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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

輪廻する魂たち

作者: 古井雅

こういう書き方ってすっごく難しいですね。冬童話参加作品です。ゆったりとした気分で読んでいただきたいですね。



 鬱蒼とした森のなか、二人の少年が手を取り合って遊んでいる。それは、友人同士というよりも愛しあう恋人同士に見え、二人は誰にも邪魔されない空間で永遠に続かない時間を共有していた。そんな夢をみてしまった。

 頭が随分と痛くなる夢だった。甘すぎて胸焼けを起こしてしまったあとのような、そんな気分になる。


 その夢は見覚えがあるようなないような、酷く曖昧なもので現実のものと幻想が入り混じっているような、そんな感覚だけを残すのだ。

 森は確かに見覚えがある。だけど、そこにあるはずのないものがあったり、逆にあるものがなかったり。そんな不自然なもの。


 もう、よく思い出せない



-成長の輪廻-





「生きる意味って、なんだろう」

 先日中学校を卒業した稲瀬繊(いなせせん)は、思春期特有の精神的な歪みに悩まされていた。少年が大人になる過程、精神的に多大な変化が起きる。身体の変化とともに発生する心の変形は、大人よりも子どもよりも現実離れしたものを考えさせてくる。

 子どもでは理解できない難しい概念、大人は考えることを捨て去った概念、言ってしまえば倫理や独特の概念である。その概念は生きる意味だった。多くの人間は思春期に生きる意味について考える。このわずか数年のうち、一体どれくらいのことを考えるのだろう。そして、重大な悩みがいつか、簡易的な悩みだったとして忘却されてしまう日が来るのだろう。それを考えるだけで、泉は気持ちが陰鬱と暗くなった。


 中学校を卒業して、これから高校へと場所を変える。その前に、この陰鬱とした気持ちを吹っ切ることはできるのだろうか。稲瀬はそれを考えるだけで精神的に辛かった。

 腕にはリストカットの古傷、なんだったっけ、すごく他愛もないことで、リストカットをしてしまった気がする。たった一度だけだったことが幸いだったが、その時は酷く怒られて、精神的な負担を出来る限り取り除いてもらった気がする。

 今はそれとは別のベクトルの悩みを抱えている。稲瀬はこの悩みを、人に解いてもらうのではなく自分で解かなければいけないのだと思っており、それを話そうとしなかった。そもそも、思春期特有の悩みというのはどう言葉に表していいのかわからないものだ。子どもでも大人でもない中途半端な時期、もっと言えば身体的には大人で、精神的には子どもという二つの側面を持つ人間が考えている物事というのは到底理解できないものだった。


「違うのか。失っちゃったから、わからないのか」


 稲瀬はふと、幼少期の自分を思い出した。あの時、あの頃、自分がどんな子どもだったか。稲瀬は昔から、どこか不思議な少年だった。風がどこから吹くのだろう、どうして雨が降るのだろう。そんな子ども染みた疑問はすぐに解決されてしまった。だが稲瀬は科学的な証明が内容のない学術書のように感じて、納得出来ない様子で悶々としていた。それを国語の作文として出した時は、同級生からも先生からも、親からも理解されなかった。

 子どもが考えるにはあまりにも難しい内容だったのかもしれない、今思い返すとそういう答えに行き着くが、それが子ども側にも大人側にも言えることではない。もしかしたら、大人は、どうしてそんなことを疑問に思っているのかわからなかったのかもしれない。なぜ科学的な証明がなされた事実に対して疑問に思うことがあるのだろう、そんなふうに考えてもおかしくないことに稲瀬は今更気がついた。だって、それは証明にケチをつけている子どもじみた言動である、そういうふうに今なら取れる。


 そう思うと稲瀬は大人と子どもの狭間である不完全な自らを再認識してしまった。それが更に気分を陰鬱とさせる。正直、これらの悩みが思春期だから、という曖昧な理由で片付けることも稲瀬にはできなかった。

