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月の石に躓く

作者: すずき
掲載日:2026/03/31


(つまず)きかけて立ち止まる。


歩道橋の上の平坦な道に何を躓くものがあったのだろう。


多分小石だろう、と思って確認はしない。

そのまま走る気にもならなくて、スマホで時間を確認した。


午前0時17分。


「だめだ……いっちゃったあ……」


溜息と共に、階段を走って昇り乱れた息を整える。


この歩道橋を降りれば駅はもうあと少しだった。


あと3分。いや、5分早かったら。


「終電、間に合ったのになあ……」


はあ、とため息をついて独り言をこぼす。


昼間に比べて通りゆく人々もまばらになった、歩道橋の上。

欄干に手をついて空を見上げる。


タクシーで帰る?


いや、そんなんしたら今日のバイト代もったいないじゃん。


──残業までしたのに。

その残業が、私に最終電車を乗せてはくれなかった。


『遅番のやつがバックれたから洗い場まわんなくて困っちゃったよ。手伝ってくれる?』


手伝いますよ、と言ったのは私だ。


『助かるよ、優ちゃん! ほんといい子だよねえ、ありがとう!』


終電に間に合うように切り上げればいっか。


そう思ったのに、突然店が混んでなかなか抜け出せなかった。


慌てて着替えて店を出たら、この有様。


──"いい子"なんて。


言われて嬉しいわけじゃない。


溜息が落ちた先を見たくなくて、顔を上げる。


ずっと周りの人の顔色を窺ってる気がする。

私は私なりに頑張ってるつもりなのに、そこから「もっと」と言われて頼られたら、うまく抜け出すことができない。




日付を越えた夜空を見上げると、大きな月が昇っていた。


満月なんだ。

綺麗だな、と思った。



──"月が綺麗ですね"が隣にいる人に向けてのアイラブユーならば、一人で呟く"月が綺麗だなあ"の翻訳は


「疲れたなあ……」


に違いない。



どうやって帰ろうか今からどうしようか。

そんなこと考えるのを月の綺麗さに思考を放棄したその時──


「ちょ、ちょおきみっ、ストーップ」


「わ、わわ」


 突然首根っこを掴んで欄干から引き剥がされた。


「……え?」


そこには、まったく知らない男の人がいた。


真面目で優等生が看板の私とは正反対の金髪。

私の首を掴んだと思われる手には、タトゥーがあった。


関わったことないような人種。多分ヤンキーとかホストとかそういう、むしろ関わりあいになりたくないタイプ。


そんな人が、なぜか私の目の前で──


慌てたような、困ったような顔をしていた。


「……な、なんですか?」


「え。だってきみ、なんか」


低い声は、思ったより優しい響きをしていた。



「──なんか、飛び降りそうだと思ったから」



なにそれ。


あ、つまり私の独り言『疲れたなあ』を聞いてたってこと?

それで慌てて──こんなチャラそうな人が──私を心配して、欄干から引き剥がしてくれたってこと?


そう思うと、なんだか笑えた。


優しくなさそうな見た目と、優しい理由に警戒心が吹っ飛んだ。


「あははっ。大丈夫ですよ、誤解です」


「え? ああ、そうなの? ごめんね」


その人は少し気まずそうに、後ろ髪をかいた。

明るい満月のおかげで、その整った顔がよくわかる。


今まで接したことのないタイプだから怖かったけど、顔はかっこいい。


心配させちゃった。

独り言も聞かれちゃって、恥ずかしいな。


昨日はついてない日なのかもしれない。


「……私、大丈夫なんで」


「──そっか」


「わっ!?」


答えた瞬間、手を引かれて驚いた。

タトゥーの入った手が私の手を掴んでいる。


「じゃあ、今からちょっと遊びにいかない?」


「へ?」


理解ができない。


「だから私は……」


言いかけた私の目の前で、そのチャラそうな男の人は人のいい笑みを浮かべた。


「あーごめん。俺、女の子の言う大丈夫だけは聞こえない耳してんの」


「ええ!?」


「もうこの駅終電終わってるからいいよね〜? じゃあっ、行こっか!」


「えええ!?」


目の前で金髪が揺れた。


「ちょっ、ちょっと、突然!」


私の手を引いて揺れる金色の後頭部。

大学にも明るい髪の人はいるけど、こうして夜に……。

目の前の丸い金色の後頭部が、先ほど見上げた月と重なる。


「ねえきみ、名前は?」


「ゆ」


言いかけて止まった。

反射的に名乗ろう、として……こんな人にいきなり名前教えて、大丈夫?

