第2話「侵入者は金色の猛獣でした」
昼休みのチャイムが遠くで鳴り響く。
僕はハッと目を覚ました。
「やばっ、寝すぎた!」
慌てて体を起こす。
午後の授業は魔法薬学だ。
担当の先生は遅刻に厳しく、目をつけられると成績に響く。
モブたるもの、成績は可もなく不可もなく、中間をキープしなければならない。
僕は名残惜しさを感じつつも、「巣」から這い出した。
ブランケットを整え、クッションの位置を直す。
……いや、待てよ。
これから授業に出て、放課後にまた戻ってくるつもりだ。
いちいち片付けるのは面倒くさい。
ここは普段、誰も来ない資料室だ。
鍵も壊れているし、埃っぽくて人気がない。
数時間くらいこのままにしておいても問題ないだろう。
「よし、このままにしておこう」
僕は自分に言い訳をし、鞄を掴んで部屋を飛び出した。
パタン、と扉が閉まる音。
それが、運命の分かれ道だった。
午後の授業は予想通り退屈だった。
大鍋の中で変色していく液体をぼんやりと見つめながら、僕の頭の中はあの「巣」のことでいっぱいだった。
早くあそこに戻りたい。
あのふかふかの感触に包まれたい。
授業終了のベルが鳴ると同時に、僕は片付けを済ませ、教室を後にした。
掃除当番の視線を感じた気がしたが、今はそれどころではない。
僕の体が、僕の本能が、あの場所を求めているのだ。
廊下を早足で進み、図書塔の階段を駆け上がる。
誰もいない静かな廊下。
埃の匂い。
ああ、帰ってきた。
僕は高鳴る胸を押さえ、資料室のドアノブに手をかけた。
ガチャリ。
扉を開けた瞬間、漂ってきたのはいつものラベンダーとミルクの香り……だけではなかった。
もっと鋭く、それでいて重厚な、白檀のような香りが混じっている。
(……え?)
僕は足を止めた。
部屋の空気密度が違う。
何かがいる。
それも、とてつもなく圧倒的な存在感を放つ何かが。
恐る恐る、部屋の奥へ視線を向ける。
西日が差し込む部屋の隅。
僕が作った自慢の「巣」の中心に、人影があった。
それは、金色の塊だった。
夕日を浴びて輝く黄金の髪。
均整の取れた長い手足。
高貴な仕立ての制服は少し着崩され、白いシャツのボタンが二つほど外されている。
(うそ、だろ……)
心臓が口から飛び出しそうになった。
そこに埋もれるようにして眠っていたのは、この学園の、いや、この国の頂点に立つ男。
王太子、アレクセイ・フォン・キングダムだった。
「……すぅ……」
規則正しい寝息が聞こえる。
普段は凍りつくような冷たい視線で周囲を威圧している彼が、今は無防備な顔を晒して、僕のクッションを抱きしめている。
あの俺様王太子が、僕の着古したカーディガンに顔をうずめているのだ。
ありえない。
なんでここにいるの?
ここは校舎の端っこだよ?
王太子専用のサロンはどうしたの?
パニックで思考がショートしそうだ。
逃げろ。
本能がそう叫んだ。
今すぐここを立ち去り、何も見なかったことにするんだ。
彼が目覚めて「誰だ、この不敬な場所を作ったのは」と激怒する前に。
僕は息を殺し、一歩ずつ後ずさりした。
床板が鳴らないように慎重に。
あと少しで廊下に出られる。
そう思った時だった。
「……ん……」
アレクセイが身じろぎをした。
その動きに合わせて、巣のふちがカサリと音を立てる。
ビクリと体が跳ねた。
彼はゆっくりと、本当にゆっくりと目を開けた。
その瞳は、宝石のサファイアよりも深く、そして今はとろんと潤んでいる。
目が、合った。
僕と、王太子。
距離は五メートルほど。
時間は永遠のように感じられた。
彼はぼんやりとした様子で僕を見つめ、それから自分の手元にあるクッション、さらに自分を包み込んでいる柔らかい布の山を見回した。
そして、鼻をスンスンと鳴らす。
「……いい、匂いだ」
低い、寝起きの掠れた声。
それが僕の鼓膜を震わせた瞬間、僕は脱兎のごとく駆け出した。
「ひいぃっ!」
情けない悲鳴を上げ、廊下を全速力で走る。
後ろを振り返る余裕なんてない。
ただひたすら、「関わりたくない」という一心で、僕は学園の迷路のような廊下を逃げ回った。
心臓がバクバクとうるさい。
やってしまった。
完全に見られた。
いや、まだ顔を覚えられたとは限らない。
逆光だったし、僕はただのモブだし。
それにしても、あのアレクセイがどうしてあんなところに?
噂では、彼は極度の不眠症で、常にイライラしていると聞いていた。
目の下にはいつもクマがあり、近寄るだけで氷漬けにされそうな雰囲気だったはずだ。
それが、あんなに気持ちよさそうに……。
「いやいや、感動してる場合じゃない!」
僕はトイレの個室に逃げ込み、鍵をかけて荒い息を吐いた。
巣は?
あのまま放置してきちゃったけど、大丈夫かな?
名前を書いたものは置いていないはずだ。
クッションも布も、量販店で買った安物ばかり。
僕に繋がる証拠はない。
……たぶん。
「神様、どうか彼が記憶喪失になっていますように」
そんな馬鹿げた祈りを捧げながら、僕は膝を抱えた。
しかし、神様はいつだってモブに厳しい。
翌日から、学園内である噂が流れ始めたのだ。
『王太子殿下が、伝説の安眠枕を探しているらしい』と。




