レィニアス殿下
本編『恋の芽』あたりの殿下のお話。
最初の出会いはいきなり寝室に現れた不振人物。
異世界人らしいというカイルの報告が信じられず、しかし陛下や兄上の手を煩わせる必要も無いだろうと、カイルにそれとなく監視するよう命じた。
次に見た時はカイルからの報告で彼女にこの国の要である器と通じる何かがあるかもしれないと言われ、様子を見に行った白莉殿。
眠る彼女は、何故か溶けるように笑って、私を見た。
私を取り巻く見慣れた作り上げられた笑顔と違って、自然と零れ落ちたかのようなその笑みに驚いて、目を瞬かせた。
その後、冷たいと評判の祭司長に「いい気にならないで下さい」と刃物のような視線を投げつけられた。
わけもわからず自室に帰り、それでも彼女の笑みが忘れられなかった。
次に会ったのは、祭事を控えた街の視察の際に通りかかった橋の上から、まさかの彼女が降って落ちてきた。
咄嗟に伸ばした腕に走った衝撃に、カイルとの付き合いで鍛えていた腕が役に立って良かったなどと思ってしまったのは、決して口にしない方がいいのだろう。
「・・・お前とは、変な出会いばかりだな」
思わず口をついた言葉に、彼女の目が丸くなる。
いや私の言葉にというよりも、何か違う理由で彼女は固まってしまっているような気がする。
しっかりと抱きとめたつもりだったが、何処かぶつけてしまったのだろうか?
「どうした、大丈夫か?」
瞬きも、呼吸でさえも忘れたようにこちらを見つめる漆黒の瞳に、いつか感じたような戸惑いを覚えながら、私は彼女の顔を覗きこむと、その丸みを帯びた頬に擦られたような傷があることに、気付いた。
うっすらと赤い血が滲んでいる。
「・・・頬に傷がある」
異世界人も、自分と同じ赤い血が流れるのかと、頭の片隅で思いながらその傷口に、そっと指を伸ばした。
触れたとたん、彼女を抱きとめていた腕が、ぴくりと揺れた彼女の体の振動を伝えてきた。
白い手袋をはめたままの指先では、痛みを与えてしまったかと、慌てて手を引こうとした時。
固まっていた彼女の体から力が抜けるのを感じ取った。
何事かと傷口から彼女の瞳へと視線を上げれば、そこにはいろんな感情とその奥底に甘い熱を潜ませた潤んだ瞳があった。
彼女が何故そのような感情を瞳に宿して私を見るのかがわからない。
今まで誰にも向けられた事のない、甘やかな激情を隠すことなく真っ直ぐに見つめてくる。
それに戸惑いを覚えながらも、もっとその瞳の奥を覗き込みたい衝動に陥る。
こくりと喉元を鳴らした時、彼女のそれは隠し抑える術を知らないままに更に溢れ出し、涙と共に零れ落ちた。
今度は自分が瞬きも忘れて、その零れ落ちる雫に心を奪われてしまった。
彼女から伸びた腕が、自分の体を抱きしめたことに、異性との抱擁が初めての少年のように胸が高鳴る。
縋り付く様な腕の力とは対照的に、力の抜けた彼女の肢体がずり落ちないように、体勢を立て直して彼女の体を抱え直した。
しがみつく彼女の腕の強さが根拠もなく自分を、自分だけを必要としていると感じて、心が震えた。
この世に産まれ落ちてから、本当の意味で必要とされた記憶の無い自分の弱さが、そう思わせているのかもしれない。
そっとその肩に手を置くと、無意識なのか彼女の頭が、私の胸に擦り寄った。
そこからじんとした甘やかな熱を持った温もりが伝わるように、愛しさが、いつも空虚だったこの胸を満たす。
もう少し彼女を強く抱きしめても許されるだろうか?
そんな不埒な考えが湧き上がった時、少し離れた後方でわざとらしい咳払いが聞こえた。
共に視察に赴いた護衛騎士の一人、真面目な黒髪の青年アレンだろうと振り向かないでもわかってしまう。
溜息混じりに苦笑しながら彼女の様子を伺うと、彼女も落ち着いたのか先程までの嗚咽はなく、どこか呆然としているその姿を不思議に思いながら顔を覗きこんだ。
「・・・落ち着いたか?」
問いかけると、驚きに目を見開いて、赤くなった目をぱちぱちと音がするのではないかと思う程に瞬かせる。
その反応の良さに、こちらも思わず驚いてしまいそうになり、どうしたのかと様子を伺おうとしたら、腕の中にあったその身がさっと離れていってしまった。
突然開いた距離と、離れた温もりに少なからず寂しさを感じた。
だから、言った。
「後で会いに行く」と。
本来なら、私が女性の元へ赴くなどあってはならない事だ。
アレンとミハエルが息をのんだのは、気付かない振りをした。
私の胸に宿ってしまった、この感情をどうすべきか本来なら考える余地もない。
忘れてしまえ、消してしまえともう一人の自分の声がする。
それすらも聞こえない振りをして、執務室へと歩を進める。
彼女の瞳の奥に宿る熱の意味を、知りたいと思ってしまった。
何故、そんな目で私を見るのか、彼女の口から聞かせて欲しいと思ってしまった。
自分には決して与えられぬと思っていた心を、彼女は与えてくれるのか・・・
この国の常に囚われない、彼女の感情溢れるあの黒い瞳をもう一度覗き込みたいと願う気持ちに背中を押され、今私は彼女の部屋へと向かっている。
初めての感情の昂ぶりに、周りを見えなくさせていたのだと、後で思い知る事になろうとも知らず。
四度目の出会いのために、彼女の部屋の扉に手をかけた。