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ヒロイン脱却

幻影 ルーカスの物語

作者: 猫野沙子
掲載日:2026/06/16

初恋のリリアーナの幻影を追い続け、闇に沈むルーカスの物語。

※倒錯的な表現やホラー的表現があります。苦手な方はご注意下さい。

 ルーカスがふと足を止めた店のウィンドーには、最近流行り出した華やかなビスクドールがずらりと並んでいる。様々な髪色と瞳をもつこの比較的安価なビスクドールは、下位貴族や裕福な家庭の子に人気があった。

(似ている)

 やや濃いめのピンク色の髪と水色の瞳を持ったビスクドールと目が合ったルーカスは、かつて手が届きそうだった初恋の少女の事を思い出した。踵を返そうとしたルーカスは、そのままフラフラと店内へと吸い込まれていった。

 華やかな店内で、ルーカスは浮いていた。戸惑って店を出ようとしたルーカスに、店員が「プレゼントですか?」と声をかけてきた。思わず頷いてしまったルーカスは、目が合った人形を買ってしまった。

 そうして、借りているそっけない部屋に華やかな包装紙が置かれた。包みを開ける気力もなく、ただ、部屋に不釣り合いな華やかな包装紙だけが、ルーカスに失恋と未練を思い出させた。


 ルーカスは隣国の男爵令息で嫡男だった。同じ男爵のリリアーナ・ブランシュに恋をした。彼女は美しく、控えめで頭もよかった。そして、彼女は弱かった。いつも彼女の親友であるマリーの庇護下に置かれていた。マリーはリリアーナに話しかけようとする有象無象の男たちをはねのけていた。

 ルーカスが唯一まともに話せたのは図書室でだった。そこで名前を呼ぶ許可をもらって、内心有頂天になっていたのを苦く思い出す。顔を赤らめて微笑む彼女とたしかに気持ちが通じ合ったはずだった。

 だが、ルーカスがリリアーナに気持ちを確かめる前に、リリアーナを気に入った王太子にあっという間に攫われてしまった。ルーカスの気持は、王太子の婚約者であるエレオノーラに見透かされていた。

 酷い失恋と家族への懸念から、ルーカスは伝手を辿りひっそりと隣国で文官として暮らしていた。

 

 強い酒が喉を焼き、胃の腑をカッと熱くさせた。タンッとショットグラスをテーブルに叩きつけるように置く。

「今日はまたやけに荒れてるな?」

 平民には少々お高いバーで、向かいの席に座っている男が嗤った。

「あぁ。嫌な記憶が蘇ったらコレが一番さ」

 ルーカスが半分ほど中身がなくなったボトルを掲げてみせると、向かいの男は鼻で笑った。薄暗い店内でもローブのフードを取らないこの男の、形のいい唇が三日月を描く。

「ルーカス、腐るヤツらは飽きるほど見ている。お前は違うと示してみせろ」

 濁った眼でルーカスは男をジロリと睨むように見て、ぞんざいな口をきいた。

「知った事か。お前が俺に飽きればいいさ」

「ふふん。そう言うと思ったよ。お前はニンジンを鼻先にぶら下げないと走れない男の様だな?」

 男はどこからともなく一枚の紙を取り出し、ルーカスの前でひらひらと振った。ルーカスはうるさそうに男の手から乱暴にそれを奪うように取りあげた。濁った眼が、一瞬”リリアーナ”の文字を拾った。放り投げようとした紙を両手で持つと、むさぼるように読んだ。一度で飽き足らず、男が面白そうに見ているのも気にせず何度も読んだ。

「もっと欲しかったら、明日の夕方、またここに来い」

 ルーカスの肩をたたいて男は出て行った。ルーカスは少しばかり理性の光が戻った瞳で、男の後ろ姿が店を出て行くのを見つめていた。


 部屋に戻ったルーカスは、またあの紙を何度も読み返していた。リリアーナが側妃になった裏側が書かれた紙だった。親友マリーによる裏切り。正妃エレオノーラの狡猾な立ち回り。傲慢な王太子アルベルトの所有欲。それを容認した王や王妃や側妃たち。

 ルーカスにとって、これらが真実かどうかなど関係なかった。ただ、それよりも何よりもリリアーナが甘い口調でアルベルトを「アル」と呼びながらも感情が抜け落ちているとあった事に、腹の底から煮えたぎった何かがせりあがってきた。

 目の端に、あの華やかな包装紙がかすめた。ルーカスは立ち上がると乱暴にそれを取り上げて、衝動的に包装紙をビリビリと破り捨てた。

 現れたビスクドールは、ピンク色のゆるくカールがかかった髪をしている。ガラス玉の水色の瞳はただ光を反射して、小さな口は微笑みを刻んでいた。まろい頬はうっすらと血色がのせてある。

 ガラス玉の瞳に、己のゆがんだ醜い顔が映った。ルーカスは一瞬、戸惑ったように人形の顔を見つめたが、煮えたぎる何かに突き動かされるように人形の唇に己の唇を押し当てた。きれいに整えられていた髪は、ルーカスの力任せの指先でひどく乱れて行った。

(リリアーナ……俺だけの)

「リリアーナ。俺が君を助けてあげる」

 静かに唇を離したルーカスは、爛れたような甘い笑みを浮かべていた。乱れ髪の人形のガラス玉の瞳がそれを静かに映し出していた。


 薄暗いバーでフードを被った男がひっそりと酒で唇を湿らせていた。そこへ、昨日とは打って変わった穏やかな様子のルーカスが現れた。フードの男の唇がゆっくり笑みを刻む。

情報(ニンジン)は美味しかったろう?」

「ああ。とても」

ルーカスの穏やかな返答は、フードの男にはどこか感情が欠落したような無機質さに聞こえ、笑みを深くした。

「それはよかった」

 男はそれきり口をつぐんだ。男はルーカスの変化をじっくりと観察していた。

 ルーカスはそんな男の誘いにあえて乗ることにした。リリアーナを救えるなら、利用されても構わなかった。

「何をしたらいい?」

 ルーカスが問うと、フードの男の唇はにんまりと弧を描いた。ルーカスが男に答えるように向けた穏やかな笑みは、どこか異質で、ゾクリと背筋を悪寒が這い上るようだった。

「今夜はこのまま、協力締結の祝いをしよう」

フードの男がもったいぶるように言うと、

「すまないが、家で大事な人形(ヒト)が待っているんだ。連絡を待っている」

「……ああ。後で連絡をしよう。別な者が行くだろう」

ルーカスは男に向かってひとつ頷くと足早に店を出て行った。フードの男は皮肉気に口の端をあげると、

「狂ったか」

と呟いて、酒を飲みほした。


 ルーカスは久しぶりに自国に足を踏み入れた。学生時代はきちんとカットしていた髪は放っているうちに長くなっていた。それを丁寧に撫でつけ、一括りに結んである。服もそれなりの仕立てのものを着ており、男爵家や学園で礼儀作法の教育を受けていたルーカスの所作も加わり、きちんとして見えた。