そう思って、止まった。


「え? ゆ? ……じゃあ、ゆちゃって呼ぶね!」


意外とギャルっぽい名乗りすんだね、と。


気を害さなかったような返事に逆に戸惑った。

何その適応力?


「じゃあ俺はピッピって呼んで〜。ほら、女の子って好きピ、とか彼ピ、とかって言うでしょ? あれ可愛いから、ピ」


「え、ええ?」


歩道橋の階段を降りる時、そっと降りやすように手を組み替えられたけど──離しては、くれない。


「ほら、〇ケモンっぽいでしょ? ピッピって可愛いし。知ってるかな? ポケG〇とかやらない?」


「や、やらない」


やらないし知らない。

──だってずっと、"いい子"だったから。

ゲームだってあんまりやってこなかった。

〇ケモンは〇カチュウとイ〇ブイぐらい知らない。


私の困惑を無視して、男の人は呑気に笑ってる。

歩道橋の階段が終わる。


二人で地上降りた。


タトゥーが入った手は、まだ私の手を掴んでいる。


「とりあえず俺、お腹すいちゃったあ。ご飯ついてきてくれる?」


「えええ?」


なんかさっきからそれしか言ってない気がする。


男の人の言葉は疑問系なのに、その笑顔には断れない雰囲気があった。


金髪にタトゥー。その見た目が怖いからじゃなくて──低い声が耳に心地良かったせいだと思う。




終電を越えて歩く繁華街を全然知らない。



バイトが終わったらまっすぐ家に帰って、また次の日大学に行く。


飲み会だって行くけど、"しっかり者"で"いい子"だから、そこそこ遊び終わったら帰るし、私は夜の街を知ってるわけじゃなかった。




「俺ここのラーメン好きなんだよねえ」


繁華街のビルの一階。大きい提灯。他のお店に劣らない眩い照明。

ラーメン屋の前で男の人は立ち止まった。


あ、ここ。夜しかやってないお店。

インスタで知ってはいるお店だった。


けど時間的に、夜は大抵居酒屋のバイトだし、バイト終わりでも夜に食べるにはハイカロリーが過ぎる。



「いらっしゃいませー。奥のカウンター席にどうぞー」


引っ張られただけとはいえお店に入ってしまったからには、もう隣に座るしかない。


「俺味玉にしよ。人気ナンバーワンだって、きみもこれにする?」


「だ、大丈夫です……」


油断したらすぐ太る。

女の子が女の子として認められて生きるのって大変なのだ。


「自分で頼むし、大丈夫です」


……太るの怖いとはあえ、さすがに何か頼まなきゃいけないよなあ。


え、奢り? 

それなら安いメニューのほうがいい?


メニュー表のサイドメニューを眺めていた時に、彼が小さく手を上げた。


「味玉ラーメン二つくださーい」


戸惑う私に彼がにこっと笑った。

カウンター席のせいで顔が近い。


「言ったでしょ? 俺に女の子の"大丈夫"は聞こえないって」


なんて返事をしようか迷っている間に、同じラーメンが二つ目の前のテーブルに置かれた。


「勝手に頼んじゃってごめんね。余ったら俺食べられるくらいお腹空いてるから」


……初対面の人の食べかけなんて食べれる?


初めて入ったずっと気になっていたお店のラーメンは、バイト終わりということもあってお腹の空いていた私の胃に、綺麗におさまってしまった。




「背徳がすぎる……」


お腹いっぱい。


どうしよ、至福。


お店を出て思わず一息つくと、男の人が笑った。


「おいしかったみたいでよかった。じゃあ、次」


「え!?」


次!?

ここで解散じゃないの!?




