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苦悶に支配された心を自由にするのは寛容な免罪ではなく峻厳な報復

作者: 宮澤史郎
掲載日:2025/11/10

 苦悶に支配された心を自由にするのは寛容な免罪ではなく峻厳な報復


 なるべくなら死なずに生き続けて欲しい

 殺さないようにします。そのために調査をして、準備をしてきました。それでも、確実に死なないとまでは保証できません。あなたの運が良ければ死ねるでしょうし、運が悪ければ廃人として生き残らなければなりません。私はできるだけ精一杯のことをやりますので、死ぬことになっても生きることになっても、そこは受け入れて貰います。

 死の恐怖が生の苦痛より少しでも心地良いと信じ切ったとき、ひとは死を選びます。もちろん実行してしまえば取り返しがつきませんから、そのまえには逡巡の繰り返しがあるでしょう。死が本当に正しいのか、判断に間違いは無いのか、という大きな疑問の答えを何度も探すでしょう。

 最後に私の娘はそう信じて、そして実行したとされています。しかし私は、娘は殺されたと考えています。娘をいじめていた六人に、川に突き落とされたのではないか、と。

 真実を知っているのは娘の沙弥加と、娘をいじめていた六人です。六人は、沙弥加が自分から川に落ちたと言いました。警察は、そのように結論しました。私は、六人の言うことを信じられません。沙弥加をひどくいじめていた六人の言うことを、そのまま信じられるはずがありません。沙弥加がもういないということは事実ですが、死因への不信、六人と担任、校長、教育委員会、第三者委員会への憎悪も事実として存在します。

 自殺であったとして、娘の生を死よりもつらくしたのは、いじめた六人と担任です。そして娘の死を汚したのは、いじめの隠蔽を画策した校長と教育委員会と第三者委員会です。まずは校長のあなたに、その責任の負担を請求します。死んだ娘と娘を奪われた父から、あなたに復讐を受けて貰います。

 私はあなたの生死の選択権を無視しますが、あなたの運までは奪えません。幸いにも健全に死ぬも、不幸にも廃人として生きるも、あなたの持つ運次第となります。

 あえて殺さないことが、死んでしまった娘の復讐としては随分と優しいのか、それとも充分に厳しいのか、その判定もあなたに任せましょう。

 あなたに酸素濃度の不充分なガスを吸わせて、あなたの脳細胞を破壊します。脳細胞だけで済めば、生きることになります。脳幹や内蔵も壊死すれば、死ぬことになります。率直に私としては、あなたに生きて欲しいと思っています。それが実質的に生きていると言えるかどうかは、意見の分かれるところではありますが。

 殺しても飽き足らないという表現がありますが、それは死をも越えた苦痛を味わわせたい、あるいは殺してもまだ心は少しも晴れない、という意味でしょう。ところが私は、あなたには死ぬより生き残ることを願っています。私の考える死以上の苦痛を、あなたに与えたいのです。

 脳細胞のほとんどを破壊するつもりですから、あなたは生きているとも死んでいるとも、どんな苦痛をも全く感知することは無いでしょうが、あなたが完全に何の意味もない生を生き続けることの方が、あっさり殺してしまうより、私の方は救われるように思えるのです。

 永遠の闇が、あなたの人生となります。わずかに生き残った脳細胞で、夢は見るのでしょうか。結構です、見てください。しかし、夢から覚めても目は開けられません。体は動かせません。何故だ、という思考もできません。体が死ぬまで、脳細胞の全てが死ぬまで、認識できない闇が続きます。

 脳死状態となって人工呼吸器が外されて比較的短時間で肉体も死ぬより、私のために、植物状態となって自発呼吸をしていつまでも生き続けてください。今まであなたにいろいろ願ってきましたが、これが最後の願いです。返事は要りません。今まで一度も私の願いを聞き入れてくれなかったあなたに、返事の期待はもうありません。

 たった一度でも、あなたに理不尽な願いをしたつもりはありません。娘を救うための正当で常識的な願いだったと、私は思っています。しかしあなたにとっては、到底応えられない無理な願いだったのでしょう。それとも単に面倒だったのか、責任逃れだったのか、上司の業務命令だったのか、何かあなたの理由があったのでしょう。今度の最後の願いにも、好きにすれば良いのです。生きるも死ぬも自由です。

 私は酸素八%、窒素九二%混合ガスのバルブを開けます。


 先生、気付いて

 びしょ濡れの私を見た担任の寺田先生に「山口、どうした、休み時間に頭を洗ったのか?」と訊かれた。先生は気付いていないの?私がいじめられていることに。どうして、学校で頭から水の雫を垂らしていることを、おかしいとは思わないの?どうして、学校で頭を洗うの?服もびしょ濡れなのに。あり得ない。

 冗談で、頭を洗うとか言ったの?先生は、本当は私がいじめられていることを知っていて、とぼけているの?クラス内のいじめは、担任の責任になるから?仕事が増えるから?

 先生はいつだったか、万引きは、本当は窃盗罪という犯罪だから絶対やってはいけないと言ったけど、じゃ、どうしていじめは、本当は暴力だと気付いてくれないの?学校にいじめがあると困るから?

 三年生になって、あの六人とクラスが別になったらいじめはなくなるのか、それとも卒業するまで続くのかわからない。イヤだ。とってもゆううつ。

 ただ無視されていただけの頃は、今より良かった。その時はつらかったけど、叩かれたり頭から水を掛けられたりするよりはまだマシ。

 私を含めて七人は、いつも全員そろってということではないけど、よく一緒に遊んでいた。休み時間も、放課後も、日曜日に買い物やどこかに行くこともあったし、女の子同士はお互いの家に行って宿題をしたり、そのまま泊まることもあった。

 ところが、二年生の二学期が始まると仲良しだった七人の友達グループから、私だけ無視されるようになった。六人が、誰も私に話しかけなくなった。私から話しかけても、返事が返ってこない。私を見ない。視線をそらす。黙ってその場からどこかに行ってしまう。私がそこにいないみたいに、六人だけで話す。

 突然のことに、私は状況を理解できなかった。私が六人の誰かに何かしたのか、何か言ったのか、私にどんな理由があるのかを毎日考えた。一ヶ月経っても二ヶ月経っても、無視は続いた。いくら考えても理由は分からなかった。六人に訊いても、だれにも答えて貰えなかった。というより、完全無視だった。

 先生は気付いていたのかいなかったのか、はっきり分からないけど、何度か私や他の六人に、一緒に遊ばないのか、と声をかけてくれたことはあった。仲良しのはずのグループで、私だけ無視されていることに気付いていたのかもしれない。でも先生も、ただ一緒に遊ばないからというだけでは、どうしようもなかったのかもしれない。

 叩くことなら、叩くのは止めろと言える。でも無視だと、無視を止めろと言っても、別に話すことがないから、用がないから、と言えば終わり。その場では、ハイ、と返事しておけば良い。

 諦めた。さみしかったけど、仕方なかった。わからないけど、何か私の方に原因があるのだろうと思っていた。叩かれたりお金を要求されたりはしなかった。だからそのときは、いじめだとは思わなかった。

 さみしかったし何か変だとは思ったけど、親には言わなかった。我慢できないほどのことではなかったから。六人以外の人たちは私を無視しなかった。かといって、特に仲が良くなることもなかった。

 六人の突然始まった無視、私がそこにいないようにふるまうことは続いた。

 どうしてなのか分からなかったけど、三学期の最初の登校日に六人のひとりにおはようと挨拶した。無視されるかとか、返事があるかとか、なにも考えなかった。ただ、言ってみた。

 ふつうに、おはようと返ってきた。それを聞いて、びっくりした。あれ、返事が返ってきた、無視されなかった、と気付いた。

 今までの無視は何だったのか。他のメンバーにも話しかけると、今まで何事もなかったように返事があった。

 それ以来、また休み時間や放課後などに一緒に遊ぶようになった。しかし誰も、二学期の無視については何も言わなかった。私からも訊かなかった。訊いたらまた無視が始まるような、そんな気がしたから。

 そのうちだんだんと無視されていたことを、思い出さなくなった。忘れてしまったのではないけど、思い出す回数が少なくなった。


 痛い、悔しい、悲しい

 体操着に着替えて体育館に入って直ぐに、背中を叩かれた。振り返ったら、あの六人がいた。みんなちょっと笑っている。六人の中の誰が叩いたのかは、分からない。多分誰か見ていたひとがいると思うけど、誰も叩いたひとを教えてくれなかった。

 無視がなくなって、忘れかけて安心していたのに、今度は叩かれたり蹴られたりするようになった。何がきっかけなのか分からない。私は何もしていないと思う。

 叩かれるのが、いちにち一回が二回になって三回になって、だんだん増えてきた。三学期が終わるまであと一ヶ月くらい。春休みまで我慢したらいいのか、三年生になっても続くのか。イヤだ、イヤだ。

 家では、叩かれたり蹴られたりしたところが痛くないような振りをしている。親には言えない。かっこ悪いというか、いじめられているのは恥ずかしい気がする。それに、もし親から先生や六人の親に話をしたら、もっと恥ずかしいし、もっと叩かれるかもしれない。

 先生が気付いてくれれば良いけど、多分気付かない。無視の時も気付かなかったか、気付いていたのかもしれないけど、六人と私に、一緒に遊ばないのか、と言っただけだった。

 我慢するしかないのか。いつまで我慢したら良いのか。いつまでか分からないことが、つらい。

 叩かれたり蹴られたりするのが、悔しい。痛いのもあるけど、痛いより悔しい。私も叩き返したい。ひとを叩いたり蹴ったりするのは嫌だけど、やられた瞬間はやり返したいと思う。でも六人には勝てない。

 叩かれるのが仕方ないから、本当よりも痛い振りをする。それで少しでも手加減して欲しいから。でも、そうする自分が悔しい。情けない。叩かれるだけで悔しいのに、すごく痛い振りをして逃げようとすることも悔しい。一回叩かれたら二回悔しい。痛いからじゃなくて情けないから、泣きたくなる。悲しい。

 暴力が続くと、やったひとを後ろから棒で叩くか、石をぶつけようと思うときがある。でもケガをするかもしれない。骨が折れたり石が目に中って見えなくなったら、かわいそうだ。それに、六人の親とか先生とか私の親も、私を怒るのが分かる。

 あの六人は、私がケガをするとか先生や親に言いつけることを考えていないのが不思議。自分達が先生や親から怒られることが恐くないのか、それともなんとも思わないのか。ひとがケガをしても、なんとも思わないのか。頭の中が分からない。

 いじめられて、自殺する子がいる。いじめた子は反省もしないし、謝ることもしないらしい。きっと、悪いと思っていない。どうしてだろう。自分がいじめた子が死んでも、なんとも思わないでいられるなんて、信じられない。何もしていない子をいじめるだけでも、頭がおかしいと思う。だから、相手が死んでも何も感じないんだ。正常じゃない。

 そんなひとたちにちょっとでも逆らったら、殺されるまで叩かれて蹴られるかもしれない。どうしたら良いのだろう。このまま我慢するだけなら、我慢できなくなったときに、私も死んでしまう。イヤだ。

 誰でも死ぬのは嫌だけど、じゃ、死んだ子はいじめが死ぬよりつらかったんだ。でもいじめた子は、なんとも思わない。ひとが死んでも平気なんだ。自分が殺したのに。

 ひとがひとを叩いたり蹴ったりするのは、暴力のはず。暴力が、学校ではいじめで済んでしまう。いじめは、悪ふざけで済んでしまう。暴力が、何でもないことになってしまう。

 叩かれること、蹴られることは、痛くて、つらくて、苦しいのに、誰もなんとも思わない。それでいいの?みんなも、先生も、叩かれて、蹴られて、痛くて、つらくて、苦しくても我慢するだけなの?我慢できるの?誰も助けてくれなくてもいいの?