「悪くないな」

 出迎えたフードの男の部下が値踏みを終えてそうつぶやいた。フードの男の指示で、身分を変え、姿をほんの少し変えて帰ってきたのだ。ルーカスのリリアーナのために。

「ねぐらを用意した。そこで指示をする」

 ルーカスは男についていった。小ぶりの目立たない馬車に乗りやってきたのは、王都の中心部からやや離れた裏通りだった。派手な女が立っていたり、小競り合いがあるような場所で、学生時代のルーカスには縁がない場所だった。こういうところで遊んで身持ちを崩す学生もいなくはなかったため、耳にしたことはある場所だった。

 ルーカスに用意された部屋は隣国で借りていた部屋に比べるとかなり小さく、薄汚れた壁紙と古くボロボロになったカーテンがかかっているだけの、本当に寝るだけの部屋だ。

「お前には王宮の下級文官として行ってもらう。下級文官はほぼ平民だ。住んでるところも似たり寄ったりだ」

「顔でばれないか?学園卒業まではこの国の貴族だったんだ」

 それなりの苦労と酒でいくらか面影が変わっているが、不安だった。

「問題ない。これを」

男が出したのは眼鏡だった。

「魔道具か?王城の検閲でひっかかるだろう?」

「いや、問題ない。平民は出入口の魔道具センサーさえ引っかからなければ素通りできる。これは引っかからない程度の魔道具なんだ」

「杜撰だな」

「そう仕向けるのに苦労したよ」

 男がニヤリとして言うと、

「掛けてみろ。掛けた本人は分からんがな」

ルーカスが眼鏡を掛けてみる。素通しのレンズで、視界は裸眼より狭まる感じはするが、問題なく見える。男は眼鏡をかけたルーカスを見て、満足げに頷いた。

「瞳の色が少し変わる。それと、記憶に残りにくい」

「派手な事は出来ないということか?」

「そうだ。盗みをした所を見られれば、当然お前だと認識される。当面の間は少しばかり齟齬を起こさせるように誘導しろ。追って指示を出す」

「分かった」

 ルーカスは男が去ってから、手に下げていた鞄から人形を取り出した。

「リリアーナ、窮屈だったかい?」

仄暗い微笑が人形の虚ろな瞳に写り込む。人形の髪は縺れていて、顔は薄汚れていた。ルーカスは手で優しく人形の髪をくしけずり、ハンカチで顔を拭いてやると、人形の頬を両手で包み込むように持ち、ゆっくりと顔を人形の顔に近づけていった。


 ルーカスはルイと言う偽名で王城に勤め始めた。学園時代に一緒だった者とすれ違うこともあったが、気づかれなかったことで、ルーカス(ルイ)は自身の変化と眼鏡の効果に自信を持った。

 ルーカス(ルイ)の学園時代の同級生には王太子をはじめ、今はこの国の中枢にいる者たちが複数いた。

(そういえば、エミリア嬢も文官になったはずだが姿が見えないな)

 しばらくして、ルーカス(ルイ)は気が付いた。平民女性初の文官だと卒業式で王太子から大々的に発表されたのだ。しかし、基本的に平民は下級文官だ。たいてい貴族の妨害にあって出世など望めないが、稀に上に登っていく者がいるのもまた事実。とはいえ、エミリア嬢にその手腕があったとはとても思えない。

 机の上に大量の追加書類を置かれた同僚が、生気のない顔でルーカス(ルイ)に声をかけてきた。

「ルイ。お前、書類少ないな?」

「あらかた処理し終わったからな」

「手伝ってくれないか?」

 一度手伝えば何度も甘えてくることは分かっていたが、他の文官の仕事に少々齟齬を加えられるチャンスでもある。

「毎回は手伝えないが、今なら少しばかり手伝える」

「ありがたい!もう1週間も家に帰れてないんだ」

「そういえば、平民女性の文官がいると聞いていたが?」

 書類を受け取りながら聞くと、同僚は顔をしかめた。

「あぁ。エミリアの事か。あいつは個人で執務室を持ってるんだ。王太子殿下と側妃様の専属なんだよ。王太子殿下がバックにいるからな。かわいい子だけど、関わるなよ?王太子殿下のお気に入りだから」

「そうなのか。気を付けるよ」

(エミリア嬢は側室になると思ったが、まさかリリアーナに関わっていたとはな)

 ルーカス(ルイ)は同僚の書類を手早く確かめる。王城に搬入する予定の雑多な物の手配書だった。その中に、王太子の離宮に行く品物も含まれていた。王太子の離宮に行く物は厳正に管理されており、時間がかかるのが常だ。 ルーカス(ルイ)は王太子が酒類よりも紅茶を好んでいるのをすでに把握していた。このリストの中にもこの国ではめったに手に入らない茶葉の名前が載っていた。

(些細な嫌がらせだが)

 ルーカス(ルイ)はその茶葉を王妃の離宮へ行くよう小細工をした。王妃の侍女たちがまともに確認しない事は下級文官の間では有名で、入って日が浅いルーカス(ルイ)ですら知っていた。その茶葉もきっと珍しい献上品だと思い込んで、王妃に飲ませるのが目に見えるようだった。



 王太子アルベルトの離宮はピリピリとしていた。本日到着予定だった茶葉が届かず、確認するにも時間がかかり、ようやく確認できた時には、すでに王妃がその茶を楽しんだ後だった。さらに問題なのは、王妃は隣国から自分についてきてくれた侍女たちに大変寛大で、その茶葉の残りを侍女たちに振舞ってしまったことだった。

 アルベルトと言う男は、変化を欲する癖に自分の望み通りに事が運ばないと大変不機嫌になるのだ。

 アルベルトの侍従は青い顔で詳細を説明している。あの茶葉は何か月も前から取り寄せをして、ようやく届いた品だ。代わりなどすぐに用意できるものではない。

「王妃に先触れを」

 淡々と指示を出してきたアルベルトの態度に、侍従は怒りの深さを感じてそっと身震いした。


 王妃とアルベルトの面会は、荒れた。双方とも気位が高く、傲慢で我儘なのだ。また王妃が自分の侍女たちを庇う事で一層事態を深刻化させた。

 この一件で、王家派としてゆるく纏っていた派閥が少しずつ変化していくことになる。


 アルベルトの苛立たしさを鎮める役目を仰せつかったのは正妃のエレオノーラだった。アルベルトの寵愛の深い側妃のリリアーナは、体調が優れなかった。

 エレオノーラは、アルベルトに下手な茶葉をもっていっても意味がないどころか、怒りを深めるだけだと分かっていた。エレオノーラは懇意の商人を呼び寄せてすぐに手に入る茶葉の確認をしたものの、どれもアルベルトにとっては珍しくないものばかりだった。言葉を尽くすしかない。アルベルトをなだめたら、次は王妃が待っている。かすかに胃の痛みを感じながらアルベルトを訪問する。