「(丁度、8年位前の記憶が無い、それと関係してるのかな)」


 そうこうしているうちに、約束の時間に近づいてきていることに稲瀬はようやく気がついた。



「(なんで今さら、こんなこと思わなきゃ……。いやそれよりも、なんで僕まで……)」

 へんな記憶のフラッシュバックに対しても苛立ちを覚えたが、深夜0時を示そうとしている時計をみて改めて自分が今行こうとしている場所を思い出してしまった。中学生でいることができるうち、一度だけ心霊スポットにいきたい、そんな同級生(ともだち)の一言が発端だった。近くの森によく現れるという幽霊を見に、午前0時に森の入口に集合しなければならない約束だ。それが取り決められた瞬間、稲瀬は行きたくない気持ちを押し殺してそれを了承した。

 その同級生とは高校も同じなので、断ってしまえばこれからの学校生活に支障をきたす可能性があることから、稲瀬は嫌な顔ひとつせずに約束を守ることにしたが、改めて思い直してみると腹が立ってくる。こんな時間からくだらない幽霊探しにかりだされるなんて馬鹿げている。稲瀬の頭に浮かんだ一つの怒りが外にでる支度をしているうちに強くなっていく。

 それでも、心を抑えこんで外に出る準備を始める。眠っている両親を起こさないように、忍び足で玄関に向かい、靴だけ持ちだして窓から外に出る準備をする。玄関を使ってしまえばどうしても音を立ててしまうからだ。


 一通り支度を終えて外に出てみれば辺りは不気味なほどの静寂が瀰漫していて、稲瀬の怒りは一抹の不安で塗りつぶされていった。今まで稲瀬は夜中の町並みを出歩いたことはなかったので、夜の不気味さを知らなかった。それもあって、予想以上の静寂さを漂わせる町並みに身震いさせられた。

 辺りは異常なほど静まり返っており、等間隔に並べられた外灯だけが物言わず暗い住宅街を照らしている。頼りない月光は暗い雲に包まれてアスファルトにその光を届けることができないでいた。昼間とはまるで別世界の町並みは、静寂さも相まって狂気的だった。ここまで沈黙に包まれていただろうか、夜中に出歩いたことのない稲瀬にすらそう思わせる暗さと静けさだった。

 そのため、わずか数分程度の道のりも強い畏怖心で満たされていた。



***




 稲瀬の家から森の入口まで、ほとんど距離がなかったが、稲瀬が森の入口にたどり着く頃には深夜0時を大幅に過ぎてしまっていた。時計を見た瞬間、稲瀬は時間が狂っているのではないかと感じながら改めて携帯で時間を確認したのだが、時刻は同じような数値を示すだけで何も変わっていない。気味の悪ささえも感じる奇妙な体験だった。


「稲瀬、遅かったな」

 既に森の入口には他の同級生たちが立入禁止の札の周りに屯していて、とたんに嫌な気分になる。だが、その感情を表に出すことはできず、稲瀬は苟且の笑みを浮かべながら適当に謝罪する。

「ごめんごめん、お母さんに気づかれそうになって、若干時間を遅らせてたんだ」

 とりあえずこういう時は適当にごまかしておくことに限る。下手に自分の本音を話せば人間関係を著しく壊してしまうことも多いということはこれまでの経験で嫌というほど理解したつもりだ。まさに嘘は人付き合いの潤滑油で、本音はうちに秘めておくに限る。稲瀬は中学校に入ってそれを心情として人付き合いを行っていた。それが最も適していると思ったから。



「まぁいい。とりあえず中に入ろうぜ」

「結局どこに行くの? 心霊スポットなんてあったっけ?」

 少し怪訝な様子で稲瀬は同級生に尋ねると、リーダー格の森岡はわくわくを隠し切れないと言わんばかりの表情を浮かべながら、得意気に話し始める。

「聞いて驚くなよ? この前この場所でな、すっげー気味の悪い洞窟を見つけたんだよ!」

「へぇ、すごいね! どこにあるの?」

 内心小馬鹿にした態度で森岡のことを見下した稲瀬も、実は少しだけ興味があった。この森は自分が物心つく前から遊び場にしていた場所で、彼の言う気味の悪い洞窟、などという存在を稲瀬は知らなかった。自分のテリトリーとも言えるその森のなかで、部外者に等しい同級生が稲瀬の知らない領域の存在を理解しているというのは実に不愉快だった。その反面、自分も知らない未知の領域に対して俄然興味がわいた。

