第1話「モブ志望の僕と、抗えない本能について」
登場人物紹介
◆ルカ・モレッテ
乙女ゲームの世界に転生した、平凡な男子生徒。
オメガ。
ふんわりとした茶色の髪に、垂れ気味の緑の瞳を持つ。
前世の記憶から「攻略対象に関わると破滅する」と知っており、空気のように生きることを目標にしている。
しかし、本能レベルで「快適な空間」を作らずにはいられない「巣作り」の天才。
彼の作る巣は、極上の安眠効果を持つ。
◆アレクセイ・フォン・キングダム(アレク)
この国の王太子であり、ゲームのメイン攻略対象。
アルファ。
金色の髪に鋭い青い瞳を持つ、圧倒的な美貌の持ち主。
完璧主義で威圧的なため周囲から恐れられているが、実は過度のストレスで重度の不眠症に悩まされている。
ルカの匂いと巣の心地よさに依存し、大型犬のように執着するようになる。
僕がここを「乙女ゲームの世界だ」と気づいたのは、魔法学園に入学してすぐのことだった。
大理石でできた正門をくぐり、空を飛ぶ馬車を見上げ、教科書に載っている魔法陣を眺めた瞬間、頭の中でパズルのピースがカチッとはまったのだ。
ここは、前世で妹が熱心に遊んでいたゲーム『聖なる乙女と薔薇の騎士たち』の舞台だ。
そして僕は、ルカ・モレッテという、名前と立ち絵があるだけの「その他大勢」の一人だった。
鏡に映る自分を見る。
少し癖のある柔らかい茶色の髪、眠たげな緑色の目。
どこにでもいる、特徴のない顔立ちだ。
魔力も平凡、家柄も地方の下級貴族。
まさにモブである。
「よし、地味に生きよう」
僕は拳を握りしめた。
このゲームの世界は、キラキラした恋愛模様の裏で、派閥争いだの冤罪だのと物騒なイベントが目白押しだ。
特にメインヒーローである王太子アレクセイに関わると、悪役令嬢からの嫌がらせや、国外追放のリスクが跳ね上がる。
僕みたいな一般市民は、物語の背景の一部として、静かに平和に暮らすのが一番だ。
そう決意した僕だったが、一つだけ大きな誤算があった。
それは、僕がこの世界特有の性別である「オメガ」として生まれてしまったこと、そして、そのオメガの本能が異常に強いことだった。
「あ、あの……ルカ君?」
「ん? 何?」
放課後の教室で、クラスメイトの女子に声をかけられて、僕は顔を上げた。
彼女は困ったように眉を下げ、僕の手元を指さしている。
「それ、私の膝掛けなんだけど……」
「えっ」
手元を見る。
いつの間にか僕は、彼女が椅子に掛けていたふわふわの膝掛けを拝借し、自分の座布団の上に丁寧に折りたたんで敷き、さらにその上に自分のカーディガンを丸めてドーナツ状に配置していた。
完璧な円形。
包み込まれるような安心感。
無意識だった。
「ご、ごめん! これ、すごく手触りが良くて、つい……!」
僕は慌てて膝掛けを返した。
顔から火が出そうだ。
そう、僕には「巣作り」の癖があった。
本来、オメガが妊娠中や発情期に行うとされる、自分のテリトリーを安全で快適な場所にするための本能行動。
それが僕は、日常的に、しかも無意識に出てしまうのだ。
肌触りのいい布、柔らかいクッション、落ち着く香り。
それらを見ると、どうしても「最高の配置」で組み合わせたくなる。
手が勝手に動くのだ。
ここをこうして、あそこをへこませて、光の入り具合を調節して……とやっているうちに、人間を駄目にする極上の空間ができあがってしまう。
「はあ……気をつけないと」
僕はため息をつきながら、荷物をまとめた。
今日は天気がいい。
図書室の奥にある、誰も使わない古い資料室へ行こう。
あそこなら誰にも見られず、こっそりと昼寝ができる。
僕は鞄の中に忍ばせている「マイ枕」と「アロマポプリ」の安否を確認し、足取り軽く廊下を歩き出した。
目指すは、人目のつかない楽園。
学園の北側にある図書塔の、さらに奥。
埃っぽい空気が漂うその場所は、僕にとっての秘密基地だ。
重たい木の扉をギギギと開ける。
窓から差し込む午後の日差しが、舞い上がる塵をキラキラと照らしている。
「よし、誰もいない」
僕は手慣れた様子で、部屋の隅にある古いソファに近づいた。
このソファはスプリングが壊れていて座り心地が悪いのだが、僕の手にかかれば王様のベッドに早変わりする。
まずは持参した厚手のブランケットを敷き、凹凸を埋める。
その上に、滑らかなシルクの手触りに近い古着のシャツを広げる。
これは肌に直接触れる部分だから重要だ。
次に、クッションの配置だ。
頭を預ける部分には少し高さを出し、足元には丸めた毛布を置いてむくみを取る。
背中には、抱き着くのにちょうどいい硬さの長細いクッションをセット。
仕上げに、ラベンダーと温めたミルクの香りがするお手製のサシェを、ふわりと香る絶妙な距離に吊り下げる。
「……完璧だ」
完成した「巣」を見下ろし、僕は満足感に浸った。
視覚的にも柔らかく、嗅覚的にも安らぐ。
ここに一度入れば、体の力が抜け、泥のように眠れること間違いなしだ。
「さて、と」
僕は靴を脱ぎ、そっとその中心に潜り込んだ。
背中のラインにぴったりと沿うクッション。
頬を撫でる柔らかな布。
鼻腔をくすぐる甘く優しい香り。
「んぅ……最高……」
口から幸せな吐息が漏れる。
意識が遠のいていく。
モブとしての平穏な生活、将来の年金プラン、そんな現実的な悩みもすべて溶けていくようだ。
これが、僕の至福の時間。
誰にも邪魔されない、僕だけの城。
その時の僕は知るよしもなかった。
この「最高の巣」が、まさかあんな大物を釣り上げてしまうなんて。
うとうとと微睡みの中で、僕は窓の外で小鳥が鳴く声を聞いた気がした。