 アルベルトは表面上凪いでいた。だが、瞳の奥のギラギラした怒りまでは隠せていなかった。

(ああ。今日は手ごわそうだわ)

「アルト様」

 柔らかく声をかけると、アルベルトは不機嫌そうな鋭い目つきでエレオノーラを射抜くように見た。

「何だ?」

「リリアーナ様がお庭にお誘いしてくださったの」

「体調が悪いと聞いているぞ」

エレオノーラは一拍呼吸を置いてから、

「はい。ですが、リリアーナ様自ら手入れをなさっているハーブのお花が見ごろなのだそうです。ぜひ見ていただきたいと言付かっております」

 本来ならリリアーナで釣るようなやり方はスマートではないが、アルベルトにはこういった方が効きやすかった。

 リリアーナの離宮はほかの離宮に比べれば小ぶりだが、その分庭を大きくとっていた。リリアーナは自らハーブを育てているが、花も好きで庭師に年中花が見られるようにと指示を出していた。今も色とりどりの花が咲きこぼれているのが遠目からでも分かる。

 離宮に入ると青白い顔のリリアーナが自ら出迎えてくれ、アルベルトの機嫌を取ってくれた。エレオノーラは体調がすぐれないリリアーナにさらなる負担をかけたことに、罪悪感を抱きながらも少しほっとしていた。それから、エレオノーラとアルベルトは庭をそぞろ歩き、ハーブの小さく可憐な花や色とりどりの花を楽しんだ。いくらかアルベルトの機嫌が直ったので、リリアーナを見舞ってから帰るというアルベルトを置いて今度は王妃宮へ向かう。一人になり、不意にエレオノーラは

(あら?わたくし、アルト様のどこが好きなのかしら?)

と思い、慌ててそれを否定した。

(わたくしはアルト様を愛しているわ、そう、愛しているのよ)

 ぎゅっと白くなるほどこぶしを握り締めてエレオノーラは王妃の元へ向かった。

 

 王妃はいつも通り、完璧な姿をエレオノーラに見せた。報告にあった荒れた親子の会話の鱗片すら感じられない。これが王妃とアルベルトの差なのだろう。

「アルベルトはまだ機嫌が直らないの?」

「―――リリアーナ様とご一緒です」

 エレオノーラは思わず視線を下げた。正妃である自分では宥められないという負い目だ。

「あなたは私と違って、愛されていないものね」

王が本当に愛しているのが王妃なのか側妃なのか、エレオノーラには分からない。だが少なくとも側妃だけを優先したり、王妃を蔑ろにする様子は見たことがない。それが愛でも政治判断だとしても、エレオノーラの立場が王妃に比べて揺らぎやすいのは否定できなかった。

 エレオノーラの顔がわずかにこわばるのを、王妃は笑みを浮かべたまま見つめていた。

「あの茶葉、こんな大事にするような品なのかしら?」

「大変珍しい品で、特に今回のものは新茶でした。確保できた事も僥倖だったと聞き及んでおります」

「まあ、だからあんなに少なかったのね?」

 アルベルトが苦労して何とか手に入れた茶葉は数回楽しめる分が精いっぱいだった。希少で人気が高い茶の、しかも新茶ともなれば、他国の王侯貴族もこぞって手に入れようと躍起になって当然の品だった。

「はい」

 それをどれほどアルベルトが欲していたとしても、王妃が気にしていないのは明らかだった。王妃からすれば高価だろうが希少だろうが、茶葉は茶葉だ。これが宝石だったら違う反応だったろうが、感覚のずれというか、他人をおもんぱからないところがそっくりな二人にとって平行線の話題だろう。

「孫は母に気遣いができないアルベルトみたいにならないように、きちんと教育しなくてはね?」

 エレオノーラは言葉に詰まった。アルベルトの教育は、隣国の姫であった王妃の采配ではなく、王と王家派が主導したと聞いている。つまり、王妃はかつて自分がやられたことを王家派重鎮の娘であるエレオノーラに返すつもりなのだ。

「アルベルト様がお決めになることですわ」

 何とか口から出た言葉がまるで他人事のようで、我が子を冷たく突き放したように心が痛んだ。この王宮の中で我が子はどんなふうになってしまうのだろうと、エレオノーラの心は大いに荒れた。

 何とか王妃のところを辞すと、エレオノーラは自分の執務室へと足を向けた。まだやることがあるのだ。王妃の言葉のひとつひとつが抜けないトゲとなってエレオノーラをむしばんでいく。だが、そんな事よりも、我が子の事だ。

(あの子はいずれこの国を背負うのよ。王妃が好き勝手出来ないように手を打たなくては) 

エレオノーラは強くあるために自分の心から目を背けた。



 ルーカスは人形(リリアーナ)を膝のうえに乗せ、ベッドに座っていた。

「リリアーナ、今日はアルベルトの茶葉にいたずらをしたんだ」

人形(リリアーナ)の頭を優しくなでながら、慌てて駆け込んできた上級文官の問いに、青白い顔の下級文官たちの要領を得ない返答を思い出して、小さな笑い声をあげた。下級文官たちの多くは疲れ切っていて、頭が回っていない。ルーカスからすれば、押し付けすぎる貴族階級の文官のせいだと思うが、彼らはそう思わない。いきり立って怒鳴りつけ、王太子の茶葉の行方を捜すのに右往左往している姿は滑稽だった。

「いい子でお留守番をしているんだよ。報告へ行かなくちゃならないんだ」

 人形(リリアーナ)のつむじにキスを落として、名残惜しそうにベッドの枕元にそっと座らせると、ルーカスは上着を抱えて夜の街へ歩いて行った。


 落ち合う場所はルーカスのねぐらから少々離れていた。歩くたびに派手な女に声を掛けられ、腕を取られるがルーカスの顔を、瞳を覗き込んだ女たちは息をのんで離れていく。こういう女の方が深く人間とかかわっているせいか、何かを感じ取りやすいのだろう。もっとも、ルーカスは気にすることなく歩いていく。