 変だよ、それはおかしい。最初に、ひとを叩くひとがおかしい。叩かなければいけない理由なんか、ない。ただ、面白いだけ。ひとを叩いて面白いなんて、おかしい。

 叩かれるひとが我慢するだけなんて、おかしい。でも、叩き返せない。

 誰も助けてくれないのも、おかしい。自分が叩かれたらイヤだとか、考えられないの?私は、誰かが叩かれたら、助けられるの?

 叩き返せない私は、きっと叩かれる誰かを助けることはできない。自分を助けられないんだから、ひとを助けられない。そんなひとは、叩かれても仕方ないのかな?自分は誰かを助けてあげられないから、誰も自分を助けてくれなくても仕方ないのかな?

 やっぱり、最初に叩くひとが悪い。叩かなければ、叩き返したいとか、それができないから苦しいと思うひとはいない。叩き返すことを考えると、息がはやくなる。心臓がドキドキする。叩き返したい。思いっきり叩いて蹴ってやりたい、私が今まで叩かれて蹴られた分のお返しがしたい。それよりもっと痛くて、つらくて、苦しくしてやりたい。

 それができない、そう考えると、涙が出る。どうして自分にはそれができないのか、と思う。恐いから。もっと叩かれる、もっと蹴られるのが恐い。そう思うと、息が苦しくなる。

 私は息が苦しくなるほど、つらい。どうして我慢しなければいけないのか。叩かれた後は痛いし恐いけど、今は別の恐さがある。なんだかわからない、このままで良いのか、いつか息ができなくならないか、そんな恐さ。


 ふわふわ体が浮いている感じ

 六人から、叩かれるのが嫌なら何でもいいから盗ってこい、と言われた。駅ビルの本屋の隣の文房具売り場。コンビニより監視カメラが少ないから大丈夫だ、と言われた。

 見つかるとか見つからないとかじゃなくて、盗むなんてできない。泥棒だ。泥棒はできない、嫌だと言った。見つかったら親に怒られるし、親は悲しむはず。警察に捕まるかもしれない。

 泥棒する事は、汚れてしまうことだ。ふつうの人間は、泥棒をしない。泥棒したひとは刑務所に入る、犯罪者だ。私は泥棒をしたくない。そう言ったら、叩かれて、蹴られた。みんなやっているから、私もやらないとダメだと言う。

 そんなの関係ない。泥棒の仲間には、なりたくない。私を放って置いてくれたらいいのに。あんな六人と好きで一緒にいるわけじゃない。もうこれ以上、イヤだ。

 だけど、やらないと顔とか腕とか足とか、見えるところを蹴ると言われた。そしたら痣ができてかっこ悪いよ、と笑いながら言われた。親にばれてしまうと思った。それから、先生や親に言ったら殺す、と言われた。

 仕方なくて、一回だけならやると言った。本当に仕方なかった。

 体が熱かった。胸がドキドキした。息をするのを忘れていたかもしれない。目の前が白くなった気がした。消しゴムをひとつ盗った。一番安そうなものにした。額に汗が出た。消しゴムを握りしめて店を出た。手にも汗を掻いた。後ろから誰か追いかけてきそうで、恐かった。恐くて振り向けなかった。体がふわふわ浮いているようだった。通路を曲がって店から見えなくなるまで息を止めていた。息を吐いてから気付いた。でもまだ恐い。防犯カメラに映ったかもしれない。

 六人が笑っていた。消しゴムを渡そうとしたら、要らないと言われた。何のために盗ってこいと言ったのか。分かっている。六人の遊びだ。私に盗みをさせて、それを見ていて面白がっていただけだ。消しゴムなんて、買えないわけじゃない。私がどれだけイヤだったかなんて関係なくて、ただちょっとからかってみたかっただけ。そんなことがふつうにできる六人。

 見つからなくても、盗み、泥棒、犯罪。私は犯罪者。パパとママは、犯罪者の親になってしまった。きっとすごく怒る。それから悲しむ。自分達のことより、泥棒になった私を悲しんでくれると思う。泥棒をやらされたことを、悲しんでくれると思う。そのあとは、やっぱり憎まれてしまうかな。

 むりやり泥棒をやらされても、やっぱりやった私が悪いのか。やらなければ、殴られたり蹴られたりする。それでも、私が悪いのか。全部私の責任になるのか。

 万引きしないと殴ると脅されて、それで盗んでしまったけど、見つかっても六人は絶対に、万引きしろなんて言わなかった、と言うはずだ。六人以外は、誰も見ても聞いてもいないから。

 どうしたらいいのかわからない。盗まないで、殴られて蹴られれば良かったのか。どうして、それを我慢しなければならないのか。

 今は見つからなかったけど、後で防犯カメラでばれるかもしれない。いつか警察が家に来たらどうしよう。その時は、死ぬしかない。消しゴム一個で死ぬんじゃなくて、叩かれて、蹴られて、盗みをやらされたから、死ぬ。

 じゃ、ばれなければ死ななくていいの?でも、泥棒をしたことに違いはない。だけどやっぱり、ばれなかったら死にたくない。死ぬのはイヤだ。

 六人は、本当に万引きをしているのかどうか分からない。万引きくらいやりそうだし、盗ってきたと見せびらかしたりもするけど、本当に盗ったのか買ったのか、私はそこにいなかったから分からない。六人は買って来たものを私に見せて、私にだけ万引きさせたのかもしれない。それくらい狡い六人。簡単に万引きしそうだし、私だけ騙しそうだし、何でもやりそうな六人。

 どうしてあんなひとたちがいるのか。あんなひとになってしまうのか。ふつう、ひとを叩きたいとか、ひとのイヤなことをむりやりやらせるとか、楽しいはずがない。どうして、そんなことが楽しいのか。


 きっと異常者

 自分が叩かれたらイヤだ、と思わないのかな。自分がされてイヤなことを、どうしてひとにするのかな。そんなことを想像できないのかもしれない。何かが、あの六人には足りないんだ、きっと。何か分からないけど、ふつうじゃない。

 異常者なの?そうか、異常だ。異常者でなければ、あんなことはできない。叩いたり蹴ったり、盗みをやらせたり、楽しそうにやっているんだから。

 でも、異常者はどうしたらいいのか。治療はできないのかな。六人の親は、異常に気付いていないのか。親も異常だから、子供の異常に気付かないのか。親が異常だから、子供も異常になったのか。親が自分の子供に何もしないのなら、誰もどうにもできない。治療できない。

 六人、いなくなって欲しい。転校して欲しい。病気になって欲しい。引きこもりになって欲しい。交通事故で死んで欲しい。消えて欲しい。とにかく学校に来ないで欲しい。

 どうして異常者が学校に来て、私がつらい思いをしなければならないのか。いじめられる私が異常なの?私の何が悪くて、何が変で、何が気に入らなくて、何がダメなの?たまたま私だった?

 イヤだとか止めてとか言わないから?それは言ったはず。いつも言っている。叩かれるのも盗むのもイヤだって言った。でも六人には聞いてもらえない。

 逆らわないから?六人には逆らっても勝てない。叩かれても叩き返せない。ひとを叩くのはいやだ。叩き返したら、六人にもっと叩かれるし。

 先生や親に言いつけないから?先生は私が六人に無視されていたとき、何回か私たちに、一緒に遊ばないのか、と言ってくれた。無視される前は、つるんでいたことを知っていたはず。そして無視されていたとき、何か変に思って言ってくれたんだと思う。でも、そこまでだった。

 今、先生に、あの時は無視されていました、今は叩かれたり蹴られたりしています、と言ったらどうにかなるかな。そしたら、万引きさせられたことも言わなきゃいけないし。そしたら、親にも万引きしたことが知らされる。それは絶対に知られたくない。

 やらされたといっても、盗んだことに変わりはない。パパとママは怒るだけじゃなくて、悲しんで、それから私を嫌いになる。ひとの物を盗む子供を、きっと嫌いになる。盗む前に、もっと早く言えば良かった。でも、言えなかった。

 でも六人は、親や先生に言ったら殺すと言った。本当に私を殺すかどうか分からないけど、絶対に暴力はもっとひどくなる。親や先生に言ったら、もう手加減しないで本気で叩かれて蹴られる。骨が折れたり、目が見えなくなるかもしれない。恐い。

 私が何もしなければ、ずっと叩かれて蹴られて万引きをさせられる?もっと何かされたり、やりたくないことをやらされる?イヤだ。イヤだ。イヤだ。

 もうどうなってもいいから、先生とパパとママに言おうか。


 犯罪者

 暴力は叩いたり蹴ったりすることだけではなく、言う内容によっては言葉も心に対する暴力だと思う。痛くなくてもケガをしなくても、頭から水をかぶせることも暴力だと思う。検索して、スマホに水をかけて壊したら器物損壊という罪になることが分かった。だから、ひとに水をかけたら絶対に暴行罪になる。

 叩かたり蹴られたくなければ万引きをしろというのは、強要罪だ。いじめじゃなくて、暴行罪と強要罪。あの六人は犯罪者。そして私も、窃盗罪の犯罪者。強要されても盗んでしまえば、やっぱり窃盗罪とネットにあった。

