世界史の渦の中で
或る晩秋の大学。空き教室の窓は西に臨み、沈みゆく陽光の朱に燃えていた。詠史は一人嘆息し、己が身の不幸を嘆いた。思い出すのは古代ギリシアの言葉、『万物は流転する』。うつろいゆく世界のなかで人間はいかに無力なものか。『人は二度同じ川に入れない』二度と同じ水は流れ得ず、人はすぎゆく時間のなかでたった一瞬とても自己をつなぎとめる事はできない。一度河に入ったならば、既にその経験は二度目に河に入った時に影響を与えずに入られないだろう。一瞬前の自分は一瞬後の自分とは同じではないのだ。
時間は回る。一瞬が無限の時を持っていた幼き日々よ永遠の記憶の中でこそ美しい。しかし、それさえも不変ではない。記憶は時によって磨かれ、改組され、そして忘れられる。そのような記憶によって作られる人間の自我の脆さよ。人は一体何を人に求められるのだろうか。何もない。全てはふわふわとした現実感のない物質世界に溶けていく。
古代ギリシア以来二千数百年、太古の人々が既に人間の自我の脆さに気がつくほどに慧眼であったとしても、現代人はどれほど彼らに比肩しうるだろうか。千年前、この教室があった場所はおそらく畑であっただろう。封建社会の中に固定されていた農民たちが日々野良仕事に精を出し、病と飢饉に怯えながら、その短い命をゆっくりと味わっていただろう。彼らは固定されていた、物理的なだけでなく精神的にもそれ故幸せであったと詠史は思う。己の人生に飽き飽きして死ぬことができたのだから。それはどれほどの充実感であっただろうか。人
生を隙間なくしゃぶり尽くす感覚の尊さよ。
2千年前、ここが人跡未踏の草むらであった時、肥沃なナイル流域では学者たちが時を止めようとしていた。歴史を記録しようと努めた彼らの目指すものは、文字通り普遍であっただろう。それは概念的なだけでなく物理的にも。人々が自然の脅威から開放され、生老病死を克服せんとする、その試みの尊さよ。敢然とこの世界に立ち向かい、猛然と散っていった彼らの屍で史書はあふれている。
千年前の農民の祈りは成就した。二千年前の学者たちの夢は実現しつつある。寿命は伸び、多くの病は克服された。人類の祈りの大半は実現し、世界の多くは普遍化された。今や戦は稀であり大半の病は治癒できる。人々の領域はかつてないほど高度となり文明は異次元の高みに到達した。
それらは人類の文明の普遍化、自然に対する勝利、宇宙に対する勝利でさえあった。それなのに一体なぜ現代を生きる自分たちの胸はこんなに締め付けられるのか。汲々としてかつかつ、博学多才にして暗愚蒙昧。歴史に勝利した人類としての誇りも何もない。それどころか憧れるのは魂がつなぎとめられていた過去の時代。人類の願いの大半を叶えてしまった現代は目的を失って己の前に膝を屈した。
かつて時の流れは遅く、共同体につなぎとめられた精神は迷うことを知らなかった。今や時の流れは早く、自由を手にした自分たちは己の精神のありかさえわからない。急激に加速した時間のなかで崩壊を待つだけの虚しい生。自分自身さえわからず、にも関わらずわからないことを自覚させられる酷薄さ。普遍化された人類の生は悲しさだけを敷衍する。自分たちはどこへ行けばいいのか、まだ世界の半数以上の人たちはその問にぶつかっていない。
しかし彼らが発展し人類の歴史の頂点に辿り着いた時、どう思うだろうか。近代の豊かさとその代償に失った、人生の安定感、それを嘆くのだろうか。自分と同じように。
流れ行く河をとめるための全ての試みはかえって流れを激流に変えた。轟々と音を立ててる濁流に世界から切り離された個人は列をなして落ちていく。それがこの教室だ。この朱にそまった空き教室、個人を作り突き落とす。何の手助けもない社会という濁流に。紀元前の社会だってもっと優しかっただろう。人生に迷う苦悩を抱えることはまれであったのだから。
夏目漱石に曰く、『神経衰弱は現代人に特有の病である』
気が付くと教室はとっぷりと日が落ちて漠々とした暗闇に満たされていた。
4千年の夢
なんと虚しいことだろう
人は勝利した
疫病に、洪水に、猛獣に
歴史は終わり
ただただ続く未来のみ
希望も、祈りも、
何もない
なんと虚しいことだろう
人は手に入れた
文明を、精神を、情報を
歴史は終わり
もはや自然との縁もうしなった
優しさも、いたわりも
何もない
神は死んだのだ