 指定された場所は安酒場だった。ルーカスが扉を開けると喧騒がたたきつけるように響いてきた。ルーカスは臆するでもなく、目的の男を見つけてその向かいに腰を下ろした。

「調子はどうだ?」

「少しばかりいたずらをしてきたよ。なかなか面白かった」

 エールを頼みながら答えると、向かいの男はニンマリ笑った。

「もう俺にも聞こえてきたぞ」

「思ったより大騒ぎだったな」

「ああ。面白いくらいにな。ところで、お前、エミリアって知っているか?」

「平民初の女性文官か?」

 男が頷いた。やってきたエールにルーカスは口をつけてから答えた。

「学園で一緒だったよ。もっとも俺とクラスは違うし、あちらは王太子殿下と仲良しで目立ってたけど、俺は目立たなかった。向こうは覚えていないだろう」

「面白いうわさがあるんだ。少しばかり調べてきてくれ。答え合わせをしよう」

「ああ、分かった」

 ルーカスはエールを飲み干すと、席を立った。

「もう帰るのか?」

「愛しい人形(ヒト)が待ってるんだ」

「―――そうか」

 ルーカスは片手をあげて出て行った。ルーカスと入れ違いに、すばしっこそうな短髪の男が入ってきて、男の前に座った。

「おい、あの人形遊びをしてる気持ち悪い男は何なんだ?」

開口一番、吐き捨てるように短髪の男が言った。

「我々の手ごまの一人だ。刺激するなよ。面倒だ」

 短髪の男は、ルーカスの監視役だった。そのおかげでルーカスが人形と何をしているか知ってしまったのだ。

「お前だけでやれ。ほかに漏らすな。面倒ごとはあのお方も嫌いだ」

「分かってる。クソ。楽だと思って引き受けるんじゃなかった」

短髪の男は忌々しそうに口をゆがませてそう言うと、ルーカスを追って店を出て行った。

 隣国にいるフード姿のあの方が手紙で伝えてきた「狂った」という意味が、部下の男もようやく理解できた。

「確かに、狂ってるな……」

と言って、にんまりと笑った。


 ルーカスが人形(リリアーナ)と眠りについたころ、短髪の男は辟易した顔で報告しに安酒場に戻った。店内を通って店の裏に出ると、地下に通じる階段があるのだ。それを降りていくと、ルーカスと話していた男が待っていた。

「人形と一緒におねんねしたよ」

 反吐を吐き出すように短髪の男が言うと、男は表情も変えずに

「人形に手を出さない方が身のためだぞ」

「分かってるよ。ぶっ壊してやりてぇけど、俺だって面倒ごとはごめんだ。あんたに目を付けられたくもねぇしな」

 ルーカスが眠る前に、まるで恋人にするように人形(リリアーナ)にキスをし、睦言をささやいている姿は、短髪の男にとって拒絶の対象にしかならない程不気味で、最高に気持ち悪かった。だが、短髪の男も狂気に満ちた男の大事にしているモノに手を出すほど浅はかでもなかった。

「それで、どうだ?」

「人形遊び以外はまともに見える」

「見える、か」

「綱渡りの最中だな。いつ踏み外してもおかしくねぇ」

「ふむ。まあ、アレも知ってて使われているからな。つながりはこまめに念入りに消しておけ」

「ああ」

 短髪の男は注いでもらった高価な酒を、グッと飲んだ。いつもなら大事に味わって飲むのだが、今夜はとてもそんな気分になれなかった。



 ルーカス(ルイ)は指示通り、さりげなくエミリアの執務室を探り始めた。エミリアの執務室は目立たない場所ではあるが、下級文官たちが俗に呼んでいる”貴族エリア”に接するあたりにあった。

 下級文官たちが自由に歩けるエリアは基本的に1階部分の文官たちの多くいるエリアだけだ。それ以外のエリアに用事がある場合は、伝書鳩のような役割のメッセンジャーに言付けとともに書類などを預けるのだ。たいていは下位貴族の家を継げなった次男や三男で、身元と性格がまともな者が採用されている。案外人気らしい。

 ルーカス(ルイ)は”伝書鳩”のうちのひとりに目をつけた。まだ入ったばかりの新人で、茶金髪の髪をオールバックにしており、目は深い青色だ。何処か幼さが残るものの整った容姿は、たいして似ていないのに何故かアルベルトを彷彿とさせた。名はロイドと言うらしい。

(目の色のせいか?アルベルトを思い出すのは癪に障るが、利用は出来そうだ)

 青白い顔の文官たちのうち、エミリアと関わりのある書類を担当する文官に言葉巧みに近づくと、ルーカス(ルイ)はその仕事を少しばかり手伝ってやった。文官がルーカス(ルイ)に完全に気を許すようになると、ルーカス(ルイ)は仕事を頼るように仕向けた。常に疲れ切っている下級文官はすぐにルーカス(ルイ)の甘い底なし沼に嵌まっていった。

「悪い。今夜は娘の誕生日なんだ」

 小声でそう言って仕事を頼み込む文官に、ルーカス(ルイ)は甘い笑みを向けて「仕方がないな。今度だけだ」と囁いた。すでに何回も”今度だけ”が繰り返されている。ルーカス(ルイ)が押し付けられた仕事は、アルベルト主導でエミリアが担当している”平民女性の地位向上”の資料だった。

 現在はエミリアしかいない平民女性の文官を増やすのが主眼で、幾人かはエミリアがすでに面接し、選定しているらしい。

(何で文官採用に、容姿が載っている?)

資料にはテストによる知識量よりも事細かく女性の容姿についての記載があった。エミリアが欲しているのだろうが、ルーカス(ルイ)は女性たちの特徴がリリアーナに似通っているのにすぐ気が付いた。

 ルーカス(ルイ)は心がざわつき、黒いドロドロした感情がせりあがってくる。

(アルベルトの指示か?―――俺のリリアーナを使いつぶすつもりか?リリアーナの代わりか?)

他の資料にも目を通す。採用予定の者についても報告があり、これはアルベルトへ届けるものだった。先ほどの容姿が載った資料と見比べる。

(ん?こっちはピンクブロンドの髪、目は緑。これは赤毛で目が水色……?)

