第2話 強制結婚させられる分子たちと、低スペックな成金生物
百万年。
宇宙にとっては、ほんのうたた寝程度の時間だ。
だが、大規模な「胃洗浄手術」を受けたばかりのこの惑星にとっては、気まずいほどに静かな百万年だった。
風は吹き、波は岩を打ち続けているが、そこには何かが欠けている。
虫の声もなければ、藻類が呼吸する微かな気泡の音もない。海底の熱水噴出孔の周りでいつも騒がしくしていた細菌たちさえ、姿を消した。
世界はまるで、まだ料理が運ばれてこない空の皿のようだ。綺麗だが、恐ろしいほどに寂しい。
しかし、視点を極限まで小さく、分子レベルまで縮めてみれば、そこが死の世界などではないことが分かる。
むしろ、狂気に満ちた、違法建築スレスレの乱痴気騒ぎが行われていたのだ。
あのスープのような海は、決して休んではいなかった。
かつての生命は全滅したが、彼らの死体――極めて豊富な炭素、水素、酸素、窒素といった素材は、災害によって砕かれ、レゴブロックのように海中を漂っていた。
そして何より、『魔素』という招かれざる客が、依然として居座り続けていたのである。
魔素というやつは、何と言うか、ルール無用のエネルギッシュな現場作業員のようなものだ。
通常の物理法則であれば、原子同士が手を取り合ってチームを組むには、相性やエネルギーレベルのマッチングといった「婚活」の手順が必要になる。
だが、魔素にそんな常識は通じない。
漂っている二つの分子を見つけると、本人の意思などお構いなしに、後ろから蹴り飛ばして無理やりくっつけてしまうのだ。
「ほらよ、くっつけ!」
「ちょ、無理ですって!」
「うるせえ!」
バチンッ!
かくして、この数百万年の間、海の中では笑えないレベルの「強制結婚」が無数に繰り返された。
例えば、本来なら安定していたアミノ酸の鎖。
タンパク質として折り畳まれる前に、魔素によって無意味な文字列を無理やりねじ込まれ、歪な塊に変形させられたかと思えば、二秒後には構造的な負荷に耐えきれず「ボンッ」と自己崩壊する。
あるいは、ただ静かに油滴として暮らしたかった脂肪の泡。
周囲の高濃度魔素に刺激され、空気を入れた風船のように膨らまされ、最後には「パンッ」と弾けて数十個の小油滴に分裂する。
そんな無意味で、ブラックジョークのような「死後の痙攣」が、実に八千万年も続いた。
世界はまるで泥酔した錬金術師だ。坩堝にあらゆる材料をぶち込んで適当にかき混ぜ、「金塊ができねえかなあ」と期待しては、毎回黒煙を上げている。
だが――一億年が過ぎた頃。
奇跡というか、確率論的なマグレ当たりを、この酔っ払いは引いてしまった。
それは、何の変哲もない海底の裂け目のそばだった。
そこは魔素濃度が異常に高く、海水さえも油のようにドロドロしていた。そんな化学スープの混沌の中から、ある奇妙な重合体が生まれたのだ。
驚くほど、醜いナニカだった。
以前の生命のDNAが計算し尽くされた十四行詩だとすれば、こいつは猫がキーボードの上を歩いて打ち込んだような、デタラメな文字列だ。
構造は雑で、継ぎ接ぎだらけ。古いタイヤと腐った板を強力接着剤で無理やりくっつけたような、ボロボロの小船。
だが、この「失敗作」には、他の芸術品にはない唯一の長所があった。
異常にタフだったのだ。
周囲の高エネルギー魔素が放射線のように吹き荒れる中、繊細で複雑な分子鎖たちは次々と千切れていったが、この粗雑な野郎だけは耐え抜いた。
それどころか、魔素による侵食に抵抗するのではなく、貪欲な成金のように振る舞った。
魔素を「強力な接着剤」として利用し、今にも崩れそうな自分の殻を補強し始めたのだ。
さらに、より多くの魔素が流れ込んできた時、こいつは世界史を変える挙動に出た。
破裂するのではなく、そのエネルギーを利用して、極めて乱暴に自分を二つに引きちぎったのである。
二つの、醜いが頑丈な小船になった。
これが『太古元菌』である。
致死性のエネルギー毒素に満ちたこの世界において、彼らこそが唯一の適者だった。
前時代の遺物たちのように、ちまちまとATPを合成したり、エネルギー収支を計算したりする必要はない。
太古元菌たちの生存哲学は、たった一文字。「食」である。
彼らは周囲に漂う栄養豊富な死体のスープを食い、地熱を食い、さらには他の生物を消し炭にするような魔素さえも、海水から直接啜った。
そのあまりに汚い食事マナーと、理不尽な生命力を持つナニカは、瞬く間に海を支配した。
一億年の間、彼らにライバルなど存在しなかった。
かつて透き通った青だった海は、分厚く粘り気のある生物マット(菌の絨毯)に覆われ、油膜の浮いた暗紫色へと変わっていった。
世界はなんだか……脂っこくなった。
もし海岸に立っていたら、暗赤色の絨毯のようなものが海底から波打ち際まで続き、時折地熱を奪い合うために少しだけ蠢くのを見ただろう。
捕食もなければ、逃走もない。
あるのは、果てしなく遅く、怠惰ですらある貪食と分裂だけ。
それが太古元菌の黄金時代。まさしく「低スペックな成金」たちの時代だった。
しかし、そんな退屈な覇権が、観察者を居眠りさせそうになっていた頃。
変化は静かに訪れた。
満員電車のように押し合いへし合いになり、浅海の表層へと追いやられた不運な太古元菌の群れがいた。
海底の快適な地熱と化学スープは、下の階層にいる兄貴分たちに独占されている。彼らは仕方なく、頭上にあるもう一つの恐怖のエネルギー源――太陽と向き合うことになった。
当時の日光は、この原始生命にとっては殺人光線も同然だ。紫外線は容赦なく彼らの自慢の厚い皮を引き裂こうとする。
だが、毎日太陽に焼かれるという拷問の中で。
突然変異によって少しだけ「緑色」に変色したある変わり者が、ふと、今までとは違う味に気づいたのだ。
こいつは思った。
自分を干物にしようとしているこの光の中に、何らかのエネルギーが隠されているんじゃないか?
もし……あくまで仮定の話だが。
周囲に溢れている魔素と組み合わせて、この光を「食べる」ことはできないだろうか?
その常識外れなアイデアが、哀れなほどちっぽけな脳をよぎった。
周りの仲間たちは、流れてくる有機物のカスを奪い合うのに必死だ。
誰一人として気づいていない。
体が不気味に緑光りするそいつが、頭上の巨大な火の玉に対して、「食欲」という名の大胆不敵な感情を抱いたことに。
世界は滅びましたが、なんとか新しい住人が定住したようです。
ただし、だいぶガラの悪い連中ですが……(笑)。
次回、ついにあの「光」を食べる奴らが現れます。
そして訪れる、第一の大量絶滅イベント。
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