 あの六人のために、私は泥棒をさせられて犯罪者になった。店や警察にばれるとかじゃなくて、盗んだことに間違いないから犯罪者。店には弁償したい。パパやママと一緒に謝りに行きたい。でもパパもママも怒るだろうし、悲しむだろうし、私を嫌いになる。

 学校に行きたくない。でも行かないと、パパとママにどうして行かないのかと訊かれるし、先生にも訊かれる。勉強も分からなくなる。行きたくないけど、行けなければならない。あの六人が学校に来なければいいのに。

 暴行と強要の被害者の私が学校に行きたくても行けないのに、どうして加害者がふつうに学校に来るのか。来ないようにして欲しい。学校を辞めさせて欲しい。そうすれば、私は学校に行ける。被害者より加害者が大事にされるのは変だ。


 すっきりしたけど

 イヤな夢を何回も見た。あのひとたちの頭を、後ろから棒で叩く夢。あのひとたちのお腹を、ナイフで刺す夢。棒で叩いたりナイフで刺したりしたあとは、本当にすっきりした。うれしかった。あのひとたちがいなくなれば、私は泥棒をしなくてもいいし、叩かれなくなる。

 でもやってしまった後に、泥棒よりもっと悪いことをしてしまった後悔も感じた。ナイフで刺したから大ケガか、死んでしまったかもしれない。泥棒よりも悪い。それをやることになったのはあのひとたちのせいだけど、それでも私が悪いことになる。

 あのひとたちが私を放って置いてくれたら、泥棒しなくてもよかったし、殴られたり蹴られることもなかったし、夢で叩いたり刺したりしなかったし、全部の苦しみがないはず。あのひとたちが、一方的に私を苦しめている。私は何もできない。

 誰かひとりを一回だけなら、棒で叩いたりナイフで刺したりできるかもしれないけど、それはダメなことなのだろうか。やっぱりやってしまったら、私が悪いことになる。どうしてそうなるのだろう。

 先にやったのはあのひとたちで、私はずっと我慢してきて、一回やり返しただけで、私が悪いなんておかしい。

 じゃあ、先生に言ってみようか。私がいじめられていることは分かっているはずだけど、私からは先生に言ったことがない。先生に言っても、どうにもならないかもしれない。それに、あのひとたちのいじめがもっと強くなることが恐い。


 詐欺

 何度も万引きをやらされた。窃盗を強要されて、実行した。コンビニで盗む物を、ガムとかチョコとか指定されたこともあった。一度に二個も三個も盗ってこいと言われた。

 少しずつ慣れた。ドキドキすること、汗を掻くこと、息が苦しくなることが、最初の時よりだんだん少なくなった。それがイヤだった。

 少しずつ諦めた。私はいつまでも、きっと卒業するまで、ずっと盗みをやらされると思った。絶望というのは、こういうことだと思った。

 ところが二ヶ月くらいして、私に万引きさせることに飽きてきたのか、だんだん回数が減ってきた。

 万引きが少なくなってきたと思っていたら、今度は買い物を強要されるようになった。お菓子、雑誌、化粧品、ゲームのプリペイドカード、文房具などを買って来いという。そして、買って来てもお金は払ってくれない。ちょっと立て替えておいてと言って、何日待っても払ってくれない。払ってと言うと、叩かれる。

 払う気は最初からないのに、後で払うと言って買わせて払わないのは、騙したので詐欺罪になると思う。そして最後は暴行。

 いじめは全部犯罪だ。どうして、いじめという言葉でごまかすのかな?暴行罪をいじめと言い換えて、さらに悪ふざけと言い換えるのは、二重のごまかし。窃盗罪は万引き、強要罪も詐欺罪も度が過ぎたいたずら、最悪でもいじめで済んでしまう。暴行でケガをしたら傷害罪のはず。どれくらいのケガをしたら、先生は助けてくれるのか。あのひとたちを、加害者とするのか。大人は狡い。汚い。


 器物損壊

 体操服がなくなった。仕方ないので、家に忘れてきたと先生に言った。隣の教室に置いてあった。私が間違えて、隣の教室に置くはずがない。誰かがわざと置いた。絶対そう。

 上履きがなくなった。ゴミ箱に入っていた。誰かが捨てた。 絶対そう。

 教科書や筆箱が違うひとの机に入れられていた。絶対あの六人だ。

 いろんな物がなくなって、どこかに隠されている。物がないと悲しくなる。もう探すのがイヤだ。なんでこんなことをするのか。バカ!

 体操服や教科書を隠すことは、どんな犯罪?隠すことと盗むことは違う?盗むこととほとんど同じだと思うけど、自分の物として持って帰ったり使ったりはしないところが違う。

 ググったら、隠すことは隠匿といって、所有者の使用を妨害するために隠匿することは、器物損壊罪と書いてある。物を隠せば、壊さなくても損壊、それなら隠して自分で使わなくても窃盗でもいいような気がする。でも、ちゃんと犯罪だと分かった。

 それから、隠されたことでそれが使えなかったことや精神的苦痛に対しては、損害賠償を請求できると書いてあった。六人には、犯罪に対する罰と損害賠償とふたつの責任がある。

 強要も、精神的苦痛がある。暴行も、精神的苦痛がある。暴行でケガをしたら傷害罪で、ケガの治療費を請求できる。本当ならあの六人は警察に捕まって、六人の親は私にお金を払わなければいけないはず。

 そうなればいい気味だ。すっきりする。でも、そんなことあるはずがない。そうなるなら、もうとっくになっているはず。あの六人はこのまま私に犯罪をやり続けて、私はこのままやられ続ける。そして私も、窃盗という犯罪をやらされる。卒業するまで?

 もうイヤだ。死んだらいいのかな。死んだら全部なくなる?

 でも、自分だけ死ぬのはおかしい。自分が死ぬのがおかしい。あの六人が死ねばいい。

 死ね!

 死ね!

 死ね!

 どうやったら六人は死ぬ?死んで欲しい。いなくなって欲しい。消えて欲しい。あの六人が死ななければ、私が死ぬしかないの?イヤだ。悔しい。おかしい。変だ。どうして?


 どうしたらいいの

 あのひとたちはどうしてひとを叩いたり、いやがることをむりやりやらせたり、困ることを平気でやったりできるのか。面白半分にできるのか。ひとを困らせるのが楽しいんだ。どうして楽しいのか?かわいそうとか思わない?かわいそうと全然思わなくて、楽しいだけなんだ、きっと。頭が壊れてるから。

 あの六人は、自分がそうされたらイヤだとか考えないのか?考えることができないのか?自分がそうされたら、イヤだとは思うのだろうか?そして、万引きしろと言われても、言うことはきかないのだろうか?叩かれたら、叩き返すのだろうか?六人はそんなに強い?ひとりでも、自分に暴力をふるうグループに立ち向かえるのだろうか?

 あの六人だって、ひとりひとりはそんなに強くないと思う。六人と私ひとりだから、だからできるはず。私だって、相手がひとりだったらやり返せるかもしれない。

 先生や親に言うなってことは、やっぱり知られるのが恐いんだ。怒られるのが恐いんだ。自分達より強いひとには弱いんだ。そうじゃなきゃおかしい。それがふつう。

 先生に言おうか。親には内緒にして貰って。

 先生に言えば、直ぐになんとかしてくれる?六人の通学を止めさせてくれる?六人を転校させてくれる?いじめを止めさせることができる?絶対に全部できない。六人はもっと私をいじめるようになる。私が学校に行けなくなる。私が転校しなければいけなくなる。それじゃ意味がない。というより、逆。かえって悪くなる。

 きっと私の親には私がいじめられていることを知らせて、六人の親には何も言わない。そんな気がする。六人の親よりひとりの親の方が簡単だから。

 パパとママには知られたくない。恥ずかしい。いじめられっ子だなんて思われたくない。それに、もしパパとママが六人の親に話をしに行っても、六人はいじめを認めなくて、逆にいじめがきつくなる。パパとママが学校になにか言っても、直ぐには変わらない。私が先生に言うのと一緒。


 もう無理かも

 ひどい。ひどすぎる。あり得ない。六人に押さえつけられて服を脱がされて、写真を撮られた。その写真を六人が共有した。

 万引きよりひどい。恥ずかしい。六人以外に見られたら、本当に生きていられない。本当に消えるしかない。生きて行けない。

 私は、生きていたらダメなの?生きていく価値がないの?だからこんなに暴力を受けるの?叩く、蹴る、物を盗ませる、物を隠される、裸の写真を撮られる、全部暴力。学校に行ったら、逃げられない暴力がいっぱいある。

 写真を撮られたから、学校に行かなくてももう逃げられない。ラインで呼び出される。言うことをきかないと、写真を学校の裏サイトに投稿すると脅される。きっと本当にやる。あの六人は、そんなことを簡単にやる。

 あの写真を六人以外に見られたら、死ぬしかない。

 私は死ぬのかな。中学生で死ぬの?死なないとダメなの?どうして?あの六人に殺されないといけないの?私が悪い?私が何かした?なぜこうなるの?なぜ私なの?

 もうイヤだ。イヤだ。学校に行けない。行きたくない。絶対行かない。学校に行かなければ六人に会わない。だからいじめられない。

 写真はどうなる?写真が誰かに見られても、見られたことを私が知らなくて、見たひとに私が会わなければ、見られてないのと同じ?私が死んだのと同じ?

 写真を誰かに見られるのは恥ずかしくてイヤだけど、もし見られても、死ねばその恥ずかしさから逃げられる。死んだら、恥ずかしいと思わないはず。だから、もし見られても、見られたことを知らなければ、見たひとに会わなければ、見られてないのと同じ。そんな考えはおかしいかな?