資料にはリリアーナとまったく同じ配色の者が幾人かいた。知識量も問題ないようだ。だがエミリア嬢が採用しようとしている者たちは、知識量は他の候補者よりやや劣り、リリアーナに少しだけ似ている人物を採用している様にも見える。

(採用されなかったものがどうなっているのか、確認がいるな)

 どろりと湧き上がる感情を殺しつつ、

「ロイド。これをエミリア嬢の執務室へ届けてくれ」

と、差戻の資料をさっと作って言付けを持たせた。単純に、この資料を見ればエミリアの偏向的な採用基準がすぐわかる。これをあげたところで、通常は了承を得られるわけがない。

 ルーカス(ルイ)から資料と言付けを渡されたロイドは、それを携えてエミリアの執務室に向かった。



 ロイドは、ルーカス(ルイ)の甘やかな笑みに少しばかりドギマギしつつ、言われた通りエミリアの執務室に届けに行った。ノックをすると軽やかな返事とともにドアが開いた。

「こちらをエミリア様にお届けに参りました」

「ありがとう。少し待ってくれる?入って」

 ロイドの様な”伝書鳩”は礼儀作法と貴族の顔と名前を把握していなければならない。執務室にはエミリアしかいない事で、ロイドは戸惑った。

「あの、失礼ですが、他の方は?」

「居ないわ。ここは私だけの執務室だし、補助の方もまだ決まっていないの。さあ、入って?」

 エミリアは学園に通っていたし、勿論、貴族の男女が2人きりになる事をさけるのは知っていた。だが、エミリアは平民である。しかも仕事中だ。エミリア的には全く問題のない行動だった。

 ロイドはおずおずと執務室に入った。エミリアはロイドの背後でドアを完全に閉めてしまった。

「書類を確認するわ。そこに座ってて」

応接セットを示して、エミリアは固まったままのロイドを残して、机についた。重厚なそれは、エミリアにはあまり似合っていなかった。

「えー。何で通らないのよ。あの文官、私の事知らないのかしら?」

 エミリアのひとり言を聞きながら、ロイドはギクシャクと応接セットのソファに浅く腰を下ろした。落ち着かず、変な汗がにじむ。

 エミリアの執務室はこじんまりとしているのに執務用の机が大きい為、圧迫感を感じる。しかし書棚は僅かな本と資料をまとめたものが少しあるだけで、ほぼカラなのがアンバランスな印象を与える。

(エミリア様はアルベルト王太子殿下のお気に入りと聞いているけど、もし、この状況で他の人が来たら······)

 ロイドは気が気でない。1秒でも早くエミリアが返信を書き上げるのを祈るようにしているところに、ノックの音がした。

(嘘だ!そんな······)

「はぁぃ」

 エミリアは何も気にせず返事をして、視線でロイドに開けろと言っている。ロイドは顔面蒼白にして、泣きそうになりながらドアを開けた。

「エミ―――あなたは?」

 そこに立っていたのは、侍女を連れたエレオノーラだった。エミリアではなく、見知らぬ若い男がドアを開けたことに驚いている。ロイドの膝が知らず知らずのうちに笑う。

「彼はメッセンジャーよ。返事をするから待っててもらったの」

 エミリアは何も気にすることなくそう言って、ロイドに返信を渡した。

「これをさっきの文書を渡した文官に届けてちょうだい」

 ロイドはそれを受け取ると、駆け出したい衝動を押さえて、何とかエミリアの執務室から脱出した。

 エレオノーラはロイドが顔面蒼白で立ち去った姿に、ふとアルベルトを重ねた。

(そうだわ。彼は昔のアルベルト様に何処か似ているのだわ)

小さい頃、まだ王族としての責務の重さに怯えていた頃のアルベルトにどこか似ているのだ。あのころのアルベルトを、エレオノーラは支えてあげたいと―――

(いいえ。アルト様はお強い方よ)

 無駄な感傷を振り払うと、エミリアに向き直る。

「リリアーナ様のお仕事が滞っているようだけど?」

「アルト様のお仕事があったので」

 エミリアの顔はどこか勝ち誇っている。エレオノーラは不快だった。

「そう。なら、補助の方が決まるまではリリアーナ様の仕事を私に回してちょうだい。それから、いくら仕事中だとしても、男性と密室で2人きりになるのはダメよ。せめて、ドアを開けておきなさい」

「平民では普通ですよ?」

「ここは王宮です。貴族のしきたりに則って行動しなさい」

エレオノーラの口調は知らず知らずのうちに尖っていた。



 エミリアはエレオノーラからの注意に腹を立てていた。

(何が貴族よ?!アルト様の寵愛が受けられないから、私に当たっているんだわ)

 エミリアは裕福な家庭出身の平民である。家は商会を営んでいて、常に最新のものに囲まれ、両親から愛されてきた。その分、エミリアは両親の期待に応えるように学園に入学してみせた。そして、アルベルトに見いだされたのだ。ただ貴族の家に生まれて婚約者に選ばれただけのエレオノーラとは違うとエミリアは思っていた。

 エミリアは常に身に着けているアルベルトから渡された王太子の紋章が刻まれたペンダントを、王太子離宮の門番に見せる。

(アルト様に慰めてもらいましょう。どうせ、エレオノーラ様は愛されてないし、リリアーナ様だっていつ死ぬか分からないもんね)

 リリアーナが体調を崩している上、だんだんと痩せていくのを、仕事で接しているエミリアは気づいていた。リリアーナに取って代わるのも近いと、内心浮かれている。

 学生の頃にアルベルトに見出されたエミリアは、王妃になれると本気で思っていた。だが、結果はエレオノーラが正妃であり、ぽっと出のリリアーナに側妃の座を奪われたと思っていた。

 エミリアが我が物顔で王太子の離宮を歩いていくと、アルベルトの侍従に止められた。

「どうしてダメなの?!」

エミリアの声が響く。侍従は遠回しにアルベルトの機嫌が悪いと伝えたのだが、エミリアは迂遠な宮廷会話が苦手である。その声を聞きつけて、アルベルトの側近の一人がやってきた。

「エミリア嬢。アルベルト様は、今日はお加減が少し悪いんだ」

「なら、お見舞いに―――」

「誰にもお会いしたくないそうだ。エミリア嬢がお帰りだ。お見送りを」

側近はエミリアに有無を言わさずそう言って、エミリアがその場を離れるまで見ていた。エミリアの学生時代を知る彼は、エミリアがどう反応するか熟知していた。王太子の部屋の周りや庭先に護衛と巡回を増やすと、ため息をついて仕事に戻った。

(アルベルト様のご趣味は分からん)

と思いながら。


 エミリアは腹立たし気に執務室まで戻ろうとする途中で、ロイドを見かけた。エミリアにいたずら心がわく。

(さっきは顔を真っ青にしてたわね。今度は真っ赤にさせてみようかしら?)

 エレオノーラの態度やアルベルトに会えずに門前払いされた悔しさを、ロイドで晴らそうとエミリアは猫なで声で声をかけた。

「ねえ、伝言を頼みたいのだけど?」

ロイドがエミリアの顔をみて、少し青ざめる。その時、

「すまない。もう一件別件で―――」

と、ルーカス(ルイ)がロイドに声をかけてきた。ロイドは救いの神が現れたとばかりにルーカス(ルイ)の元へ最大限の速足で行った。エミリアは完全な肩透かしを食らった形になり、ルーカス(ルイ)をギロリと睨んだ。

「これを財務の文官に」

「承知しました」

「ちょっと、私が頼もうとしてたのよ?」

ルーカス(ルイ)はエミリアを一瞥してから、冷ややかな微笑を浮かべて、

「彼は私の依頼の途中です。別な者を呼びましょうか?」

と言った。その隙にロイドは頼まれた文書を届けに行ってしまった。思惑が外れたエミリアは苛立たしげに、

「もういいわよ!」

と言って、荒々しく執務室に入っていった。

(エミリアはロイドを気に入ったのか?)

