。越前進は迷った。しがないコンビニの一アルバイターに徹して男の救いを求める声を業務的に拒否するべきか。それともこっそり、おにぎりやパンでも渡してこの浮浪者を助けるべきか。
越前進は人に隠し事をするのが苦手だ。誰かに何かを黙ってやってしまうことが出来ない。昔働いていた会社でもそうだった。わざわざ聞くまでもない許可を求めては上司に怒られ、それが積み重なって融通の効かない人間だと判断されて会社をクビになった。
迷った末に、越前進はコンビニの先輩にこの浮浪者に何か食べ物をあげてもいいかと尋ねた。何故か一瞬だけ好きな美少女キャラクターの絵が頭に浮かんだ。
「勝手なことしないでね。食べ物あげたいんだったら、その分は越前くんが自分の金で買ったら?そしたら僕は何も文句言わないよ」
浮浪者はコンビニのバイトとしての越前に「食い物をくれ」と言ったものだと勝手に思い込んでいたが、別にコンビニの店員じゃなくても、ただの越前進が食べ物を自分のバイト先で買って、それを浮浪者にあげれば良いのだった。
越前はこんぶのおにぎりを自分で買って、浮浪者に与えた。
浮浪者はおにぎりのビニールを食い破っておにぎりを貪った。
越前には浮浪者が狼に見えた。
それは幻覚ではなかった。浮浪者は狼だった。
身に纏ったボロ切れだと思っていたものは狼の毛皮だったのだ。
人語を話す狼は礼を言った。
「越前進、この恩は絶対に忘れない」
「狼なら狩りでも、人を食うでも、何でもできたじゃないか。どうしてコンビニなんかに来た?」越前が尋ねた。
「俺が社会の狼だからだ」
社会の狼とは何なのかよく分からないが、狼にも事情があるらしい。
そんなファンタジーのような出来事があった深夜の夜勤明け。
越前進は電車を待っていた。
平日の午前8時でも、下りの電車は割りと空いている。
越前進は電車に乗り込んだ。
前にスーツを着たショートカットの女性が座っていて、椅子の端に寄りかかって熟睡している。
女性がふと顔を上げ、ドアの上の駅名をじっ…と確認してから、何かを諦めたのか、また眠ってしまった。
電車が発車した。
20分後、電車が突然大きく揺れて、越前と女性が椅子から転げ落ちて、
越前進は死んだ。