 稲瀬はてっきり、森の入口は単なる待ち合わせ場所で、森のなかに入るとは思わなかった。そのため乗り切れではなかったのだが、場所が森のなかでは話は別だ。自分も知らない森を見てみたい、そんな気持ちで稲瀬の心はいっぱいになった。


「この先の獣道から逸れた場所にある。どこまで続いているのかわからねーけどよ、みんなで入ってみようぜ」

 森岡は得意気にそう話すと、全員を森のなかへと促した。しかし、夜の森というものはまるで異世界のように静まり返っていて、風がともす木々の囀りだけが鬱蒼とした森のなかにこだましていた。当然、まだ子どもである同級生等がそんな不気味な異空間に安易に侵入できるはずもなく、同級生たちは森のなかになかなか足を踏み入れなかった。

「お前らビビってんの? ここまで来て?」

「そういうわけじゃないけどさ、やっぱり森って……怖いじゃん?」

「そうそ、なんかこう、別世界だよな……」


 途端に後ろ向きな発言をする同級生に対して、森岡は苛立ちながらも共感するように、誰が先に森に足を踏み入れるかを決め始めた。方法は多数決やじゃんけんなど、比較的民主的な方法であるが、それでもなかなか決まらない。

 みかねた稲瀬は、自分から森のなかに足を踏み入れ、「僕が先に行くから、場所を教えて」とだけ森岡に告げ見慣れた森を歩き始めた。


 後ろで何か話し声は聞こえていたが、苛立ちにまみれた稲瀬の耳には暫くの間なにも届かなかった。




 しばらく森のなかを森岡の指示通りに進むと、そこには確かに小さな洞窟への入り口がぽっかりと口をあけて月明かりに照らされていた。稲瀬は森のなかに本当に洞窟があったことに驚きを隠せなかった。その洞窟までの道程は確かに獣道から大きく外れていたが、それでも稲瀬はその道も何度が進んだことがある。にも関わらず、洞窟を発見できなかったのは子供心も相まって悔しかった。実際に目の当たりにするその洞窟は、小さいとはいえ気がつかないほどの大きさではない。ましてや昼に何度も遊びに来ていた稲瀬がわからないのはどう考えても不自然ではないだろうか。

 稲瀬はそんなことを考えながら、未だに得意げな表情を浮かべながら同級生に話している森岡に苛立ちの表情を向けた。


「とりあえずなか入ってみようぜ。稲瀬、お前からいけ」

 まるで自分がリーダーのように振る舞う森岡に稲瀬は少し苛立ったが、始めに入らせてくれるのなら話は別だ。稲瀬の頭のなかには既に目の前の洞窟のことでいっぱいだった。正直、稲瀬もどうしてそこまで目の前の洞窟に心奪われるのかわからなかった。稲瀬は自分の意志のままにその洞窟へと入っていく。



 一歩足を踏み込んだ瞬間、そこはまるで別世界だった。滴り落ちる水音が沈黙のなかにこだましたと思えば、足元の小さな砂利の擦れる音が妙に耳を突く。辺りには荘厳な空気で満たされ、肺に入ってくる空気が肺胞を切り裂くような痛みを感じさせるのだ。そこは現実の世界と幻想の世界が入り乱れるほど現実味の持たない空間で、足を踏み込めば踏み込むほど「そちらがわ」に引きずり込まれそうになる。拉げた現実を直視しているようだった。

 洞窟内は人工的に手入れされているようで、壁肌はゴツゴツしておらずさらさらとした小綺麗な感触を持っている。しかし、決して最近作られたものではなく、少なくとも数十年単位の時間が経過しているだろう。また、いくつか人工物と思われる道具が落ちており、釘や鎹などの大工に用いられる道具が特に目立った。