 学校の生徒があの写真を見たら、私だと分かる。私は誰が見たか知らなくても、見たひとは私だと分かる。でも、私は誰が見たか、誰に見られたか知らないから、見られていないのと同じ。そう考えれば、学校に行かない限り死ななくても良い。学校に行かない方が、死ぬよりはまし。決めた。


 将来も壊される

 頭が痛いとかお腹が痛いとか、だるいとかフラフラするとか、何か言い訳をつけて学校に行っていない。ママに熱を計られて、熱はないといわれた。どこか悪いなら病院に行こうと言われた。パパにも、どうした、と訊かれた。パパもママも、私に学校に行って欲しい。来年は受験もあるから、私も本当は行きたい。でも行けない。

 学校に行かないと勉強が分からなくなるし、高校にも行けないかもしれない。私の将来はどうなるの?私は今だけじゃなくて将来まで、六人に壊されてしまうの?どうして、そこまでするのか。ひとのことなんか何も考えているはずがない。ひとのことを考えられるなら、最初からいじめなんかやらないはず。


 とうとう

 やっぱり学校に行かなければ良かった。ママが泣くから学校に行った。

 いつかこうなる気がしていた。あの写真を、六人以外に見られる日が来るような気がしていた。写真を撮られたんだから、いつかきっと他のひとにも見せるんだろうと思っていた。そんなことがあっていいはずがないと思っていたけど、そうなるような気がしていた。

 自分がイヤだと思うことが、全部現実になってきたから。叩かれたくない、蹴られたくないと思っても、やられた。万引きは絶対イヤだと思っても、そう言っても、許して貰えなかった。ママの財布からお金を取っていろいろ買わされたことも、何度もあった。万引きと同じくらい、家のお金を盗むのはイヤだったのに。

 一番イヤだったのは、裸の写真を撮られたこと。それからは、それが絶対に六人以外に見られないように願ってきた。それも現実になった。きっといつかそうなる様な気がしていて、そうなってしまった。

 学校の裏サイトに写真が掲載されたんだ。絶対そうだ。みんなの雰囲気が変わった。私はパスワードを教えて貰えないので、見られない。けど、みんな私を見て笑う。なんとも言えないすごい顔をするひともいる。バカにしたような顔をするひとも、中には同情するような表情のひともいる。でも基本は無関心。無関心の上に、少しだけいろんな表情を乗せているだけ。

 本当に死ぬ日が来たみたい。とうとうその日が来たみたい。いじめられる子は、やっぱり生きていちゃいけないんだ。いじめられる子は、最後は死ななきゃいけないんだ。生きていても、しょうがないんだ。生きていちゃ、ダメなんだ。価値がないんだ。意味がないんだ。

 でも、パパとママがかわいそう。私が死んだらパパとママは悲しむ。それとも悲しみを通り越して、死んだことを怒る?それほどまでに悲しんでくれる?

 死ぬって、どういうことなんだろう。死んだら、どうなるんだろう。何もない世界?誰もいない世界?もう、いじめられることはないはず!

 死んだら、もう何も考えられない?もう生き返らない?本当は死ぬのはイヤで、生きていたいから、死んでも生まれ変わりたい。そして、あの六人に出逢わないで生きていきたい。

 どうしても出逢うことになっても、いじめられないようになりたい。女じゃなくて男に生まれて、大きい強い男に生まれて、六人をいじめてやりたい。

 そうだ、いじめてやれば、いじめられない。みんないじめられるのがイヤだから、私を助けてくれなかった。いじめられているひとを助けると、今度は自分がいじめられるかもしれないから、それが恐くてイヤだから助けないんだ。いじめる子になればいいんだ。そしたら絶対いじめられない。

 六人に、私がされたのと同じ事をしてやる。叩いたり蹴ったり、万引きをさせたり、親のお金を盗ませて何かを買わせたり、頭からバケツで水をかぶせたり、教科書や靴を隠したり、裏サイトで悪口を言ったり、裸の写真を撮ってみんなに見せてやる。

 泣いても頼まれても、絶対許さない。死にたくなるくらいいじめてやる。死ぬまでいじめてやる。私は死ぬんだから、六人も死ねばいい。


 死んだら

 気持ち悪い。ひとが死ねばいいとか死んで欲しいとか考えるのは、なんだかイヤだ。店の物を盗んだり、親のお金を盗むのと同じようにイヤだ。六人が死ねば私はいじめられなくなるけど。

 自分が死ぬかもしれないのに、あの六人には死んで欲しいと思い切れない私の弱さが、いじめられる理由なのかな。ひとを叩いたり蹴ったりして面白がる、いやがっても万引きさせる、親のお金を盗ませる、裸の写真を撮る、そんなことをなんとも思わないくらい強くないからダメなのかな。

 弱いからダメ?弱いからいじめられる?いじめることが楽しいと思えるくらい強くないとダメ?今の私にはできない。生まれ変わらないとダメ?そのためにやっぱり死なないとダメ?死んだら生まれ変わる?違うパパとママの子供になる?絶対強い男の子で生まれる?

 生まれ変わりなんてある?死んでも、また生まれてこられる?もしそうなら、死ぬ恐さが少しだけ減るかもしれない。直ぐじゃなくても、いつか分からなくても、また生まれてきて、生きられるならいいな。

 でも、生まれ変わりがないなら、死ぬのはメッチャ恐い。死んだら終わり?もう、なにもない?真っ暗?それさえ感じない?永遠の終わり?全部なくなる?私が今まで生きたこともなくなる?パパとママもいつか私を忘れてしまう?恐い。死にたくない。やっぱり死ぬのは絶対イヤ。


 絶望

 先生に言った。死にたくなくて、いじめられていることを全部言った。

 パパとママには絶対に内緒にしてくれるように頼んだ。いじめられていたって知られたくない。恥ずかしい。お金が無くなっていることや、三年生なって学校をしばらく休んだことで、なにか気付いているかもしれないけど、裸の写真を撮られたとか、万引きをしたことは絶対に知られたくない。

 先生は、悪ふざけが過ぎるだけじゃないか、と言った。万引きしたことは誰にも言うな、と言った。家のお金の持ち出しももうやめろ、と言った。六人にはもう暴力をふるわないように先生から話す、と言った。

 先生、それじゃ何も変わらないよ。悪ふざけじゃないよ。犯罪だよ。いじめは、いろんな犯罪だよ。

 万引きは、ばれなければいいの?万引きは窃盗罪だよ。万引きがばれたら、先生の責任もあるから黙っていろということ?

 暴力は暴行罪だし、ケガをしたら傷害罪だよ。強要罪も器物損壊罪もあるよ。

 六人の携帯にある写真は消して貰えるの?裏サイトの写真も消して貰えるの?先生は裏サイトにアクセスできるの?誰か携帯にダウンロードしているかもしれないけど、それも全部消して貰えるの?暴力を止めるように言われた六人は、先生に言った私に、もっと暴力をふるうようにならないの?

 いま直ぐに六人を、学校に来ないようにできないの?いま直ぐに裏サイトを見つけて、全部削除できないの?ダウンロードされた写真も、全部消して欲しい。そうでなければ、なんにもならない。かえって悪くなる。

 先生に言っても、ムダだったのかな。先生に何ができるんだろう。直ぐに六人を通学停止なんかできそうにない。校長に相談してくれるかな?通学停止まで何日かかるんだろう。六人の親がパパとママに文句を言いに来るかもしれない。そしたらパパとママに全部分かってしまう。きっとそうなる。

 先生に言ったのはムダだった。言わなければ良かった。きっともっと悪くなる。


 瞬間の安心

 声がする。周りを見ても誰もいない。どういうこと?誰かと誰かが、私の悪口を言っている。誰?

 はっきり耳から聞こえるときもあれば、頭の中で声がするときもある。回りには誰もいない。誰かと誰かの会話のときは、いつも私の悪口。誰かが私に話しかけるときは、つい答えてしまうこともある。なにか変。どうしたのかな? 私、頭がおかしくなった?

 誰かがカッターで腕を切れと言うから、切った。表面だけだけど、血が出た。切ったとき、ちょっとホッとした。血が出て痛いのに、少しだけうれしかった。やっぱり、私、頭が変になった?

 いじめられた日や私の悪口が聞こえた日に、手首に傷を付けて血の線を見ると、気分が楽になる。嫌な気分を、少しの間だけ忘れていられる。どうしてか分からないけど。

 手首が傷だらけになったらどうしよう。ばい菌が入って化膿したらどうしよう。でも、止められない。どうしてもつらいとき、スッと切ると、その痛みと血が、いじめのつらさを忘れさせてくれる。

 叩かれた、蹴られた、万引きさせられた、買い物のために家のお金を持ってきた、裸の写真を撮られた、それが学校の裏サイトに掲載されてみんなに見られた、考えただけで嫌になる、泣きたくなる、叫びたくなる、死にたくなる。そんなときにカッターで手首を切ると、ホッとする。

 どうなっているんだろう。いじめからは逃げられない。写真は取り返せない。裏サイトに掲載された写真は削除できない。誰もいないのに悪口が聞こえてくる。私はなにもできない。

 だけど、手首を切ることはできる。切ったら痛いし、血が出るのはふつう。手首を切らなければ血は出ないし、痛くない。これは私が自分で切ったり切らなかったり、どうにかできること。だから安心。切ったら痛いのも血が出るのも当たり前で、私が自分でやったこと。切らなければいい。いじめや悪口は私にはどうにもできない。逃げられない。

 良くわからないけど、いじめは自分ではイヤでもどうしても逃げられないし、どうしていじめられるか分からないけど、切ったときの痛みや傷口から出てくる血はカッターに込める力で、自分で調整できるし、切ればそうなるって分かっているから、安心できるのかも。自分で自分を切って安心とか、変だけど。


 ?

 わたしってなんなの?

 叩かれて、

 蹴られて、

 店から物を盗むように強制されて、

 買い物のお金を払ってくれないから家のお金を持ち出して、

 裸の写真を撮られて、

 それを裏サイトに投稿されて、

 みんなに見られて、

 誰もいないのに悪口が聞こえて、

 手首をカッターで切って。

 わたしのなにが悪いの?

 どうしたらいいの?

 やっぱり死ぬしかない?

 死んだら全部終わる?


 死んで見せてくれる?

 六人に呼び出された。先生に言ったことがばれている。やっぱり、思った通り。

 いじめのことはパパとママにも内緒で、先生と私しか知らないはず。先生が六人になにか言ったんだ。最悪!

 先生はなにもしてくれなくて、六人にバラしてしまった。六人が出席停止とか、転校するならいいけど、これじゃ先生に相談した意味がない。ていうか、やっぱり最悪。

 先生はなんなの?なんにも分かってない。分かってくれない。六人に言ったらいじめがひどくなるだけって、どうして分からないの?

 先生が言って分かる六人なら、最初からあんなひどいことをするはずがない。六人は誰が何を言っても分からないの。いじめを止めろと言っても、止めるはずがない。だから出席停止、退学とか転校させるしかないの。

 先生は「校長にも相談して、六人の親にも話をするようになるかもしれないから、それがイヤならこれ以上私をいじめるな」と言ったらしい。

 六人は、もうこれ以上絶対にいじめられていることを誰にも言うなと言いながら、私を叩いたり蹴ったりした。傷でばれないように顔とか手足は避けて、お腹や背中を蹴られて、息ができなくなった。息が吸えなくて苦しかった。

 悔しかった。痛かった。苦しかった。泣いた。泣いて、ゴメンナサイ、もう言いませんと叫んだ。

 なんか、もう、どうでいい。死んでしまえばいい。私が消えればいい。それしかない。

 私が死ねばいいの?と叫んだ。死んだらいいの?死ななきゃダメなの?