「お腹いっぱいになったところで、ちょっとチルりに行かない?」




誘い文句はやっぱり疑問系だったけど、同じ温度になって繋がれた手を、私は振り払うことができなかった。





──今度連れてこられたのは、ビルの地下だった。


「ハタチだよね。よかったよかった」


入口で年齢確認をされて連れてこられたのは──


「やっほ。俺の連れ、ちょっかいかけないでよ」


──シーシャバーだった。


薄暗い店内は、嗅いだことのないにおいがした。


今まで立ち行ったことのない空間。

ソファの置かれたフロアは駅前にある純喫茶みたいだ。

お客さんは私と歳の近そうな……けど今まで関わったことのない、彼と同じ夜のいきものような雰囲気の人ばかりだった。


「はじめて?」


プロジェクターで映し出される知らない映画。


「はい」


頷いて、案内されて座った。


インスタでフォロワーの多いお店らしくて、入り口はいろんなスクショの写真が貼られていた。


ソファー席の隣。


さっき会ったばっかりの男の人。

タトゥーが入ってて金髪で、チャラそう。

なのに私の顔を真剣に見て、静かな声で私に聞いた。


「怖い?」


──大丈夫? じゃ、ないんだ。


その質問に、彼の優しさを感じてしまった。


「……すこし」


「やめる?」


目の前にインスタでしか知らなかったシーシャが置かれている。


「やめない」


──『あんなもの煙草でしょ、悪い子がするものよ』

誰かが言った言葉を思い出して──振り払った。


「してみたい」


大丈夫、とは答えなかった。


「……合わなかったらすぐ外出よ」


そう彼は言った。


「じゃ、肩の力抜いて。息吸って──」


冬でもないのに白い息を吐き出した。



「リザード○みたい」


「お、知ってるじゃん」


慣れた手つきで煙を吐き出して、彼は笑った。


──とんでもない夜に迷い込んでしまった。


知らない世界の、知らない街みたい。


煙が晴れた視界に、私に笑いかける"ピッピ"の姿が映った。





「私、ずっといい子だったんです」


話し始めた私の言葉を、彼は遮らなかった。


「真面目に勉強して大学行って……バイト先でも、真面目でいい子で通ってて」


だから。


「頼られたら断れなくて……いい子って言われて信頼されたら、裏切れなくて。それで今日、バイト終わっても手伝ってたら……終電、逃しちゃって、なんかうまくいかないなあ、って」