「(もしかして、防空壕?)」


 稲瀬はふと、転がっている道具や自然的ではない洞窟の形状から、この洞窟が防空壕ではないかと考えた。勿論、それがあっているのかはわからないが、この際本当の答えなどどうでもよかった。なぜか稲瀬は、踏み込めば踏み込むほど、自分の心が澄んで晴れていくのが手に取るようにわかった。今まで悩んでいたことが、徐々に薄れていく。一度すべての自我が崩壊しているようにも思えるし、そして新しい自分が再形成されていようにも思える。自分が死んでまた生き返っている感覚が躰に流れ込めば、それが一気にヘモグロビンを通じて躰の細胞の中を激しく行き交う。


 その感覚に恍惚としていると、稲瀬はいまさらながら後ろに誰もついてきていないことに気がついてしまう。もしかして、ただ怖くてついてこれなかっただけかもしれない、ふとそんなことを思ったが、洞窟にはいった時間は数分程度だ。その間、歩いた時間は本当に僅かなもので数百歩にも届いていないだろう。にもかかわらず、どうしてこんなにも人の気配がないのか、稲瀬は一瞬体を震わせたが、その瞬間現れた小さな人の気配に安堵した。

 稲瀬は少し動揺したように同級生に対して軽口を叩こうとしたが、目の前に飛び込んできたものをみて一瞬で口を噤んでしまう。

 そこにいたのは、見覚えのない少年だった。この世のものとは思えないほど美しい白肌を浮かべ、今では使われないような着物を着ている。不思議と、対面したこともない彼の顔をみると、稲瀬は強い郷愁に襲われる。体中から湧き上がる強い懐かしさは稲瀬の考えを正し冷静に引き戻してくれた。


「き、君は……?」

「……私は、この場所の案内人とでも言いましょうか。名は夕緋生(ゆうびしょう)と申します。……貴方は?」

 夕緋生と名乗った少年は、不気味なほど美しい声音でそう自己紹介し、稲瀬の名前を尋ねた。体は非常に小さく、現代の小学校低学年程度しかないだろうが、しゃべり方は驚くほど大人びていて、まるで人生経験豊富な老人と話しているような錯覚にとらわれるほどだった。

 稲瀬は少し動揺しているのか、吃りながらも自分の名前を口走った。その名前を聞き取り、夕緋は「稲瀬繊さんですか、いい名前ですね」と小さく微笑みながら、洞窟の壁を優しく撫でる。


「私はこの場所に、何年も留まっていました。ですが、つい最近、ちょうど8年前の記憶がないのです。正確に言えば、15年前から、8年前の記憶だけがごっそりと抜けていて、その間はこの場所の管理はできませんでした」

「そう……なんですか。あの、ここは?」


 その時稲瀬はそのことについて言及することはなかったが、考えてみると稲瀬も数年前の記憶が一部消失していた。

 たしかそれは、8年前だったかもしれない。稲瀬は少し空虚な気持ちになるが、その気持を持ち続けるよりも夕緋の話を聞くことにした。


「ここは、防空壕です。といっても、戦争で使われたものではありません。この場所は、いわば此方側の、安置所と申しますか……端的に言えば徘徊する魂を一時的に安らかにして上げる場所でしょう」

「そんな……」

「現世の貴方からすれば、理解できない話でしょう。ですが、これは事実です。徘徊を続ける魂は、俗にいう浮遊霊として定義されます。永遠に輪廻の枠組みから外れてしまった憐れな人間を恤えむのが私の役割です」

「魂の救済の場がここだと?」

「えぇ、貴方側からするとそうでしょう。ですが、現世の者にとってこの場所は、忌々しくもありながら大切な場所でもある」


 稲瀬はその説明に対して疑問符を浮かべることしかできなかった。

 そんな稲瀬を尻目に、夕緋は防空壕の意義について事細かに説明してくれた。まるで迷い人に道を教えるように。稲瀬はそれを迷子の町の中で見つけた救済者のように思え、彼の話にのめり込んだ。