 六人はニヤニヤしていた。やっぱりひとが死ぬことを、なんとも思っていない。

 青木元樹が「死ね」と言った。ぞっとした。本気だろうと思う。そんなひとだと思う。

 遠藤裕哉も「死ねよ」と言った。

 藤村慶太は「死んで見せてくれる?」と言った。

 太田結菜と津田澪と大久保あかりは、無言でニヤニヤしていた。

 そうよね。女の子だって私を叩いたり蹴ったりしたし、裸の写真を撮るときに押さえつけたり、脱がしたりしたんだから。


 自分がイヤ

 自分から落ちたのか、六人の誰かに突き落とされたのか?全部イヤになって自分で飛び降りた気もするし、どうせ突き落とされるなら自分から落ちようと思った気もするし、誰かに押されてバランスを失って落ちてしまった気もする。

 一瞬だった!分からないけど、川に落ちた。冷たい。息ができない。水を飲んだ。苦い。臭い。吐き気がする。息が吸えない。

 これが、死ぬと言うこと?私は死ぬ。とうとう死ぬ。やっぱり死ぬことになった。いつか死ぬことになる予感があった。死にたくなかったけど、死ぬしかないと思っていた。

 本当は、殺されるということ。六人に、今、殺される。殺されている。六人は、ひと殺し。ひとを殺すことをなんとも思わない、ひと殺し。笑いながらひとを殺す六人。

 悔しい。悲しい。許せない。六人も死ねばいいのに。絶対死んで欲しい。

 自分が許せない。あんなのに負けて死ぬ自分がイヤだ。殺されるくらいなら、なにかできなかった?噛みつくとか、後ろから棒で叩くとか、自転車でぶつかるとか。どうせ死ぬんだから、なにかやっておけば良かった。

 なにもできなかった弱虫。バカ。意気地なし。だから死ぬしかない。生きる力がなかった。

 ママ、パパ、ごめんなさい。沙弥加は、死んでしまいます。殺されてしまいます。情けない子で、ごめんなさい。

 ママは余り悲しみすぎないで。沙弥加も悲しいから。

 パパは六人に沙弥加の復讐をしてくれますか?六人は、青木元樹、遠藤裕哉、藤村慶太、太田結菜、津田澪、大久保あかりです。沙弥加が殺されたかたきを取ってください。

 あと、担任の寺田先生は、相談したけどなにもしてくれませんでした。私が相談したことを六人に言われて、かえっていじめがひどくなりました。六人には言わないで、とお願いしたのに、聞いてくれませんでした。

 沙弥加は、いじめられてつらかった。死にたくなかった。学校に行きたかった。高校に行って、大人になって、仕事をして、いつかお嫁さんになりたかった。全部六人に奪われました。

 悔しいです。許せません。だから必ず復讐をして下さい。お願いします。私は死にたくない。私は殺される。パパ、ママ、助けて。

 楽しかったことが頭を通り過ぎていく。誕生日パーティ、クリスマスプレゼント、遊園地や動物園、猫のミントを飼ったこと、パパの肩車、ママのご馳走、自転車に乗れるようになったこと・・・

 なんだか変。

 苦しいけど、もう息をするのも無理、息ができなくてもいい。

 すこし眠い。

 あんまり苦しくなくなってきた、落ちていく、気持ちいい、飛んでいるみたい。

 眩しい光、目が開けられない。

 暖かい、ふわふわしている。

 楽しいことが一杯あった、おいしいものを一杯食べた、ママに遊んで貰った、パパに抱っこして貰った、怒られたこともあるけど、それも思い出。

 パパ、ママ、ありがとう。

 あれ、すごく眠くなってきた、眠い。もう寝るね、さようなら。


 受け入れられません

 沙弥加が死んでしまいました。葬儀はとうに終えましたが、まだ信じられません。受け入れられないというのは、この様な気持ちを言うのだと分かりました。信じたくない、あってはならないことだ、という気持ちです。

 沙弥加はまだ中学三年生でした。健康でした。まだまだ生きなければならなかったのです。死にたくなどなかったのです。親よりもずっと後まで生きるはずでした。

 高校へ行って、大学へ行って、好きな仕事を見つけて、希望を実現して、恋をして、結婚をして、子供を産んで、老いて、人生を楽しんで、全うするはずでした。

 沙弥加は赤里川で溺死したのです。息ができなくて苦しかったと思います。恐かったと思います。まだ中学生、無念だったと思います。愚かなことは分かっていますが、霊でも良いから出てきて欲しいと思っています。

 自殺か事故か他殺か分かりません。報道に依れば当初警察は、沙弥加がいじめられていたため、自殺の可能性を指摘していました。また、いじめとは無関係ではないにしても、誤って転落した事故の可能性も否定できない、とも。同時に、いじめていた子らに突き落とされた、殺人の可能性も視野に入れて捜査している、とのことでした。

 何が本当なのでしょうか。結局警察は、自殺として処理しました。主な根拠は、いじめていた子らへの事情聴取に対する供述内容です。沙弥加が自分で川に落ちたと警察に話したのでしょう。いじめていた六人以外の目撃者はいなかったそうです。

 自殺なら、原因は何でしょう。事故なら、状況はどうだったのでしょう。殺人なら、誰がやったのでしょう。究明しなければなりません。

 自殺の原因なら、いじめ以外には考えられません。沙弥加が自ら川に落ちたのであれば、いじめが原因です。いじめから逃れるための自殺、即ちいじめた者達による殺人と見なします。

 事故で川に落ちたとしても、沙弥加をいじめてきた六人に呼び出された現場での事故であり、救助も通報もしなかったのですから、殺人に極めて近いと思います。いじめた者による殺人と見なして問題無いと考えます。

 沙弥加が自分で川に落ちたにしろ、誤って川に落ちたにしろ、川のコンクリート法面を自力で上がることができず、六人は誰も救助せず、通報もしませんでした。ただ、見ていただけです。溺れて死ぬのを、ただ見ていたのです。

 寒気がします。彼らも中学生、やって良いこと、いけないこと、やるべき事は分かっているはずです。六人もいて、全員がただ見ていただけとは、どうしてそんな子に育ったのでしょうか。

 六人の誰か、あるいは複数が共謀して沙弥加を川に突き落としたのなら、明確な殺人です。

 法的には殺人、自殺関与、自殺幇助、傷害致死、未必の故意などは明確に区別されるのでしょうが、子を殺された親からすれば、いずれもが殺人と変わりがないのです。

 沙弥加がいじめられていたこと、いじめていた者が六人いたこと、担任は沙弥加の相談を受けていましたが、安易に六人に簡単な注意を促しただけで、そのため逆にいじめがエスカレートしたことなどが判明するまで、八ヶ月もかかりました。

 校長は市教育委員会に対していじめを隠蔽し、市教育委員会は市に対していじめを隠蔽しました。いじめ調査の第三者委員会さえ校長と教育委員会の息のかかった人達が選定されて、いじめは無かった、悪ふざけの度が過ぎた程度だ、という結論を出しました。

 校長は、生徒へのいじめ有無調査のアンケート結果は、如何なるかたちでも、特にマスコミやネットでは公開しない、という条件を付けて父である私に引き渡しました。後になってこの条件が報道されてから、条件ではなくお願いだった、と言い訳をしました。そのアンケートは、集計された結果だけで、アンケートのコピーではありません。改ざんされていたのです。

 最初は校長の判断で彼女が教育委員会に対していじめを否定し、生徒へのアンケートでいじめが判明すると、今度は校長と教育委員会は結託していじめを隠蔽することにして、教育委員会から校長に対して隠蔽の指南がなされ、校長は担任のみならず全ての教員に、調査の結論としていじめはなかった、と報告をしました。ある教員によれば、それは報告と言うより指示だった、とのことです。

 校長は市教育委員会から隠蔽の承認を得たと安心し、担任は校長から隠蔽の指示を受けたと確信し、ふたりとも隠蔽に対する罪悪感が薄まったようです。

 校長は、私や他の保護者に対する説明会で、信じられないことに、時に頬を緩ませながら強気の説明を行いました。一瞬ですが、明らかに微笑んでいました。何がおかしかったのでしょう。ひとがひとり、生徒が死んでいるのに、説明会で笑うとは。

 腹が立ちました。いいえ、それを通り越して、絶望しました。しかしなんとしても、ここで諦めたら相手の思うつぼだと自分に言い聞かせて、怒りと絶望を一旦封じ込めて、興信所の力を借りて真実を追求してきました。

 二回目の説明会で、校長が私に対して「仮にいじめがあったとしても、六人の将来も考えてやって欲しい、沙弥加さんの件はもう過ぎたことで、ひとりのために六人の将来を潰してしまうのか」と言いました。耳を疑うとはこのことです。なんということを言うのか。殺された被害者より、殺した加害者が大切だと言うのです。どういう意味なのか、この女は自分の言っていることが分かっているのか、適切な養育、教育を受けた人間なのか、今現在痴呆ではないのか、一時的な心神喪失状態なのか、酒や薬物で酩酊しているのか、いずれにしても正常ではない、まともな思考とは思えませんでした。よくも殺された子の親にその言葉を吐けたものだ、と思いました。やるかたない憤懣、どこまでも深い絶望、信じ難い不条理、空虚、窒息感、いろいろな自分でコントロールできない感情が湧き起こりました。

 その時、手が震えました。額に汗を掻きました。顔につばを吐きかけて、殴りつけてやろうと思いました。蹴りつけてやろうと思いました。

 かろうじて抑えました。息が荒くなっていました。

 その場は抑えましたが、怒りは薄まらず、いつか殴ってしまうかもしれないと思い続けています。校長は、芸を教えても覚えられない下等な動物か昆虫のような知能程度ですから、殴ったからといってその理由や意味を思考する事はできないでしょうし、どうにもならないことは分かっていました。しかし、校長の言葉に対する憤怒と暴力行使の衝動はいつまでも抑えられるものではない、と予感しました。

