第1話 少年の見た夢
一人の少年が、崖の上を一心不乱に駆けていた。
淡い金髪は激しく乱れ、白い頬が赤く上気している。無数に転がる岩々は、降り積もった雪のせいで滑りやすい。ひとたび足を踏み外せば、真っ逆さまに谷底まで転げ落ちてしまいそうだった。
少年の背後から、ばさり、ばさりと、大きく不気味な羽音が響き渡った。
(振り返っちゃダメだ。振り返ったら、確実に殺される――)
少年の吐く息は白く後ろに流れ、額にはじわりと汗が滲んだ。最後の気力を振り絞り、小高い丘の上へと駆け上がる。
(ここまで来れば――!)
崖の淵の最も高い場所に辿り着いて、少年は意を決して後ろを振り返った。
――――ばさぁっ!!
身長を遥かに超える巨大な怪鳥が、今まさに鋭い鉤爪を振り下ろそうとしていた。
「危ないっ!!」
遠くで誰かの叫ぶ声が聞こえた。だが今や少年とガルーアの間を遮るものは何もない。
目前に迫る黒檀色の鉤爪を避け、とっさに身を仰け反らせる。祈るようにして、両の掌をガルーアに向けて突き出した。その時――
◆
「おい、起きろ。小僧」
野太い声が聞こえて、ノエルは目を瞬たいた。見上げると、武骨な鎧に身を包んだ男がノエルの顔を覗き込んでいる。
「あれっ……怪鳥は?」
一瞬何が起こったのかわからず、その男に訊ねてみる。つい今しがたまで戦っていたガルーアは、どこに行ってしまったのだろうか?
「そんなの俺がとっくに退治したぞ」
「えっ……どうやって?」
「どうやってって、この火弓と俺の炎の魔導術で丸焼きよ。骨まで焼き尽くしてやったぜ」
弓矢を見せながらニンマリと笑うその男は、年の頃三十代半ば。
赤銅色の鎧を身に付け、その体は筋肉隆々で黒々と日焼けしている。焦茶色の短髪は手入れもされずボサボサで、口元には無精髭。いかにも流しの用心棒といった風貌だ。
ノエルはようやく事態を呑み込んだ。先ほどのガルーアの姿は、どうやら夢だったようだ。いつの間にかこの岩場で居眠りをしてしまっていたらしい。
男がガルーアを〝骨まで焼き尽くした〟と言ったからには、ノエルのお目当てのものも一緒に燃え尽きてしまっただろう。
「あー、燃やしちゃったのか。ガルーアの爪、取れなかったな……」
落胆の溜息をつきながら、そう呟く。
ガルーアの爪は、非常に燃えやすい。ここ北の地の住民達は、それを火種や簡易的な火薬の代わりとして使っていた。
ノエルはその爪を取るために、寒空の下、わざわざこの岩場までやってきたのだ。だが燃えてしまったものは仕方がない。すぐに気を取り直して、別の話題に喰いついた。
◆
「でもおじさん、戦士なのに魔導術が使えるの? 凄いね!」
戦士でありながら、魔導術も使える者は珍しい。生まれつき魔力を操れる者なら魔導師を目指し、剣術の修行をする必要がないからだ。
魔導師の才能を持ちながら剣術も極めた〈魔剣士〉という生業も存在するが、この男はどうみても物理的な戦闘の方が得意な普通の〈戦士〉タイプに見える。
「まぁ俺ほどの力量にもなると、魔導術の一つや二つ……。と言っても、炎属性の魔導術しか使えねぇけどな」
「でも、あのガルーアを一人で倒したんでしょ? 凄いよ!!」
少し興奮気味に、ノエルは声をあげた。
大鳥は、大人の身長をさらに一回か二回りも上回る体長を誇る巨大な怪鳥だ。その動きは素早く獰猛で、普通の戦士や魔導師が二、三人で束になってようやく太刀打ちできるかという凶暴さをもつ。
この男は、たった一人でガルーアを〝倒した〟と言ってのけた。おそらく男が使用した弓術の技と、ガルーアの弱点である炎の魔導術、その両方とも並みの能力ではないことが伺える。ノエルの褒めっぷりに気を良くしたのか、男は大きな口を開けて豪快に笑った。
「ははっ、このくらい朝飯前だ。噂じゃ、ある伝説の〈ギルドマスター〉が本気を出せばガルーア数十羽を一瞬で焼き払えるって話だぜ」
「あぁ……、あいつは図体は大きいけど、炎に弱いからね……」
〈ギルドマスター〉という言葉が出て、ノエルは少し表情を曇らせた。少しうわの空になりつつ、思考を巡らせる。この言葉には、今はあまり触れて欲しくない。どうやって話題を変えようか……と思っていると、幸いにも男の方が話を続けてくれた。
「ところでお前の名前は? こんな荒れ地に子供一人でどこから来たんだ?」
「えっと……僕は〈ノエル〉。ちょっと用事があって、北の村から来たんだ」
「北の村?!」
ノエルの返事に、男が驚いて大きな声を上げた。
「北の村と言えば、ここからだいぶ離れているじゃねえか。……もうすぐ夜が更ける。子供一人で歩くのは危険だぞ。夜が明けたら俺が家まで送ってやるから、今日はここで休んでいけ」