その後ろ姿を見ながら、ルーカス(ルイ)は考え込んだ。



 声高に噂話をしている文官たちに、アルベルトの側近は苛立たしげに近づいていった。

(こんな場所でなんてことを言っているんだ?!)

注意しようとした時、

「何のことだ?」

と、もっとも聞きたくない声を聞いて、凍りついた。それは文官たちも同じで、真っ青になって震えている。

(馬鹿な奴らめ!おかげでこっちも面倒な事に!)

 文官たちは最近エミリアの執務室に入っていくロイド(メッセンジャー)が赤くなったり青くなったりしながら出てくるのを面白おかしく噂していたのだ。

「殿下。この者たちは今までも大げさなうわさ話を広げている者たちです」

側近の言葉に、文官たちは青を通り越した白い顔で、今にも倒れそうになっている。こんな者たちでも貴族の末席である事実に、側近は頭が痛かった。

「そうか。それで、エミリアがそのメッセンジャーと何をしていたのだ?」

「はひっ。み、見ておりません」

「見もしていないことを、さも見たように話していたという事か?」

 一瞬、文官は固まって、それから卒倒した。どっちに転んでも地獄が待っている状態に耐えられなくなったらしい。もう一人の文官は、倒れた文官を介抱しつつ何とか王太子の追及を避けて少しばかりほっとしていた。もっとも、その後二人とも文官をクビになって王宮から放り出されたのは言うまでもない。

「少し、弛んでいるのではないか?」

「改めて綱紀をただすよう通達します」

 アルベルトが鷹揚にうなずいたのを見て、側近はそっと胸をなでおろした。アルベルトはその足でエミリアの執務室を訪ねた。彼女の執務室にはピンクブロンドの髪と緑の目をした女性がいた。エミリアの隣で彼女は少しばかりくすんで見えた。

「アルト様!今度、この執務室に勤務するベルって子です」

 エミリアがうれし気にアルベルトに近寄って、報告する。一度ルーカス(ルイ)に突き返されたものの、結局エミリアはアルベルトの威光をかさに我を通したのだ。

「そうか。エミ、少しばかり話がしたいのだが」

「ベル。しばらく下級文官の部屋で待機してて」

「分かりました」

 ベルは素直に退出すると、緊張を解きほぐすように小さくため息をついた。『平民女性の希望の光』と評判が高かったエミリア嬢は、思っていたような人物ではなかった。王宮も、キラキラしたイメージしかなかったが、ベルが今から行く下級文官たちが居る部屋にそんなものは欠片もなく、ただただ疲弊していた。

(せっかく受かったけど、思ってた感じと全然違うなぁ。務めていけるかしら)

そんな不安を抱えたままベルはとぼとぼと歩いて行った。



 エレオノーラは疲れていた。愚痴をこぼしたくても、その相手がいない。リリアーナには体調の件がなくても言いづらいし、エミリアは論外だ。実家のエレオノーラの侍女たちは王妃の采配で誰も連れてこれなかった。アルベルトはそもそもが愚痴をこぼせる相手ではない。日記を書こうかとも思ったが、人目に触れたらと思うと書き記すのも怖かった。

 我が子に会えればいいのだが、忙しさもあって今朝会ったきりだった。もうこんな時間では乳母とともに寝ているだろう。

 ため息をつきかけた時、やってきたのはアルベルトだった。瞬間的に柔らかい微笑を浮かべる。

「どうされました?」

「エミリアにあまりきつい言い方をするな」

「え?」

 エレオノーラは虚を突かれて、声を出した。

「彼女には彼女のやり方があるんだ。あまりこちらのやり方を押し付けてやるな」

「―――はい」

 それからアルベルトは、

「孤児院の件、大筋はあれでいい。もう少しまとめておけ」

と言いおいて出て行った。アルベルトの提案という形でエレオノーラが受け持っている件だった。いつの間にかエレオノーラの顔から表情が抜け落ちていた。


 エレオノーラは機械的に自分の執務室へ入ると、書類を手に取った。

『地方の干ばつの影響が長引き、王都への人の流入が止まらず―――』

『モンスターのスタンピードによる被害が大きく―――』

『増え続ける孤児院を隠れ蓑に人身売買が行われ―――』

 エレオノーラは直接孤児院に金を落とすのではなく、建物の補修や必要な物資の計画的分配などで真っ当な孤児院をサポートする案を出していた。

 だが、孤児院は様々な要因で増え続けている。平等にやるのは金も時間も人も限られている中で、どうやってこれを運営していくか頭を悩ませていた。

「やはり、王都からね」

ぽつりと言って、ペンを手に取って、書き記していく。

「地方は後回しよ。でも、慈悲深いアルト様を演出するために、食料を少し分配してやればいい」

 エレオノーラは地図を取り出して、指先で辿りながら、

「ここは貴族派、こっちは隣国派。優先的に配るのは王家派とそれぞれの有力者達から。貴族派と王妃にべったりの末端はギリギリまで放置よ」

ペンがカリカリと音を立てて、字が綴られていく。

「そうよ。私は王妃になるのよ。これくらいの采配で心を悩ませるのは間違っているわ。理想と現実は違うんだから。人身売買をしている疑いのある孤児院は洗い出して、強制捜査をすればいいわ。そこにいる孤児は不運なだけよ」

 静かな執務室で、エレオノーラの独り言は誰に聞かれることなく霧散していった。



 エミリアの執務室の前には、若い女性たちが緊張した様子で立っていた。

 ルーカス(ルイ)は、さり気なくエミリアの執務室の近くでこっそり休憩している下級文官といった体でそれを見ていた。

 エミリアが執務室から出てくると、女たちを値踏みし始めた。

「あなたと、あなた。面接するわ。そっちのあなた。帰っていいわ」

「め、面接と―――」

「帰って?それとも、王宮で騒ぎを起こすの?」

冷ややかなエミリアに、帰れと言われた女性が悔しげな顔で立ち去っていく。

 ルーカス(ルイ)が観察していると、エミリアより外見に優れた点がある女性が帰されているのに気がついた。さっきの女性は、明らかにエミリアより胸が大きく、スタイルが良かった。

