他者を「公共の敵」呼ばわりする事の意味と、それに安易に賛同する意味
少し前にある人物がツイッターで「オタクはパブリックエネミー」などと発言して問題となっていた。その人物は、「公共の敵とは言っていない」とか「オタクの定義が曖昧だから問題にならない」などと火消しを行っていたが、ハッキリ言って見苦しい。公約をマニフェストと言い換えた所で、その意味は変わらないし、『公共の敵』という文言を曖昧に使用したというならもっと問題だ。
何故なら、『公共の敵』或いは『社会の敵』という評語はそれ自体が『社会から排除』という行為と密接に結びついているからだ。つまり、かの人物は、自分が気に入らない存在を、『公権力』を使用して社会的に『排除』したいと口にしたのと同じ事なのだ。『公共の敵』とは「~が嫌い」などという意味で使えるような言葉で無いのである。
勿論、『テロリスト』など公共の敵は存在する。法律に違反する『犯罪者』も公共の敵と言っても良いのだろう。さて、ここでひとつ問題がある。『犯罪』という定義の問題だ。『誰が』何を犯罪であると『定義』するのか? 件の人物が決めるのか? 下らん冗談だ。それでいいなら小学生が「死刑」と口にするたびに絞首台を用意せにゃならん。言うまでも無くそんな事は無い。
つまり問題となるのは排除の『正当性』と、その正当性を適切に『評価』する機会があるのかという事が問題となる訳である。それを提示出来ないのなら単なる独裁者による魔女狩りに過ぎない。ナチスやKKKと同じヘイト集団と思われても、仕方ない愚かな言動である。少なくとも、いい年した大人が公衆の場で口にする様な事でない。せめてもっと閉鎖性のあるSNSでするべき事だ。
さて、世の中には更に恐ろしい言動がある。こんな安易な「公共の敵」呼ばわりに賛同する者がいるというのだ。こりゃビックリ。件の発言者自身が火消ししてんだから忖度して協力しろよと思うのだが、何を考えているのやら? もっとも驚いた言説は、正当性の表明など必要ないどころか、目的そのものが間違いであっても構わないなどと主張する人間がいた事だ。
もはや目的は手段を肯定する為のみに存在しており、『手段そのものが目的である』と言っている様なものだ。ナチスやKKKが哀れな被害者たちにした様な事を、したくてしたくてたまらない。『他者をつるし上げる事』が最高の喜びでありそうしたいだけ。理由は何でもいい。本当にどうしようもない連中としかいいようが無い。こんな悪趣味に付き合わされる方は本当にいい迷惑である。魔女狩りゴッコの言い訳に正義だとか、公共の福祉を持ちだす。クソに香水を振り掛けてショーウィンドウに飾るが如き愚行、おぞましさここに極まれりだ。