第8話「図書室の攻防とマーキング」
学園に戻ってからも、アレクセイ殿下の機嫌は最悪だった。
「消毒だ」
そう言って、彼は僕を自分の私室のバスルームに放り込んだ。
「他の女の匂いを落としてこい。髪の毛一本残すな」
「ただ隣に座ってただけですよ!」
「許さん。お前からは俺と、微かなラベンダーの香りだけがすればいい」
彼は本気だった。
仕方なくシャワーを浴びて出ると、彼は待ち構えていたかのように僕に新しいシャツを着せた。
それは明らかに彼の古着で、サイズが大きい。
通称「彼シャツ」状態だ。
「……うん、これでいい」
彼は満足げに僕の袖をまくってくれた。
そんなバタバタした日々の中で、中間試験の季節がやってきた。
モブたるもの、赤点は回避しなければならない。
しかし、殿下の安眠係として拘束される時間が長く、勉強時間が確保できないのが悩みだった。
「勉強したいので、今日は図書室に籠もります!」
僕は宣言し、アレクセイ殿下の執務室から逃げ出した。
向かったのは、いつもの資料室……ではなく、一般生徒も利用する大閲覧室だ。
あそこなら人目があるし、殿下もおいそれと手出しはできないはずだ。
閲覧室の隅にある、高い本棚に囲まれた席を確保する。
重厚な机、静寂、本の匂い。
勉強には最適な環境だ。
教科書を開き、ノートを広げる。
……が、またしても僕の悪癖が出た。
椅子の背もたれが硬い。
机の高さが微妙に合わない。
気になり出すと止まらない。
僕は鞄から、常に持ち歩いている「携帯用巣作りセット」を取り出した。
ストールを椅子の背に巻きつけ、腰の部分にクッションを配置。
足元には空のリュックを置いて足置きにする。
ついでに、机の上にハンカチを広げ、視界に入る木目の荒さをカバー。
「よし、快適」
環境が整うと、集中力が増す。
僕はカリカリとペンを走らせ始めた。
没頭すること一時間。
ふと、背中に視線を感じた。
「……またやってるのか」
振り返ると、本棚の隙間からアレクセイ殿下が覗いていた。
「うわっ! 殿下、どうしてここに?」
「お前が部屋に来ないからだ。……禁断症状が出る」
彼はげっそりした顔をしている。
どうやら数時間離れただけで、不眠の兆候が出るらしい。
「ここは公共の場ですよ。静かにしてください」
「なら、俺もそこへ入れろ」
「はあ? 椅子は一つしか……」
言うが早いか、彼は僕の座っている椅子に割り込んできた。
狭い一人掛けの椅子に、大柄な彼と僕。
必然的に、僕は彼の上に座る形になる。
つまり、膝抱っこだ。
「ちょ、でんかっ! これじゃ勉強できません!」
「俺は寝る。お前は勉強しろ。丁度いいテーブル代わりだ」
彼は僕のお腹に腕を回し、僕の背中に頭を預けて目を閉じた。
「……ん、やはり落ち着く。お前が整えた空間は、空気が柔らかい」
「人目がありますってば!」
「結界を張った。外からは見えん」
なんて無駄に高度な魔法の使い方だ。
彼の体温と、鼓動が背中から伝わってくる。
白檀の香りが鼻腔をくすぐる。
密着した体。
耳元で聞こえる寝息。
ドキドキして、数式なんて頭に入ってこない。
しかも、彼は無意識なのか、時折鼻先を僕のうなじに擦り付けてくる。
「……ルカ、いい匂いだ」
「くすぐったいです……」
「動くな。……ここに印をつけておけば、あの虫けらどもも寄ってこないか」
「え?」
彼は不意に、僕の首筋を、軽く甘噛みした。
「ひゃうっ!?」
変な声が出た。
「で、殿下!?」
「……マーキングだ。予行演習だがな」
彼は低く笑い、真っ赤になった僕の耳たぶに口づけを落とした。
「早く大人になれ、ルカ。……俺の理性が持つうちに」
その言葉の意味を深く考える余裕もなく、僕は熱くなった顔を両手で覆うことしかできなかった。
図書室の静寂の中で、僕の心臓の音だけがうるさく鳴り響いていた。