 そして予感したとおり、校長の駒場ゆかりに適切な責任を取って貰う事にしました。許せないのです。時間がいくら経過しても、少しも許せないのです。


 腐敗

 これが教員、これが校長、これが市教育委員会、これが第三者調査委員会。全てが腐敗しています。腐敗の原因は何でしょう。

 いじめを隠蔽する理由として、その存在が発覚すると、担任教員、それを管理する校長、それを管理する教育委員会の成績が悪くなる、非難される、数年で生徒は卒業するので自然に消滅する、または隠蔽しても追及できなくなる、同じように教員と校長は数年で転勤していじめ問題から逃れられる、どこの学校でも隠蔽していると考えられている、いじめの調査、解決には膨大な時間が取られるが評価されない、などが考えられます。要するに、責任を取りたくない、面倒、生徒が卒業、自分が転勤するまで逃げてかわせば勝ち、ということです。被害者のことは一切考えられていません。

 腐敗は学校に限らず、一般社会でもよくあることです。いくつもの企業では検査データの改ざんがあり、国会では議員の虚偽の答弁があり、学者の研究結果には捏造があり、警察官が罪を犯せば組織で隠蔽し、検察は権力に忖度して巨悪を追及できません。ですから学校においても、いじめた生徒はいじめなどしていないと否定するでしょうし、いじめた生徒の親は濡れ衣だと逆切れするでしょうし、担任はいじめを知らなかったとしらばっくれるでしょうし、校長はいじめではなく悪ふざけだと詭弁を駆使するでしょうし、教育委員会はほおかむりするでしょう。それも無理はないのかもしれません。残念ながらそういう程度の社会、民度、道徳、理性なのです。

 第三者委員会のいじめ調査報告書の所々、しかし肝心なところが黒塗りだったのも、国会に提出される報告書の政府に不都合な部分が同様であることから、不思議はありません。

 しかし、許せはしません。放置はできません。放置して良いなら、法律は無用になり、文明を否定することになり、人間社会は無価値ということになります。

 人間が幸福になるために、必要で適切な法が制定され、遵守され、逸脱した者には罰則を与え、改善を要求しなければなりません。

 力による現状変更は認められない、法の支配が必要だ、と言う連中がまさに力によって現状を自分の都合の良いように歪曲し、法に背いているのです。

 いじめはあってはならず、いじめがあったときには、学校は加害生徒を、教育委員会は学校を、市は教育委員会を、市民は市を指導し、責任の追及を行い、原因を分析し、原因に対し対策を実行し、対策の効果を確認し、改善しなければなりません。

 民間企業では、従業員が企業に損害を与えた場合には、故意、過失を問わず責任が追及されます。故意で重大な損害の場合は、懲戒解雇、賠償請求、告発さえ行われます。

 ところが政治家は、政策や職務執行の瑕疵など、気にもしません。政策の結果について全く反対のデータがあったにしても、あたかも成果があったように自画自賛して、恥じることを知りません。それどころか、違法行為に対しても全く責任を取りません。

 ごまかしていた政治資金の問題がばれると、秘書に責任を転嫁します。秘書のせいにできないときは、入院します。しかし、辞職することはなく、議員というおいしい身分に居座り続けます。

 政治家は、如何に税金から自分への利益を引き出すか、つまり税金を盗むかにだけ腐心しています。今だけ良ければ、自分だけ良ければ、金だけ入れば、の老害達です。

 そういう政治家を利用して天下り先を増やし、数年で数千万円という退職金を得るのが高級官僚です。政治家は能力が無いため、官僚を敵に回すと仕事できず、官僚の言いなりです。政治家と官僚はウィン・ウィンで、割を食うのが市民です。

 国民をどう幸福にするか、安全を維持するかを考え、一〇年先の、二〇年先の世界観、国家観を持つものは与党にはいません。野党には、ひとりかふたりはいるかもしれませんが、政治家になろうというひとは基本的に信用できませんから、充分に疑ってかかる必要があります。

 ひとは、権力を得たときに豹変する可能性があります。世界の共産主義の指導者もそうでした。ひとは能力に応じて働き、必要に応じて受け取るはずが、市民は食べるものがなくても、権力者は美食をほしいままに貪り、生きている限り権力を離そうとしません。加えて虐殺です。

 政治家や官僚は、何に対しても責任を取らずに済むように、明確な判断をしない、前例を踏襲する、新しい事を始めない、承認プロセスによって責任の所在を曖昧にして各担当者の責任を希釈する、必要とあれば安易に前言を撤回して済ます、記録されているにも拘わらず前言の存在を否定する、前言の意味を理解できない日本語に言い換えてごまかす、情報を隠蔽する、詭弁を弄して非を認めない、取材を避ける、質問文書に回答しない、論点をずらす、無視する、威嚇する、マスコミやネットに虚偽の情報を流す、スラップ訴訟、入院、熱しやすく冷めやすい日本人の特性に期待してのらりくらりかわす、などの手法を駆使します。それに対して、個人は対処しきれません。マスコミは追求しません。

 マスコミは大企業の不祥事を報道し、攻撃しますが、政府、与党、高級官僚に対しては忖度し、阿り、怯え、自主的に規制します。マスコミは、市民が大企業にやっかみを抱いており、追及されることや社長がカメラの前で謝罪することに胸の空く思いがするという幼稚な存在であることを知っています。しかし大企業はマスコミのスポンサーですから、自分の首を絞めるほど大企業を致命的には追い込むことは決してありません。

 マスコミは視聴率や販売部数をかせぐために、ニュースを創作し、不安を煽り、愚劣な興味を引く内容で市民を引きつけ、あるいは大本営発表の虚偽をあたかも事実のように宣伝します。

 自らの誤報については、とぼけきれないとなると紙面の片隅に数行、番組の終わりに数秒の、謝罪もどきの言葉でお茶を濁して終わりです。誤報の原因とそれに対する対策を述べることはありません。ですから同じ失敗を繰り返します。

 マスコミは、権力に睨まれることに対して著しく臆病です。本来は権力を監視すべきマスコミは、権力からどれだけ立派な首輪を貰うかを競走しているのです。存在価値を捨て去っていることに、気付かない振りをしているのです。それを感知できないのが、無知なほどに善良で幼稚なほどに純粋な市民です。

 国家や政府は市民のために存在するべきですが、市民は国家や政府のために存在しているとさえ思っているのが、この国の政府、与党です。その中をうまく泳いで、卑しさを隠して偉そうなフリをして儲けているのが、マスコミです。そして、市民が国家の所有物として扱われていることに気付かないのが、市民です。

 この国では、マスコミは中立であるべき、という考え方があるようですが、それは不可能でしょう。何をもって中立、公正、客観と判定できるのでしょうか。中立を隠れ蓑に、単に自社が発表した意見への批判を避けたいだけのように思えます。なになにのように思えます、や、なになにが心配されます、というように意見を言わずに、他人事のようなコメントで逃げるのが常道です。

 マスコミは意見を持つべきです。与党系の新聞もあれば、野党系の雑誌もあれば良いでしょう。市民に阿ることなる、低俗に墜ちる事なく、権力に忖度することなく、弾圧に屈することなく、自社の意見を持てば良いでしょう。読者が判断します。それができない読者なら、そこまでのことです。読者を見限れば良いのです。

 受信料で成り立って公共放送を標榜する放送局さえも、一般放送局同様に国家の宣伝機関に成り下がっています。受信料を払っていながら、権力側に都合の良い宣伝に洗脳されている視聴者は、好い面の皮です。

 相反すべき権力と報道も、ウィン・ウィン、より率直に表現するなら共犯関係で、ルーザー、被害者はやはり一般市民です。

 言論弾圧という言葉を聞きません。マスコミは権力の監視機能を捨てて、権力の犬になったのです。最初からそうであったのかも知れません。

 国家が腐敗しているから、企業などの法人もそして個人も腐敗するのでしょうか。あるいは、個人の資質が貧弱で、民度が低いから、その集合体である法人の資質が不足し、政府が腐敗するのでしょうか。

 与党に有利な仕組みであるとしても、選挙という制度がある以上は、低俗な政府しか作れなかった市民の責任であることは間違いありませんが、市民に選択された、当選した人間として余りに与党議員は無様です。目の前の利権だけの連中です。彼らの愚劣さを見習う必要は少しもありませんが、なにも市民だけがそれほど高尚である必要もありません。政府に合わせて、市民ももっと自己中心的であるべきです。

 政府は、何をやっても何をやらなくても一切の責任から解放されているのですから、市民も同様に、一切の責任を放棄して良いのです。平等、公平であるべきです。市民のマナー違反もルール逸脱も失敗も犯罪も、責任を追及されるいわれは無いのです。

 総理だったときの飛弾野勲は何をやりましたか。エコノミクスをもじったレーガノミクスをさらに猿まねしたヒダノミクスだの、三本の矢だのとぶち上げた経済浮揚政策を失敗し、外遊という大名旅行で国内の経済的困窮者を無視して海外に無駄に金をばらまき、全電源喪失はあり得ないと対策せずに原子力発電所を爆発させ、自分の犯罪を隠蔽するために公文書を改ざんさせられた大蔵省官僚を自殺させ、国会で虚偽の答弁を繰り返し、宗教法人を隠れ蓑にした外国発祥の反社会的組織である一元教会の広告塔となる代わりに選挙の票を恵んで貰い、この国にあったかもしれないほんの少しのなけなしの民主主義を徹底的に踏みにじり、戦争で儲けたくて憲法改悪を企んだのです。全て自らの権力欲と利権のためです。こんな人間が、この国の総理大臣だったのです。

 日本人にとってほんの僅かの救いは、彼が無様な殺され方をしたことによって、一元教会と与党である主権在民党との爛れた関係が、世に示されたことです。同情されるべきは、それを暴いた報償の代わりに逮捕された神蔵雅紀です。

 神蔵雅紀の母は一元教会に洗脳され、財産の全てと借金までした金を教会に寄付として強奪され、ために神蔵雅紀の家庭は破壊されました。神蔵雅紀は、一元教会総裁の代わりに祖父の代から教会の広告塔であった飛弾野勲元総理を、自作の銃で射殺しました。

 主権在民党と、そのおこぼれに与ろうとすり寄る立生党だけではなく、野党の多くも異常です。与党と政策が変わりないくせに、党首が小さいお山の大将になりたいからか、存在意義の無い野党がいくつも存在して、所詮自分の利益が一番ですから、野党共闘して与党を打倒することもできません。幸福な社会、国民のための国家を目指す正常な野党と思われることを主張しているのは、共有党と二一世紀改造群くらいものです。