「貴方は、魂がどんなものかわかりますか?」

「いえ、正確には。ですが、僕らの世界では存在しているとして扱われることが多いといえます」

「そうですか。私にもよくわからない。ですが、ここで長年恤えむうち、私は一つの結論に達しました」

「というと?」

「魂というものは生きているうちしか存在せず、死んだ後は魂が残した感情が犇めく、ということです。魂は、生と死が統合されたいわば仮の姿なのでしょう。生は身体を、死は魂を、それが不完全に結合し、それを完璧な状態に運ぶ過程を輪廻と呼ぶのではないか、私はそう思うのです」

「随分、珍しいお考えですね。夕緋さんは、どうしてそのようなお考えを?」

「そう、ですね。私は過去に抱いたとてつもなく大きな感情に、いまだに引き摺られています。持て余すしかないこの感情は、魂を喰らうほど大きくなっている、そんな気がしてならないのです」

「感情が魂を喰らう? 魂が前提となるのが感情では、ないのですか?」

「私にもわかりかねます。どうしてこんな場所にいるのかも、いつまで魂の恤えむことを続ければいいのか、少なくとも私にはその答えにたどり着くことが難しい。だから、こう考えたのです。魂が生み出した感情が、いわば現世をさまよう霊的なものであり、想念と呼ぶのが適切でしょう」

 夕緋は、そういいながら愛おしそうに薄暗い洞窟の奥を見つめ、二人して言葉を濁す。陰鬱で不気味な洞窟の形相から、少し哀しげで感情的な雰囲気に変化していく。優しさと悲しさが折り重なるような、そんな感情が洞窟を鏡としてあたり一面に乱反射したような気がして、夕緋と稲瀬は二人して寂寥に包まれる。


 しばらくして、稲瀬は沈黙に耐えかね彼の言った言葉をぽつりと反芻した。


「……想念、ですか」

「こんなことばかり話していても仕方がないですね。こちらに来てください」


 夕緋は、大人びた形相を翻しながら、幼い笑みを浮かべ小さく手招きた。それは翻したというよりも、大人びた表情のうえに押さない表情を重ねあわせたような違和感を生じさせるものだった。

 稲瀬は彼のその表情に一つの疑念が浮かぶ。それが、疑念と呼べるものであるかどうかは明確にはわからなかった。なんというか、記憶が蠢くような違和感だった。それ以降、稲瀬は物思いに耽るように思考や気持ちが不安定になっていった。確かに意識はある。それなのに、どこか自分ではないような、離人症に近いのだろうか。思考と体が一つ隔たれていて、ややタイムラグのある体の動きを見ているような感覚。


 そしてそのまま、稲瀬は完全に意識が途絶えてしまう。



***



 気がつけば森のなかに立っていた。今まで防空壕のような洞窟にいたのにもかかわらず、体の疲弊は殆ど無く、衣類の変化も見受けられなかった。

 まるで時間や場所だけが変化して、自分の変化がないような感覚だった。ワープとか、タイムトラベルとか、いろいろな形容が浮かぶのだが、そのどれもしっくり来るものはなく、ただただ不思議な感覚だけが稲瀬の頭を満たしていった。


「……ここは? あの、森?」

 稲瀬は一瞬感じた恐怖から声に出して強い動揺をみせた。


「繊? どうしたの?」

 ふと、稲瀬は横から聞こえてきた幼い少年の声が聞こえてきた。その少年は友達に話しかけるというよりも、甘えるような声音だった。その声は稲瀬の記憶をくすぐるような強い違和感をもたらした。ずっと遠い記憶だったかもしれない。でも、思い出せない。まるで一部分だけ解離してしまったようなもの。どこに消えてしまったのだろう。どうして消えてしまったのだろう。

 頭のなかで一通り堂々めぐりしたあと、少年はふと稲瀬の視界の中に入ってくる。その少年は、紛れも無く夕緋だった。服装こそ現代人であるが、宝石のように美しい肌や何処か大人びた表情は誰がどうみても夕緋本人だった。


「夕……緋さん?」

「何言ってるの? 繊、ちょっとおかしいよ」

「君は……? ここ、どこなんだ?」

「……繊、本当に大丈夫? 僕はショウで、君は繊、ここは君の家の近くの森だよ。遊んでたの、覚えてない?」

「あ、あぁ。そうだったね」

 ショウ、と名乗った少年はまるで今まで稲瀬がそこにいたような調子で話を進めていた。とりあえずショウにこれ以上の不信感を募らせるのは良くないと感じ、状況はうまく把握できていないが口裏を合わせてみる。