 皆、どこかしらリリアーナに似た色を持っているが、ルーカス(ルイ)が見ている限りでは、エミリアが選ぶのは自分より明らかに外見が劣っているものばかりだった。


 ルーカスは一度ねぐらに帰り、人形(リリアーナ)にただいまのキスをした。

「帰ったらゆっくり話そう。寂しい思いをさせて、ごめんね」

もう一度甘いキスをして、ルーカスは安酒場に向かった。もう派手な女たちはルーカスに近寄ってこなかった。

 安酒場にはいつ行ってもフードの男の部下がいた。今夜も目立たない隅で酒を飲んでいる。

「自分から来るとは珍しいな」 

 ルーカスは挨拶もせず、いきなり切り出した。

「エミリアはリリアーナに似た色がある女たちを採用している。ただし、外見を見るぶんにはエミリアより劣っているものを基準にしているようだ。帰された女たちの行方を調べてくれないか?」

 ルーカスは、アルベルトに指示されたエミリアが、リリアーナに似ているものを探しているのだと思った。エミリアが採用している者はブラフで、実際に必要なのは採用されなかった女たちだとルーカスは考えたのだ。

「やはりそうか。くだらんな」

男はそう言ってから、にやりと笑うと、

「選考から外れた女たちを少し探ってやる」

と恩着せがましく言った。ルーカスと男が会ったのは、それが最後だった。

 


 エミリアはベル以外にも、リリアーナを彷彿とさせる様な者達を増やしていった。エミリアより容姿が劣り、エミリアより仕事が出来ない彼女たちにエミリアは、

「あら、そんな事もできないの?」

と言うたびに、愉悦を感じるようになっていった。彼女たちに人気があるどこかアルベルトに似ているロイドをしょっちゅう呼びつけて、親しげに接するのを見せびらかすのも、何だか気持ちが良かった。

 そして、エレオノーラの叱責はアルベルトに曲解した告げ口をし、容姿が衰えたリリアーナを内心嘲笑し、エミリアは自分の心を満たしたいった。

(もうすぐ、私がリリアーナさまに取って代わる。なんて素晴らしいの!)

 

 リリアーナが起き上がれなくなると、アルベルトはエミリアを求め始めた。エミリアは幸せの絶頂だった。

(これで側妃になれたら……いいえ。正妃にだってなれるかも!)

 リリアーナを蹴落としたと思い込んでいたエミリアは、アルベルトの寵愛を一身に受けて、ますますエレオノーラを見下した。

 

 ベルはここのところ、エミリアの様子に嫌悪感を抱いていた。リリアーナの体調が悪化するのに反比例して、エミリアは妙な自信と他人を見下す態度がひどくなっていった。

 特に、ベルには顕著だった。ずっと何故だろうと思っていたが、のっぴきならない仕事上の理由で側妃様に会って、察してしまった。

(私の髪色、少し側妃様に似てる。最近入ったあの子は、瞳の色が……。怖い)

 エミリアが採用したのは、どことなく側妃様に似た色や雰囲気を持つ者ばかりだった。そして、エミリアがベルたちに注意や小言を言うときの歪んだ口元を思い出してぞっとした。

(今ならまだ間に合う。もう、やめよう。お給料が高くたって、こんなところにいたらどんなことになるか分からないわ)

 あこがれの職業であったが、現実は残酷だ。ベルは辞表をしたためて、エミリアの執務室の、不釣り合いに大きな机の真ん中に置くと、そのまま王宮を辞して二度と戻らなかった。



 リリアーナの死は、静かだった。

 

 親友で侍女のマリーに看取られた彼女は、穏やかな顔つきで永遠の眠りについたのだ。


 だが彼女の静かな死は、まずマリーの悲鳴と大声で破られた。

 

 医師が駆け込んできて、息を引き取った彼女を丹念に診察して、首を横に振った。


 リリアーナの死の波紋は時間を追うごとに大きくなり、やがて王宮全体に波及した。



 エレオノーラは、リリアーナの死を覚悟していた。少し前に、リリアーナを見舞っていたから、もう長くはないだろうと思っていた。

(リリアーナ様が死んでしまった……)

 リリアーナの死を伝えられたエレオノーラは、動揺して思わずふらついたところを侍女に支えられた。

 リリアーナの死をエレオノーラは恐れていた。リリアーナの存在は、アルベルトの安全弁であった。例え寵愛が失われたように見えても、エレオノーラには、アルベルトの心を動かす女性はリリアーナしかいないと分かっていた。

(―――そうよ。私にはあの子がいるのよ。動揺している場合ではないわ)

 エレオノーラは深呼吸をすると、侍女に礼を言ってしっかり自分の足で立った。

「アルベルト様には?」

と伝令に問うと、

「別な者が向かいました」

と答えた。エレオノーラは頷いて、

「はしたないところを見せてしまったわね。下がっていいわ」

と言って伝令を返すと、自分の執務室に向かった。

「アルベルト様は現在、これとこれを推し進めているわ。けれど、裏から手を回して実権をこちらで握りましょう。そうよ。リリアーナ様にやった事をアルベルト様にも王妃にもやればいいんだわ。わたくしは、そうやって生き延びてきたのだもの。グランツ家の娘として、最大限に利益を王家派に流してやればいいのよ」

(例えそれがわたくしの心が望まない事だったとしても、やるのよ)

 エレオノーラは自分の子のためにも、盤石な地盤を築かなければならない。エレオノーラは自分の子のために、自分の心を犠牲に生き延びる選択をした。



 エミリアは側室になった。

(何でよ!せめて側妃だと思ってたのに!)

 平民のエミリアが何の後ろ盾もなく側妃になれるわけがないのだが、エミリアはそんなことに気が付きもしなかった。そもそも男爵家令嬢であったリリアーナですら、王の側妃の実家である侯爵家の養女になってから側妃となったのだ。

 それでも、側室となってアルベルトと最初の夜を過ごす日は心が躍った。念入りに磨いてもらった体を薄いネグリジェに包み、アルベルトを待つのは特別な気分だった。そわそわして、落ち着かない。どんな甘い言葉をかけてもらえるのかと期待していた。

「何故、お前の髪はピンクブロンドではないのだろうな?」

 アルベルトの第一声が、エミリアの肥大した自尊心をひどく傷つけた。

「アルト様?」

「瞳の色も水色ではない。何故だ?」

 アルベルトの瞳はエミリアをまっすぐに見ている。何の感情も乗っていないその瞳は、エミリアが初めて見るものだった。エミリアがわななく口を開こうとする前に、

「リリアーナのすばらしさを数え上げて見ろ」

「な、なにを―――」

「出来ないのか?お前はリリアーナのすばらしさが理解できないのか?」

 エミリアは絶句した。目の前のアルベルトは知らない男になっていた。エミリアが口を開かないのに苛立ったアルベルトに、強く髪をつかまれた。

「痛いっ!」

「リリアーナはもう声をあげることもできない。何故だ?」

「ひぃ」

(何で?!私は、私は、リリアーナじゃない!!)