 共有党員も自覚はしていると思いますが、今更共産主義が実現するはずも無く、その心配はする事なしに、彼らの主張には頷ける部分が多々あります。もっとも、万一与党になったときは共産主義の実現よりも、一般的な権力の腐敗に監視は欠かせません。引退した共有党元委員長の野口邦彦は、豪邸に住んでいるそうです。党の功労者は特権階級、共産主義の理想とは正反対の考え方です。

 元俳優が代表の二一世紀改造群が政党として数の力、影響力を持つには相当の時間がかかるでしょうが、彼らは諦めずにまともな常識的な、与党からすれば耳の痛い、利権の旨みとは縁が無い主張をしています。やはり腐敗しないように注視しながら、成長を待ちたいと思います。成長させることのできる有権者がどれだけいるか、にかかっていますが。

 不思議なのは、日本人が与党に投票し、自分で自分の首を絞めていることです。経済は回復しない、給料は上がらない、税金は上がる、企業は優遇され、労働者は搾取される、感染症対策は的外れ、アメリカ軍の殖民地政策に唯々諾々と従い、もはや経済的国力は失われ、社会的自由はなく、わずかばかりはあったのかもしれない報道の自由は記者連中が飛弾野勲に飲ませ食わせやられて消滅し、司法はねじ曲げられ、巧妙な独裁、中国や北朝鮮と大差ない政治のやり口に市民は慣らされてしまい、異常に気付く気配もありません。この状態を、ゆでガエルと形容するひともいます。

 仏教組織を支持母体とする立生党は主権在民党と連立を組んでいて、自党から大臣か副大臣でも出したいのか、憲法を改悪して戦争しようとする飛弾野勲と手を切れませんでした。理念も政策もなく、権力につながりたいだけだと判明しました。仏教と戦争、相容れないはずですが、権力の汁の味は格別のようです。

 親の経済的事由で日に三回の食事を摂れない子供に、無償または格安で食事を提供する民間の子ども食堂が、全国に六千カ所もあるといいます。もはやこの国は、国連から援助を受ける国ではないでしょうか。与党は、この状態を恥ずかしがる術を知らないようです。あるいはこれをごまかすために、海外に金をばらまいているのでしょうか。

 自殺者の多いこと、これは国家の欠陥です。三年前からの感染症に対する無策が、更に自殺者を増やしています。夢や希望はその次としても、生活できる仕事は最低限必要です。

 自由意志に依らない少子化、非婚化、これらは社会の瑕疵です。これも経済政策の貧困と劣悪な雇用制度が主因です。不妊治療の保険適用くらいでは、少子化対策として焼け石に水です。雇用の安定がなければ結婚はままならず、少子化を加速します。

 オリンピックの使途不明金、これは税金の窃取です。調査することもなく、ぼやぼやしないで多く盗んだもの勝ち、ということでしょう。極めて遺憾です。

 感染症対策の使途不明金、これは国民財産の掠奪です。これも調査しないのですから、容疑者不明のままです。強い言葉で非難します。

 飛弾野勲の国葬、これは法と国民の意志を無視した、国民に対する政府の反逆行為、閣議決定という卑劣なテロリズムです。決して容認できるものではありません。

 市民の代表たるべき政府が、市民の利益を無視して、自分だけの、今だけの、利権だけを追求する現状では、市民の心が荒れるのは当然でしょう。むしろ人心の荒廃を奨励するようなものです。議員は充分以上の、国際標準を超えた対価を得ておりながら、国会で寝るだけではなく、もっともっと汚い金を得ようと鵜の目鷹の目です。大いなる腐敗。限度を超えています。

 政府が腐敗しているから、市民の腐敗は自然なことです。市民の民度が低いから、政府がそれに見合った水準でしかないとも言えます。鶏か卵かですが、市民が彼らを選んだ、投票したのですから、選ばれた方の裏切りは許されることではありません。

 権力を監視すべき報道は、しかしこれも政府同様腐敗していますが、それも市民レベルに合致しているとも言えます。報道、マスコミには権力を監視する意志も挟持も誇りも使命感も職業観も倫理観も理性も良心も、一切何も無いのです。期待することが誤りなのでしょう。ただ空しい限りです。

 しかし政府に対しては、希望を持つことは空しいからと諦める、は彼らの思うつぼです。諦めることは、従順であることと同じです。政府の言いなりになること、政府が何をしても追及せず、何をしなくても許容すること、即ち国民が政府の奴隷になる事、これほど政府にとって都合の良い国民はいません。好きなだけ税金を搾り取って、それを国民のためには使わずに、政府が掠め取るのです。お前達もっと働きもっと納めよ、政府はそれをそっくり戴くぞ、ということです。

 災害に遭ったとき、食料や水の援助物資を整然と列を作って待つ日本人が、諸外国にとっては驚異の光景と映るそうです。奪い合わないからです。実はこれは、民度の低さを示しているのです。為政者は民度が高いと褒めるところですが、それは統治に都合が良いからに過ぎません。

 自分の欲しいもの、必要なものは、与えられるのを待つだけではなく、時には奪わなければ手に入らないのです。税金が高すぎるなら減税する政党を選択する、戦争したい政党があるなら落選させる、税金を盗む議員には投票しない、腐敗した政府は廃棄する、憲法や法令を逸脱した閣議決定による暴挙にはデモンストレーションで、それでも不足なら暴動で意思を明示する、そのような行動が民主主義には必要です。

 北朝鮮や中国のような政府を容認できないのであれば、この国の政府も容認できないはずです。暴力はできるだけ否定されるべきですが、北朝鮮独裁政府を、飢餓から逃れるために市民がやむなく暴力で打倒することは、それでも否定されるべきでしょうか。餓死を待つべきでしょうか。人類の歴史には、暴力で入手した自由もあります。暴力によって独裁政権を転覆した国もあります。正義とは何か、議論は尽きないかも知れませんが、正義実現のための最後の絶望的な手段が、暴力ということはあると思います。

 政府が民意に添わないときは、その政府は国民にとって有害ですから適切に処置されなければなりません。例えば、戦争したくない市民は戦争したい政府を放置してはいけません。

 現総理、榎本隆は現状世界九位の軍事費を五年で二倍にして、世界三位の軍事大国化を企てました。精密に言えば、榎本隆に限らずこの国の総理大臣に何ができるわけでもなく、アメリカ軍の意向でしょう。この国の政府はアメリカ政府ではなく、アメリカ軍の意向に従うのだそうです。太平洋戦争のツケをまだ払わされ続けているのです。リメンバー・パール・ハーバーは、ノーモア・ヒロシマ・ナガサキでお釣りが来るはずですが、なぜ言いなりなのでしょう。

 軍事費を倍増してアメリカのミサイルなどを言い値で買いますが、ミサイルの発射判断はアメリカが行うという報道がありました。主権在民党議員の発言とのことです。この国を防衛すると言うより、アメリカから型落ちの兵器を言い値で買わされて、使うのはアメリカだというのです。中国が台湾に、あるいは北朝鮮が韓国に侵攻したとき、日本がアメリカの楯になってアメリカを守る、というのが日米同盟というもののようです。

 憲法により一切の戦力を保持しないはずの国が、陸海空国防隊を保持し、専守防衛のはずが、敵基地攻撃能力の保有によって先制攻撃をも可能にする侵略軍になりつつあります。国防隊は自分では何も判断できない、アメリカ軍の命令に従うだけの傭兵、外人部隊のようなものです。しかし武器弾薬は自前、その上ただ働き。そうなると、傭兵以下のまるで奴隷です。

 本を正すなら、朕は立憲君主であるから政府の開戦の決定には逆らうことができなかったが、会議で誰も発言しなかったから朕が終戦を決めた、という都合の良い言い訳を許したことではないでしょうか。そしてこの国は、太平洋戦争の責任を誰にも追及しませんでした。無謀で愚かな作戦によって多数の兵隊を殺した指揮官も、決して責任を追及されることはありませんでした。フィリピンで特攻攻撃を多数命令して、戦況が怪しくなると参謀と共に台湾に逃亡した中将も、一時的に予備役に回されただけで直ぐに前線に復帰しました。これは、天皇が任命した中将と大将は、天皇に任命責任が及ばないように、何をやっても何をやらなくても、絶対に軍法会議どころか一切の責任を負わない、という腐敗した仕組みがあったからだそうです。

 現在の主権在民党も、政治資金をごまかそうが、国会で眠ろうが、憲法を無視しようが、とにかく何をやっても、市民の幸福のためには何もしなくても、一切の責任を追及されません。市民が責任を免除しているのです。

 思考を凍結して、後援会の言うままに投票する地盤の有権者と、宗教組織上層部の指示のままに投票する信者、そして政治に絶望して投票しない半数以上の有権者が、この国の衰退を許しているように見えます。

 日米合同委員会で一方的に日本に要求するアメリカ軍と、愚かで怠惰な有権者がこの国を壊しているのです。委員会のメンバーは日米政府ではなく、日本側は各省庁の官僚、アメリカ側は在日米軍だそうです。在日米軍の要求を日本の官僚が政府に伝達して、政府は忠実に従い、相手の期待以上に実行するのです。殖民地。犬。

 もうひとつ、飛弾野勲が銃殺されたことで、一元教会という妖怪組織がこの国に巣くっていることが明確になりました。こんなものに、この国は食い荒らされているのです。

 神蔵雅紀の銃弾は、この国を救うひとつのチャンスですが、きっと日本人はそれを生かすことはできないでしょう。残念で悲しく愚かなことです。


 市民と政府の関係

 銃器犯罪、無差別銃撃がなくならないアメリカで厳格な銃規制が実現できない主な理由は、合衆国憲法修正第二条にあると言われています。『A well regulated Militia, being necessary to the security of a free State, the right of the people to keep and bear Arms, shall not be infringed.』(充分に統制の取れている民兵は自由な国家を維持するために必要であるから、市民が武器を保有し携帯する権利を侵害してはならない)

 強盗などから自分や家族の身を守るために銃が必要ということではなく、自由な国家を外国の侵略や市民を裏切る自国政府から守るために銃が必要であるから、市民は銃を保有し携帯する権利がある、というのです。必要となれば市民は、外国の侵略だけではなく、自由国家に反逆する自国政府をも銃をもって破壊する権利がある、という理念です。

 国防隊のクーデターによって独裁的軍事政権ができても、武器を持たない市民はそれと戦えません。日本は銃規制が厳しくて銃犯罪が極めて少ない、と喜んでばかりはいられないのです。

 国防隊のクーデターは、現実的に考えられないでしょうか?主権在民党と立生党は、憲法を改悪してでも戦争をしようとしています。アメリカの言いなりに武器を買わされるために、満足に食事が取れない子供がいるにも拘わらず国防予算倍増のための増税を企てています。政府が市民の意志を無視して戦争をするとき、市民にはそれを止める手立てがありません。