 だが、その判断がさらに稲瀬をおかしな幻へと冒していった。


「繊、僕は君が好きだよ」

「え」

「繊は、好きじゃないの?」

「い、いや、大好きだよ?」

 笑みを浮かべながら恥ずかしげもないことをつらつらと話すショウに、稲瀬は頭が痛くなった。どうしてこんな状況に陥っているのかわからず、彼の言葉を繰り返すことしかできなかった。

 だが、それは単なる戸惑いからの言葉ではなく、無意識に飛び出した意識外の言葉でもあった。考える前に飛び出してしまった言葉というか、心と意識が一致しないまま発せられたような、そんな感覚だった。


 言葉を述べ終わった頃、稲瀬の唇には不思議な感覚が重なる。すごく小さな舌が自らの口内を犯して激しく蠕動する。ぐちゃぐちゃと水音だけが耳の中に残っていて、その感覚が長引くほど心身ともに侵されてしまいそうなほどの快楽に意識が混じる。その場にあるのは異常な愛おしさばかりだった。


 今すぐにでも抱きしめてしまいたくなる感情を押し殺したのは、どこか虚しい自分だった。まるでとても大切なモノをなくしたあとのような、無気力な気持ちと脱力感が体を弄った。愛したい気持ちととりとめのない空虚な気持ちがアンバランスに自分の心の中に生まれる。それを振り切るように、目の前の少年の体を抱き寄せようとすると、そこは先程までいた防空壕のなかだった。

 目の前は相変わらず黒色の闇に染まっている。その中で、ぬるりと浮かび上がったのは夕緋だった。



「これは、貴方の記憶なのでしょうか」

「……どういうことなんだ?」

「この防空壕は、浮遊霊に対しては救済場なのですが、現世の人間が侵入するとその人間の失った記憶(かんじょう)を引きずり出すんです。この場所が現世の者にとって、忌々しいものでありながら大切な場所である、というのはそういうことなのです」

 稲瀬は動揺から辺りに広がる光景にせわしなく視線を合わせようとするが、その時はじめてこの防空壕が様々な光景に変化していることに気がついた。テレビの砂嵐のなかに映るテレビ画面でも目玉の中に入っているのかと錯覚するほど不気味で奇妙な光景だった。一秒一秒、目の前の光景は目まぐるしく変わっている。

 焼け野原にどす黒い黒炎があがっていたり、広大な草原で殺しあう人々、楽しそうな笑みを浮かべている一家団欒、確認できる中でもそれだけ様々なシチュエーションの光景の情報が視界を通して頭に入ってくる。


「……貴方のみたものは、貴方の記憶です。ですが、この防空壕がみせる感情は登場人物が一人しかでてこない。そう、記憶を引きずりだした人間だけです」

「一体、君も、ここもなんなんだ!? どうして、どうして君そっくりの子どもが僕にキスした!? それに君は…..」

「だから、それは()の記憶でもあり、僕の記憶でもあるんだよ」


 稲瀬は言われたことがわからず、相変わらず目まぐるしく変形を遂げる防空壕に再びピントの合わない光景に視線を向ける。するとそこは、先ほどの森のような光景に変わっていて、温かな木漏れ日に心身を包んでいくような快楽が全身を包んだ。

 しばらくたって、稲瀬はようやく自分がキスされていることに気が付き、その人物が夕緋であることにやっと気がついた。


「……夕緋、生くん?」

 今にも風にさらわれそうな小さな稲瀬の声音は、確かに夕緋の耳に届いていて、夕緋は心の底から優しい笑みを浮かべる。

 その後、稲瀬は涙を流しながら夕緋に抱きついた。


「思い……出した」

「……僕もだよ」



 二人はいつも一緒だった。失われていた7歳の記憶の最後の断片が今見せている記憶であることを思い出す頃には、あの時の喪失感を感じる前の気持ちで心が満たされる。

 ずっと、これからも一緒だと思っていた。その時だった。幼い夕緋は、突然の病に斃れ、そのまま帰らぬ人へとなってしまった。しかし幼い稲瀬にはいなくなってしまった夕緋が、どうなってしまったのかわからなかった。そして、僅かな時間が経過した頃、稲瀬は自分が亡くしたものの大きさを突き詰められた。その頃は丁度、稲瀬がリストカットを始めた頃だった。