確かに、ノエルの出で立ちはこの岩山では異質だった。雪兎の毛でできた白い耳当てに、羊毛で編んだ白いマフラーと白兎のコート。足には厚手のブーツを履いているが、背には小さな革製のリュックを背負っているだけ。
武器らしい武器も持たないノエルは、男の目から見ておそらく〝近所を散歩するつもりでうっかり迷子になってしまった子供〟のように見えているだろう。
「……ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて……」
男の申し出を断る理由は特になかった。通い慣れた村までの道のりだからノエル一人でも帰れなくはないが、下手に一人で行動すれば男の不信を買ってしまう。ノエルは男の言葉をありがたく受け入れることにした。
◆
男は岩場に薪を組むと、燃焼の呪文を短く唱えた。すぐにメラメラと赤い炎が燃え上がる。
ノエルと男がいる場所はちょうど大きな岩と岩に挟まれ、冷たい風を防いでいた。さすがに寝心地が良いとは言えないが、寒さを凌ぐにはまぁまぁの寝床だった。
焚き火の炎が安定してきたのを見て、男はまた先ほどの話を持ち出した。
「噂ではな、そのギルドマスターは表舞台から姿を消し、今じゃ一人で自由奔放に暮らしているらしい」
「……へぇ。自由奔放って、おじさんみたいだね!」
「おじさんじゃない! 俺の名前は〈カッツェ〉だ」
冗談めかしてノエルがからかうと、男が自ら名を告げた。そういえば、男の名前すらまだ聞いていなかった。カッツェと名乗るその男は、伝説のギルドについて知っている情報をノエルに語り始めた。
曰く、そのギルドは結成から僅か数年で北国三大勢力の一つにまで急成長した謎の多いギルドだった。入団には何重にも課せられた厳しい試練があり、最近では例え屈強な猛者でもごく少数の者しか加入できないらしい。
「ふーん……、そんなに厳しいギルドなんだ?」
「まぁな。そうやって急成長したギルドは、他のギルドから目を付けられやすい。ゆえにギルドマスターは姿を隠し、その居場所を誰にも教えていないんだそうだ」
「おじさん、随分そのギルドに詳しいんだね!」
「えっ?! あぁ……まぁ、風の噂でな」
急に慌てた表情を見せるカッツェの顔をノエルが訝しんで見つめていると、カッツェがぽいっと寒さ除けのマントを投げて寄越した。
「さぁ、もう寝ろ! 明日は早いぞ!」
「はーーい」
ノエルはマントに包まって、北国の澄んだ星空を見上げた。ちかちかと瞬く星々が、鈴の音のように凛とした響きを届けてくる。
どうやらこのカッツェという男は、何か重大なことを隠しているようだ――。先ほどのカッツェの態度に小さな違和感を感じたノエルは、ぼんやりとそんなことを考えていた。
よく日に焼けた男の褐色の肌は、ここ北国では珍しい。おそらく南の地方から旅をしてきたのだと思われるが、こんな辺鄙な場所まで一体何を求めて来たのだろうか? 〈ギルドマスター〉について妙に詳しい割に、その理由を探ろうとすると、はぐらかされる……。そう考えると、男の素性に対する疑問は尽きなかった。
だが同時に、この男が悪い人物ではないという直感もノエルにはあった。事実、このような人里離れた場所で丸腰の少年が一人で彷徨っていれば、邪な輩に身ぐるみはがされてもおかしくはない。それをわざわざ心配して、暖とマントまで貸してくれているのだ。
男の灯した焚き火はパチパチと火花を散らしながら、この小さな空間を暖めている。年中雪が解けないこの地に咲いた、一輪の山茶花のようなその炎に、ノエルは不思議と安心感を覚えていた。
(明日、村に着いたら、カッツェのことをどうやって話そうかな……)
すでにぐぅぐぅと隣で大きないびきをかきはじめたカッツェを横目に見ながら、ノエルは瞼と思考をゆっくりと閉じ、静かに眠りに落ちたのだった。
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◆冒険図鑑 No.1: 怪鳥ガルーア
体長2~3mほどの巨大な鳥型の魔物。巨大な嘴と、色鮮やかな羽根が特徴。雌よりも雄の方がやや大きく、鮮やかな尾を持つ。大きな鉤爪で人や牛などの家畜を攫っては、巣に持ち帰って食料とする習性がある。
棲む場所が火山口に近いためか、全身から硫黄の匂いを放ち、近付くとその異臭で息ができないほど。羽根・爪・嘴は特に燃えやすく、一度火を点けると全身が燃え尽きて灰しか残らない。北の村の住民は、ガルーアの爪を粉末状にして、よく火種などに用いている。