聞いてるよ、とばかりに頷かれた。

もう手は繋がれてない。

この人が、この空間が嫌だったら逃げ出せる──。


「真面目に生きてるのに報われない……いい子でいるのに、なんかひどいなあ、って思ってたけど」


──それでも私は離れない。


「…………思ってもみない体験しちゃった」


「大丈夫?」


今大丈夫だと言えば、彼は聞いてくれる気がした。

だからそう答えなかった。


「はい。……悪くないかも」


さすがに出会えてよかったとはまだ言えなすぎる。





けど──日付を超えて夜の中で朝を待つ……ううん、朝を待つことなくただ夜を楽しむ日なんて、きっとあのままじゃ知らなかった。





「ちょっと、くらくらする」


「はは。本当に初めてなんだな」


地上に戻って、空を見上げる。

歩道橋で見上げた時よりも、月が傾いている気がした。


「ゆちゃんって見てて気持ちいいよね。ラーメンの食べっぷりもよかったし」

「あれは思ったより美味しかったから……!」


スカウトやナンパが怖くて一人では歩きたくない繁華街も、金髪にタトゥーという彼のおかげか、誰も声をかけてこない。


「おはよー!」


チャラそうな男の人が突然声をかけてきてびっくりした。


「この前楽しかったなあ!」


それが隣にいる彼に言っていると、彼が答えるように上げた手で気がついた。


「やほ、久しぶり〜! また今度飲もっか」


彼の返事にハイタッチして、それからその人は私を見た。

目が合う。ピアス、ばちばち。


「お、可愛い子連れてるじゃん」


「この子は俺の友達」


タトゥーの入った手が私を守るように前に出された。


「怖がるから絡まないでよね」


はいはい、とその男の人が私から視線を逸らした。

友達なのだろう。そう思えば、ピアスばちばちのその人も怖くなかった。


「おはようございます」


「え、オレ!? おはよー! ……めっちゃいい子じゃん!」


夜は挨拶ができるだけで褒めてくれるらしい。

優しいなあ、と思うと同時に、この人たちは暗くなった時間が『おはよう』の時間なんだな、と感じた。


彼はまた後ろ手で髪をかいて、それから「行こうか」と私の手を引いた。


私は頷いて、引かれるその手に従った。

宛なんて知らない。

ないのかもしれない。

彼の手の甲のタトゥーは、まるで夜の道標みたいだった。


「行きましょ、ピッピ」


ふざけた名前だけど、もう呼ぶのに躊躇いも恥ずかしさもなかった。





シャッターの閉まった商店街を二人で歩いていると、マットを広げて座っている男の人がいた。


「よかったら見てください」


人通りが少ない商店街で、その言葉は私たちに向けられているのだろう。


「シルバーアクセサリーだって」


ピッピが足を止めて、それからしゃがみこんだ。

その横に私もしゃがむ。


一個千円、と書かれた段ボールのボード。

マットの上に並ぶアクセサリーのトレーの上には、デザインの違う銀色の指輪がたくさん並んでいた。


「ゆちゃ、ほしい?」


「うーん、可愛いんだけど」


あの月の形をした石のやつなんて可愛い。ぷっくりとした透明に七色を重ねた色をしている。


けど、


「私イエベだから、シルバー系似合わないんだよねえ」


石の下のリングの部分が銀色だ。

せっかくだから買いたい気持ちもあるけど、買ったところで着けない気がする。


「これ、ください」


ピッピが指差したのは私が目を留めた指輪だった。


「え、ちょ」


差し出された千円札を男の人が受け取った。

それからピッピがタトゥーの入った手の指先で、月の形をした足がついた指輪を丁寧に抜き取った。


「イエベとかブルベとか気にしなくていいよ。ゆちゃは可愛いからなんでも似合う」


「そんな……」


握らされて、指輪の冷たい温度に戸惑う。

着けていいものだろうか。


「その指輪についてる石ね、ムーンストーンっていうんですよ。天然石なんです」


「ムーンストーン……」


指輪のトップについた、ガラスとは違う透明な色の石。

私の手の中で角度によって光の色を変える石を、ピッピが覗き込んだ。


「へえ、"つきのいし"かあ……いいじゃん」


月の綺麗な夜に──こんな夜にぴったりの石だ。

ローズクォーツとかアメジストとかは知ってたけど、これは知らなかった。


「天然石っていうのはそれぞれ石言葉っていうのがありまして、そのムーンストーンは──……あ、いらっしゃいませ」


男の人の声が途切れたのに顔を挙げると、私たちの横に、どう見てもカップルの男女が立っていた。


行こうか、と促すように立ち上がったピッピに従って立ち上がる。


商店街で立ち止まって、ピッピが私に聞いた。


「着けようか?」


「大丈夫」

自分で着ける。


私は指輪を手に取って──


「大丈夫って、言ったね」


──そう言ったピッピが、私の手から指輪奪って、それから私の左手を取った。


「俺が着けたげるよ」


私の左手に、銀色の指輪が着けられた。


「…………綺麗」


商店街の照明の下で、手の動きに合わせて色を変える光。

意外なことにサイズはちょうどよかった。


「似合うよ」


ピッピが私を見ていた。


「ゆちゃ」


今までの人生で誰にも呼ばれたことない呼び方。

だから私も同じように呼びたくなった。


「ねえ、ピッピ」


この夜が明けてしまうのが惜しい。


なかったことになってしまうのだろうか。


本名も連絡先も知らない。


私たちはただ、一緒に食べて、遊んで、手を繋いだだけ。


そう遠くない場所に、寝泊まりできる場所があるのを知っている。


「私、このまま──」


「駅まで行こうか」


私の言葉を遮って、ピッピは言った。


「ゆっくり歩いて行ったら、始発にちょうどいいよ」


ああ、もう、そんな時間なんだ。


スマホを取り出して時間を確認した。

午前4時8分。


「うん」


自然と手を繋いで歩き出した。

私から繋いだかもしれない。



繁華街を離れる。人が減っていく。


歩道橋に差し掛かる。

階段を昇る時、さりげなく手が組み替えられた。


優しい人なんだな、と思う。

優しい人だった。


階段を終えて、私は立ち止まった。

駅はもうすぐそこ。



「ねえ、ピッピ」


「ん?」


──なんて言おう。


その顔に、月の色の金髪に、夜の道標みたいなタトゥー。

──名前も知らないあなたに、なんと言おう。

この夜のお礼? それとも、連絡先(これからのこと)


逡巡した私に、ピッピは微笑んだ。


「…………大丈夫だよ」


え?