 それから稲瀬は一部の記憶をなくした。


「僕は、いや、僕らは大きな輪廻のなかにいた。僕と君は、魂が壊れて感情だけになってもお互いのことを求め続けた。今世も、それは同じだった。それだけのことだったんだ」

「それだけのことで、泣かないで。僕はやっと取り戻したんだよ?」


 それから先、稲瀬は痛みを子どもから大人になる過程の痛みとして思い込み、やがて完全に埋もれていった。

 大きな輪廻のなか、どんなことでも失われなかった最愛の人の記憶を、稲瀬は失いかけていたのだ。


「僕、繊が僕を忘れてしまうこと、とっても辛かった」

「……ごめん。もう二度と忘れない。だから……」


 輪廻は魂の成長過程である、稲瀬はそんな夕緋の言葉が頭によぎる。

 それと同時に、自分の中のそばにいたいという願望が頭のなかを満たしていく。それが体を侵して、欲望が体の細胞に行き渡っていく。


「繊、それはいけないよ」

「……どうして、せっかく、また思い出せたのに……?」


 稲瀬にはわかっていた。彼がもう、この世のものではない存在であること。自分の願望は不可能であること。そんなことはわかっていた。だが求めずにはいられなかった。この輪廻の枠組から外れても、稲瀬は夕緋のそばにいたかった。


「君も、わかっているだろう? 輪廻の枠組みからは外れられない。外れられるとしても、僕が君を外れさせない」

「なんで……なんでだよ! 僕はずっと……君といたいよ! 君といれるなら、死んでもいいんだよ」


 まるでただの子どもだった。いや、(たましい)は子どもなんだ。だから輪廻(せいちょう)を繰り返す。

 そうやって、完全(おとな)になっていくんだ。


「……君が僕のことを好きでいてくれれば、必ずまた出逢える」

「君は、僕のこと、好きでいてくれるの?」


 夕緋が頼んだ言葉は、ただただ好きでいてくれ、ということだった。稲瀬にとってそれは造作も無いことだった。

 だけど、不安ばかりが先行して痛みばかり残っていく。

 その稲瀬の不安を、夕緋は優しく包み込んでくれた。


「勿論。だから、君は、もうちょっと生きて?」

「……生きたくない、だから」

「僕はいつまでも貴方(・・)を愛しています。貴方の輪廻(せいちょう)を、ずっと見ています」



「ずっと、愛しています」

 二つの声が重なったとき、防空壕から弾き飛ばされるような音とともに、稲瀬は意識から手を話した。




***




「今日、入学式か」

 泣きはらした目が未だに痛い。よくわからない曖昧な記憶が頭のなかに残っていると思えば、涙がいっぱい溢れてきた。寂しさばかりが頭のなかに残っている。



 あの後、稲瀬は森のなかを彷徨っていたところを同級生に発見された。その時の稲瀬は大量の涙を流しながら、顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。ただひたすら、泣いていた。

 それから暫くの間、稲瀬は精神的な負荷から動くことができなくなり、錯乱状態に陥っていたが、とある日を境に精神的な不調から回復し、前向きな人生を歩きだすことにした。


「じゃあ、いってくるね」


 偶然か必然か、彼が精神的な不調から復帰した日は夕緋生の命日であった。

 それに気がついている人物は、世界にたった二人だけ。輪廻の枠に収まって二人だけだった。


 二人はいまも、別々の世界で輪廻の道を歩き続けている、稲瀬はそんなことを思いながら、陰鬱な牢獄から解かれたのだ。





ここまで見ていただいたすべての方にお礼申し上げます。自分の最大限の童話でしたが童話になっていたのかが不明です。時間がなく完成度は結構低めですが、それでも見てくださった方々、ありがとうございます!

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