主人と奴隷の朝
なんちゃってローマです。
明るい朝の日差し、鳥のさえずり。
奴隷や召使いたちが朝の用意をする音が聞こえてくる。
商人が朝の果物を売りに来る声が聞こえるということは、もしかしたら俺は寝すぎたのかもしれない。
起きよう。
名残惜しげに目を開いたら、まつげがくっつきそうな距離に、夜空を写したような濃紺の目があった。
「おはよう、エマヌエル。僕のトゥニカの袖上げ、知りませんか?」
三ヶ月前に、成人の前祝いとして兄から貰った奴隷のマルセイである。
奴隷として貰ったわけだけれども、細っこい見た目に繊細そうな丸めがねなんてかけているいかにも元良家のボッチャマであるコイツを奴隷のように扱うのは気が引けて、どちらかといえば友人のように扱っている。
「おはよう、マルセイ。急ぎなのは分かるが、少し離れてくれ。落ち着いて話もできない。」
眉を顰めて困ってるオーラを出して言うと、マルセイはフフフと上品に笑いながら俺から離れた。
俺の家は奴隷に対して暴力などはふるわないことになっているが、友人の家などでは棒で叩いたりしているらしい。コイツはその友人の家に買われていたら、きっと今頃紫色の皮膚になっているに違いないと思う。
「それはすみません。あなた、なかなか起きないものですから。」
「そう…だな。戦士失格だ。戦場だったら寝首かかれてた。」
「エマヌエル!」
マルセイのこわばった声が耳に飛んでくる。
言い訳がある。エマヌエルは俺の部屋の床で眠っているので気配に慣れきってしまっており、気がつかずとも仕方が無い、の一点である。俺とて訓練所では優秀な成績をおさめる戦士であると自負している。しかし、この話は一般的には”奴隷にそこまで気を許すヤツがいるのか?”という結論に収まるので些か、いや、かなり俺の分が悪い。ので。
「たとえ話だってば…。で、袖上げがないんだったか?」
会話の軌道修正をはかる。
この友人は、どうにも俺が死ぬとか戦場とかいう言葉を出すのを嫌うふしがある。この友人も先の侵略戦争で市民から奴隷に落とされたタイプであるはずなので、嫌なことを思い出してしまうのかもしれない。
「謝ってくださいエマヌエル。あなたは優秀な戦士だし、寝首をかかれるほどマヌケじゃないでしょう!そんなとぼけた主人に買われたのだと思うと僕は自分の価値を失いそうです!」
「結局おまえの為かよ!」
興奮で下がりかけた丸めがねを指で上げる仕草をするマルセイを横目にみつつ、俺はため息をついて水差しから水を飲んだ。
「ん…あれ?これ、おまえの袖上げじゃないか」
水差しの台にはマルセイの袖上げがきちんと両腕分、そろえて置いてあった。
「あぁ、こんなところにあったんですね!」
片手で水差しを抱えたまま、もう片方の手で袖上げをマルセイに手渡してやる。マルセイはそれを両手で受け取ると、自分の袖の長いチュニカに片方ずつ止め、長さを調節していった。
「やっぱデケェな、それ」
実のことを言うと、彼のチュニカは俺のお下がりである。
彼が俺に渡されたときー兄が市場で競り落としたときー、彼は腰布一枚のみすぼらしい姿であった。夜色の髪と目、知的な光を持つ彼をその格好にしておくのは気が引け、俺は自分の”おさがり”を彼に渡した。この国では奴隷の服装といえばもっぱら腰布一枚かせいぜいそれに上布がある程度のものなので、きちんとチュニカを着て、さらに上流市民以上のものがつけるトーガを外出時にまとう彼はどう見ても一般的な知的上流市民である。
ただ、チュニカもトーガも俺のお下がりである為、頭ひとつ俺より小さい彼には大きく、チュニカはふくらはぎまでのなんだか中途半端な長さになっているし、袖だって手がすっぽり隠れる長さだったのだ。
「でも、あなたがくれたこれがありますから」
マルセイが俺の好きな穏やかな笑顔でなぞりながら言うその袖上げは、俺がプレゼントしたものである。
袖など切ってしまえばよいわけだが、素人がやると不自然になる。不自然に調整されたチュニカは奴隷や召使いへの下肢品である証拠である。この賢い友人に不躾な目を向けさせたくなかった俺は、出入りの商人に依頼してあの袖止めを送ったのである。
袖止めでの調節ならば、お下がり品を使う子どもたちにとっては結構よくある光景だ。俺たちにとって袖止めは子どもの象徴であり、大人の服が似合わなかったという恥じるべき過去であるためマルセイもいやがるかと思ったのだが、彼はあっさりと受け入れた。
むしろ、とても喜んでくれた記憶がある。
数ヶ月前の懐かしさに浸っていたら、マルセイが動いた。
両腕のチュニカの調節を終えたマルセイは、いつもの朝のように、俺の寝台の前に立つと、寝台に跪いて言った。
「ではご主人様、朝食の支度に行って参ります。」
「あぁ、行ってこい。ーーおいしい朝食を期待していると料理人に言っとけ」
「かしこまりました。失礼いたします。」
トコトコとマルセイは部屋から出て行った。
俺はひとつ伸びをすると、ようやく寝台から出る気になり、足を無造作に床に降ろして今日の一歩を踏み出した。
エマヌエルの髪は金髪でくせ毛、マルセイは濃紺で前髪ぱっつんという裏設定があります。