聞き返す前だった。


視界が彼いっぱいになって、それから唇に感じた温度が離れて、キスをされたのだと気が付いた。


手を繋ぐより近い、鼻先が触れ合うような距離。


「大丈夫って、言わせない方が早いなって」


ずるい。


こんなキスをされるなんて。

どうなっていい気がした。このままどこにだって行ける気がした。


このキスの感情は、


「……欲情?」


きっと私の覚悟は伝わってる。

頷かれたら、電車に乗らなくってもよかった。


もう誰が決める"いい子"でいる必要なんてない。


「愛情だよ」


ピッピが微笑んだ。


「大丈夫だよ。きみがいい子なのをお天道様が見逃しても、月がちゃんと見てるから。大丈夫」


その優しい言葉を聞いてわかった。


きっとこの歩道橋で出会った時、本当に私は飛び降りそうな顔をしていたのだろう。


だから彼はこうして、一緒に過ごしてくれた。


楽しい夜の歩き方を教えてくれた。


「ねえ、ピッピ私」


「俺みたいな男は」


自分でもなんと言おうとしたかわからない。

正しいこともわからず勢い任せに開いた方だった。

まるで言わせないというように、ピッピの声が遮った。


「火遊びくらいがちょうどいいんだよ。花火みたいなもんだと思って」


それじゃ一夜で消えちゃうじゃない。


悲しい言葉に、なんと返せばいいのかわからなくて少し俯く。


「ねえ、見て」


彼が歩道橋の外を指差した。顔を上げる。


終電を逃した数時間前、一人でため息をこぼしていた欄干の先。


0時過ぎの月が昇っていた暗い夜空は、午前4時をすぎてすっかり顔を変えていた。


「綺麗な朝焼けだよ」


紫とオレンジの薄いグラデーション。

水平線の先の光の気配。

夜明けの寸前。


──この時間には、確か名前があった。


魔法のような美しい時間。


「マジックアワー……」


名前を思い出して、ハッと顔を戻す。


そこにはもう──


「……ピッピ……?」


私の目の前には、もう誰もいなかった。


先ほど触れる距離にいた彼の姿はもうそこにはない。


「え……?」


まるで魔法のように消えてしまった。




欄干に手を乗せて下を見る。駅から、電車の走る音が聞こえて、スーツ姿の人たちが出てきていた。

そこには黒髪の人ばかりで、金髪の姿はない。


「…………行っちゃった?」


空を見上げる。月はもう見えない。


夢だったんじゃないか。幻だったんじゃないか。

そう思って、欄干に乗せた自分の手を確認する。


そこには確かに、ムーンストーンの付いた指輪があった。


──大丈夫。


その石は昇ったばかりの朝日を浴びて、先ほどとは違う色に光った。







もうそろそろ上がりの時間だ。

そんな気持ちで店内の壁かけ時計を見た私に、店長の声が投げられた。


「ごめん優ちゃーん! 今日の遅番、今これないって電話あって、ちょっと手伝ってくれるー?」


遅番、新しい人だったっけ。

しょうがないか。


「わかりました。ちょっとならいいですよ」


「ほんと真面目で助かる!」


いい子だよねえ、と言われた言葉をさらりと流して、言われた洗い場を手伝う。

そろそろ気になる時間になってきた。

店長が顔を出してきた。


「もうちょっと大丈夫?」


「大丈夫じゃないです」


帰ります、と言って仕事を一区切り。

私は私がやるべきところまで。なんならプラスアルファを終えた。


「お先に失礼します」


引け目なんて感じる必要ない。

私は私がやれるところまでやったのだ。


「ありがとうね!」


店長は気持ちよくそう言って、「助かったよ!」と言って店を出る私に手を振ってくれた。


駅まで続く歩道橋に向かって歩く。


スマホで時間を確認する。

まだ日付が変わる前だ。これから走る必要はなさそう。


歩道橋を昇って、それからその上で立ち止まった。


……下弦の月。


いつのまにかすっかり名前を覚えた月の形。

その柔らかな光に、付けている指輪をかざす。


ムーンストーン。


似合わないと思っていた銀色の指輪も、着けているうちに見慣れてすっかり馴染んだ。



──そういえばこの石には石言葉があるって言ってたっけ。



終電の迫る時間になっている。

それでもどうしても気になって、歩道橋の上でスマホを取り出して検索を始めた。





fin.


(その石言葉は"恋の予感")


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