 揺さぶられてエミリアは痛さと怖さから涙を流し始めた。こんなはずではなかった。だって、私はアルベルト様に選ばれた”特別”なのに、と。乱暴に髪から手を離されて、エミリアはベッドに無様に転がった。

「リリアーナなら美しい声で、私の事を慰めてくれるというのに」

 アルベルトの声は、どこか遠いところへ向けられていた。少し前まではエミリアに優しく話しかけてくれたアルベルトはいない。

(私の事、好きだったんじゃないの?!なんで?!)

エミリアの心の声は、アルベルトに聞こえるはずもなく、地獄のような”初夜”が幕を開けた。



 アルベルトはリリアーナの訃報を、静かに受け止めたように見えた。

「そうか」

と言ったきり、アルベルトの仕事の手は止まることはなかった。

 アルベルトの側近は、

(ご寵愛も薄れていたし、こんなものか)

と、リリアーナの死を軽く受け止めた。

「リリアーナの離宮は、なにも触るな」

アルベルトはゆっくりと側近に向き直ると、

「遺体は防腐処理をして、王家の墓に。蓋をガラス張りにして何時でも見られるようにしろ」

と言ってまた仕事に戻った。

「……承知しました」

 側近はやっとのことでそれだけ言って、ぎこちない動きでアルベルトの執務室から退出した。

 アルベルトの側近は、リリアーナの離宮の保存と御遺骸の防腐処理を命じたあと、気がつくとエレオノーラの離宮側まで来てしまったことに気がついた。

(しまった。動揺してこんなところまで来てしまうとは)

 アルベルトの命令は、悍ましかった。アルベルトの絶対的理解者として側にいたのに、アルベルトの本当の心の内は理解していなかったのだと痛感した。

「あら、珍しい。アルベルト様から何か言付かっているの?」

 エレオノーラが侍女を連れて通りかかった。側近は、アルベルトの命令をエレオノーラに話さずにはいられなかった。何時もなら余計なことを漏らしたりしないが、心が誰かとの共感を激しく求めていた。

「まあ。今ごろ気がついたの?」

 エレオノーラはさもおかしそうに笑って、側近を見た。そこで初めて側近は、エレオノーラの瞳の奥にいつも浮かんでいたかすかな感情が消えているのに気がついた。

「そうだわ。エミリア嬢にこれをプレゼントしようと思っていたの。アルト様もきっと喜ぶわ」

 エレオノーラが目配せすると、侍女が側近に掌に乗るほどの箱を渡してきた。

「これは?」

「リリアーナ様がいつもつけていた香水よ」

 側近は激しく動揺したが、運よく何とか香水を落とさずに済んだ。

「これからは、エミリア嬢がリリアーナ様の代わりにアルト様を宥めていただかなくては」

アルベルトの側近が、顔を蒼白にして彫像のように固まる前で、美しく笑うエレオノーラは、まるで地獄からの使者のようだった。



 アルベルトは仕事を終えると、リリアーナの離宮を訪れた。まず目に入るのは、美しい庭だ。手入れの行き届いたエリアと、最低限整えられて不思議な調和があるハーブのエリア。

 リリアーナの誘いでそぞろ歩いた場所だ。今は四季咲きのもの以外は花を散らしているが、アルベルトの頭の中では、あの時咲いていた花がはっきり見えている。

 今にも、ピンクブロンドの髪が庭に現れるのではないかと、アルベルトは周囲を見回すが、人影はない。

 少しがっかりした気分で入った離宮の中は、リリアーナの香りで満たされている気がした。まるでリリアーナに包まれたような気分だった。入ってすぐのホールにはリリアーナの肖像画がある。リリアーナが恥ずかしがるから小さなものにしたのを思い出して、頬が自然と緩んだ。

 柔らかく微笑んだリリアーナの水色の目が、アルベルトをじっと見つめ返す。在りし日のリリアーナの、もっとも美しい時の肖像画だ。

「この肖像画と同じものを、大きくして描かせろ」

「承知しました」

 硬い声を出す側近は、アルベルトから少し距離を取ったように見えた。アルベルトは気づかず、リリアーナの離宮を歩き回って、リリアーナの残滓をかき集めた。



 ルーカスは静かに、王家の墓に納められたリリアーナを見つめていた。アルベルトの傲慢が形になったリリアーナの遺骸は、艶を失った髪は大輪の花でごまかされ、リリアーナの顔には、在りし日の美しさを象った仮面が被せられていた。

 リリアーナであって、リリアーナでないそれはまるでルーカスの人形(リリアーナ)の様だった。

 ルーカスの手には、玉が握られていた。それをそっとリリアーナの傍らに置いた。

 人形(リリアーナ)のガラスの目玉が、リリアーナの遺骸を見つめた。それからルーカスはリリアーナの仮面を外した。狂おしいほど恋焦がれた人は、面影がなくなるほど頬が削げ落ち、骸骨のようだった。

「リリアーナ?」

(本当に俺のリリアーナなのか……?)

 ルーカスはそう呟くと、少しだけ戸惑った顔で、仮面を持ってそっと立ち去った。 


 ルーカスが仮面を持ち去って、王宮では静かな波紋が広がっている頃、隣国との境でこんな話が、密やかに噂されるようになった。

 ―――あの森には、美しい仮面をかぶった魔物が住んでいる。いつも人形の残骸をぶら下げて、森を彷徨っている。ピンクブロンドの女は近づいてはならない。魔物に取って喰われる。

 深夜の酒場でひっそりと怪談話として囁かれるそれは、数年もすると誰の記憶からも消えていた。


「リリアーナ。どうして返事をしてくれないんだい?俺が迎えに行くのが遅くなったからかい?」

 薄暗い森でルーカスは両目がない人形(リリアーナ)に話しかけた。その人形は黒っぽい何かが眼窩から流れ出て、大きな染みを作っていた。

「新しいリリアーナは返事もしてくれない」

 ルーカスは手に持っていた、もはや人型だけと分かる人形(リリアーナ)に話しかけた。ルーカスには、小さな人形の口がパクパクと動いて見え、「ひどい子ね」と優しい声が聞こえた。

「君もそう思うよね。本当にひどい”リリアーナ”だ。きっと、君と違ってちゃんとしたリリアーナじゃなかったんだね」

 ルーカスは大事そうに水色の片目を持つ人形(リリアーナ)を抱きかかえて、ふらふらと森の奥へ吸い込まれていった。


最後まで読んで頂き、ありがとうございます。


この作品は、ヒロイン脱却シリーズの3部作のひとつです。ご興味がある方は、下のリンクからお読みいただけます。


『平凡な転生ヒロインはヒロイン脱却を目指す』

https://ncode.syosetu.com/n6065mb/

『ガラス玉』

https://ncode.syosetu.com/n8669mg/


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