屁理屈
眼前に座って自分を睨めつける男を、土方歳三は焦燥と共に見遣った。
公式な接見ではないので、その男は袴も付けていない。渋茶の木綿の着流し姿で胡坐をかき、膝をボリボリと掻いている。
対する土方は紋付袴で完全な正装だ。短く切られた髪が少しだけその衣装から浮いている。しかし洒落者のこの男も、さすがに髪型を気にしたり相手の態度に苦言を呈したりする余裕はない。
事は一刻を争うのだ。
「勝殿」
低く、相手の名を呼びにじり寄る。
勝は土方を睨みつけたまま、重い吐息と一緒に「嘆願書ねぇ……」と言葉を吐き出した。
自分の立場を考えるならば、勝にとっては一言も耳を傾けることなく唾棄したい申し出だろう。
今更、新撰組局長近藤勇の助命嘆願をするなど。
江戸城を無血で開城に漕ぎ着けたこの時期に誰が得をするというのだ。まるで、正気の沙汰ではない。
「今更どの面ァ下げてこの俺にそんなことを言うんだい。勝手に戦準備を始めてあすこに移ったのはおめぇさん方じゃあないか」
反論の余地などない勝の言葉に土方は目を細める。だが、ここで退くわけにはいかなかった。
「お言葉ですが、勝殿。私は幕臣大久保大和の命を救っていただけますようお願いに参ったのであって新撰組局長の助命に来たわけではござらん」
「そりゃあ……」
勝が嗤った。
「屁理屈ってもんだぜ土方。おい、屁理屈って分かるか。屁みてぇな理屈のことよ。誰がそんな臭い理屈に納得するってんだ」
「屁理屈などでは……」
「じゃあおまいさんは、西郷や桂みてぇな奴らが今更名を変えたとして、それで全てを許せるってのかい」
「それは……」
二の句が継げなかった。
完全に黙り込んでしまった土方に、勝は厳しい視線で追い討ちをかける。
「なぁ、土方。名前一つ捨てたからといって全くの別人になれるわけじゃあないんだぜ。近藤はまだてめぇの持ちモンを全部は捨てていねぇ。大事な一つを持ったきりだ。それじゃあ、あいつはどこまで行っても近藤勇だよ」
「大事な一つ、とは」
「志だよ」
事も無げに告げられた勝の言葉に土方は打たれた。
全身に雷が駆け抜けたかのような衝撃に、近藤が捕らわれて以来焦燥で霞んでいた思考が、一気に晴れたような気がした。
「まぁ、いいさ。理詰めのおまえさんの屁理屈捏ねる様が見れたんだ。嘆願書、書くだけは書いてやろうじゃないか。だが、その後の事は知らねぇよ」
会見の目的は果たした。土方に、それ以上の言葉は必要なかった。
膝の上で両の拳を握り締め、頭を下げる。その上から声が降った。
「土方」
立ち上がった勝が土方を見下ろしていた。その瞳に、初めのような嫌悪感は含まれていない。
「どうせ死ぬつもりならつまらぬ所で死ぬもんじゃあないぜ。人には死に時死に場所てぇのがちゃあんと用意されてるんだからよ」
慰撫するような声だった。
土方はすぐに顔を上げることが出来ず、勝が部屋を辞した後も首を垂れたまま、暫し静かに流れる時の音を聞いていた。