 国防隊の上層部にあたる将官や佐官は銃を持って戦う兵隊ではなく、国防省の高級官僚です。高級官僚の武官が成績をあげようしたら、戦争して勝つことです。資源がなくても食糧が無くても、武器と野心があれば戦争したくなります。うまくいけば出世します。失敗しても、死ぬのは下級兵士と一般市民です。

 八〇年ほど前に経験したはずですが、世代が代わり、教育がゆがめられて、今や戦争を恐れるひとは一握りのようです。太平洋戦争では軍部が政府の上位に立って戦争を主導しましたが、今般は政府が主導して、国防隊は政府の方針、政策に従うのでしょう。資源や食料を自給できない国に戦争遂行能力は無く、先制攻撃をしたら世界の非難を浴びながら滅びることは、国防隊の上層部なら知っているはずですが、好意的に取ればシビリアンコントロールの手前、政府に意見はできないということでしょうか。

 政府には、警察、国防隊、沿岸警備隊という武装組織があります。さらには、税関、麻薬取締官、刑務官なども拳銃を所持することがあります。それに対し民間には、一切拳銃の所持は認められていません。所持できるのは、標的射撃や狩猟、有害鳥獣駆除目的の、装弾数を制限した空気銃、散弾銃、ライフル銃だけです。厳格な条件をクリアした者だけが所持でき、毎年の銃砲検査があり、三年ごとの所持許可更新制度があります。

 競技のための拳銃さえも五〇名の人数制限があり、現実的に所持しているのは競技を行う警察および国防隊関係者だけです。所持している拳銃を自宅保管することはできませんが、所持しているのは権力側ですから、民間人がどうこうすることはできません。

 ハンティング協会のサイトに依れば空気銃を含む猟銃を所持しているひとは、六万五千人程度と推測されます。警察官が二六万人、国防隊は陸海空合計で二十二万七千人、沿岸警備隊は一万四千五百人。これら全員が武器を使用する職種ではないにしても、国防隊には航空機、戦車、艦船などの強力な兵器があり、とても民間人の持つ銃では戦いになりません。

 国防隊がクーデターを起こして軍事独裁政権を樹立しなくても、警察と国防隊を掌握している政府は容易に独裁政権となり得るのです。そして市民には、抗う術がありません。

 アメリカの銃犯罪による犠牲者は、自由国家を保障するための、そして民主主義を保障するための必要コストと考えられているのかも知れません。

 アメリカでも銃乱射事件が発生するたびに銃規制厳格化の議論が起こりますが、実現されません。何故なら、銃器メーカーのロビー活動や議員への献金もありますが、憲法の理念、自由を守るための犠牲はやむを得ない、と考えられているのではないでしょうか。その犠牲は、どれほどまで許容されるのでしょう?独立戦争で、我に自由を、さもなければ死を与えよ、と演説したひとがいるそうですから、自由は命と同等なのでしょう。

 銃規制反対派の決まり文句は、銃がひとを殺すのではなく、ひとがひとを殺す、です。交通事故を撲滅するためとはいえ、いざという時の救急車を廃止できません。銃は日常生活には不要ですが、外国からの侵略や自国政府が人民を裏切ったときには必要となります。銃は廃止できないのです。少なくても、市民が武器を保有する権利の理念は健全です。

 この国は、チョンマゲの時代から武器を持っていたのは支配階級の武士だけで、農民、職人、商人に帯刀は許されておらず、以来未だに権力側だけが武装している、という民主主義から遠い位置にあります。権力側は知っているのです、武器を持つ民衆の恐さを。農機具の鍬や鎌による百姓一揆を、刀や槍を持つ武士が恐れていたように。

 権力を縛る目的の憲法を権力側が都合の良いように変えようとしたり、戦争する国にしたり、政策の失敗には一切責任を取らず、法をねじ曲げ、虚偽の答弁を垂れ流し、不都合な情報の存在を否定や隠蔽する政府に対して、市民は戦う武器を持ちません。

 唯一投票という手段がありますが、国政選挙において有権者の半数程度はその手段を放棄しています。さらに衆議院は、小選挙制によって政党ごとの得票率と当選数が比例せず、与党に有利になっています。それでも選挙違反はあります。選挙違反をやっても票が足りないときは、一元教会から貰うのです。

 アメリカ社会には人口を超える数の銃があるそうで、仮にどこかの国がアメリカを占領して正規軍が武装を解除されても、ゲリラ戦を戦うことができます。そういう意味でも、民間人の武装は有効です。第三国の侵略に対する脅威と抑止力、戦争をしたがる自国政府に対する脅威と抑止力です。一石二鳥です。

 この国でも市民が武装できれば、これ程まで無様な政府の存在と、無法なアメリカ軍の要求に対する、適切な脅威と抑止力になるでしょう。

 市民にとって守る必要がある国なら守りますが、戦争をしたがる政府が気に入らないとなれば、市民の銃口は自国政府に向きます。民主主義です。民主主義は、市民に取っても為政者にとっても、甘いおとぎ話ではないのです。

 新しい事、ひとと違うこと、現状を変えることを良しとしない日本人のメンタリティーも大きいのですが、そのように愚民化教育してきた国家の勝利でもあります。また、政治に対する失望と諦めから投票しない有権者の罪は深いのですが、そのように仕向けた主権在民党の罪はより深いのです。

 ほとんどの野党に期待できないこと、マスコミが権力を監視しないことの罪も深いのですが、それを許容する市民の罪が一番深いのです。


 テロ、暗殺?

 飛弾野勲は銃殺されました。それを主権在民党議員や信奉者は、テロだ、民主主義に対する挑戦だ、と言いました。まったく逆です。飛弾野勲とその政府の政策で、国民のプラスになる結果が何かひとつでもありましたでしょうか?マイナスになる事は、彼の嘘のために官僚がひとり自殺し、集団的防衛権で憲法を無視して戦争する国にし、原発を再稼働し、一元教会に日本という国を選挙の票で売り渡し、法人税減税のために二度も消費税を増税し、オリンピックの使途不明金、コロナ対策予備費の使途不明金、ばらまき外交、ヒダノマスクという膨大な税金浪費、飲ませ食わせのマスコミ懐柔、国会での虚偽答弁、いくらでもあります。虚偽と欺瞞に満ちた彼こそが、民主主義を破壊した男です。

 テロとは、政治的目的を実現するための暴力です。暗殺とは、政治的動機に基づく要人の殺害です。よって飛弾野勲はテロや暗殺というご大層な死に様には遠く及ばず、加害者の家庭を破壊した反社会的犯罪組織である一元教会の代わりに殺されただけです。選挙の票を見返りに、一元教会の広告塔として布教に協力してきたからです。組織の暴力に対抗した個人の暴力、私怨の復讐の結果に過ぎないのです。自業自得、因果応報、身から出た錆、そのようなものを一ミリも越えません。


 サイコパス

 サイコパス、反社会性パーソナリティー障害の特性として、良心を持たない、他人に冷淡で共感できない、いつでも平然と嘘をつく、自らの行動に対して責任を取らない、罪悪感を持たない、自尊心が過大で利己的、口がよく回って一見魅力的、などがあります。してみれば、精神病質の診断は容易ではないとしても、飛弾野勲にはサイコパスの疑いが充分にあります。

 彼が一市民であればサイコパスによる社会への影響は少なかったのでしょうが、また議員になるような連中は多かれ少なかれサイコパスの才能を持っているものでしょうが、総理大臣でしたから影響は莫大です。

 一方で、刑法三九条、心神喪失者の行為は、罰しない。心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する、との規定があります。心神喪失者の行為は犯罪として成立せず、心神耗弱者の行為は犯罪として成立するが、刑が減じられるのです。

 サイコパスは心神喪失でしょうか、それとも心神耗弱でしょうか。いずれであったにしろ、その疑いが認められた時点で主権者は直ちに彼を免職すべきでした。有罪か無罪かを問題にする前に、犯罪を実行する前に、その萌芽が認められたとき、総理大臣から解職しなければならなかったのです。この様な場合にこそ、政府に対する先制攻撃が市民を救うでしょう。しかし、この国の選挙制度の限界、選挙民の知性の限界がそれを妨げたのです。

 飛弾野勲は多くの犯行の果てに、個人的復讐によって殺されました。被疑者が死亡したとはいえ、飛弾野勲の被害者である日本人の多くは救われません。飛弾野勲は、殺されはしても神蔵雅紀の溜飲を多少は下げただけで、神蔵雅紀の人生がわずかでも救われたわけではないのです。同様に、飛弾野勲の罪には相当の罰を科すべきですが、それだけでは飛弾野勲による日本人の被害は救済されないのです。殺人犯が刑期を満了しても、被害者が生き返らないように。

 ところで、暴力は絶対的な悪でしょうか?自分が溺れて死ぬかも知れないとき、同じように溺れている誰かから力ずくでライフジャケットを奪っても、それは緊急避難として容認されることがあります。ナイフを振り回す通り魔に襲われそうになったとき、身を守るために所持していたバッグを振りますなどして通り魔に怪我をさせても、それは正当防衛として容認されることがあります。この様に条件を満たせば、法的に正当な暴力も存在するのです。

 戦争から身を守るために政府を力によって屈服させることは、容認されるはずです。合衆国憲法修正第二条では、自由国家を国内外の侵略から守るためには銃器を使用する暴力を容認している、と考えられます。

 戦争から自分を守るために、政府が警察を使用しておこなう市民への暴力に対して、市民が暴力で対抗することは、必ずしも不当とは言えないと思います。

 神蔵雅紀よって、飛弾野勲や主権在民党と一元教会との吐き気のする関係が暴かれたことから、神蔵雅紀の銃弾は強者が弱者にふるう暴力とは一線を画すものがあると思います。一元教会は、宗教を隠れ蓑にこの国を侵略していたのです。その侵略に加担していたのが、与党である主権在民党なのです。当選するために一元教会の票を貰い、見返りに教会の広告塔となって布教に協力したのです。一元教会は、信者から強奪とも言える献金というのか、寄付というのか、とにかく家庭が崩壊するほどの金を奪って、国外の本部に送金していたのです。

 この事実が世に知られるきっかけとなったのが、神蔵雅紀の銃弾です。神蔵雅紀の銃弾がなければこの国は、政府、与党によって外国に売られ、操られ続けたのです。

 神蔵雅紀の銃弾は、紛れもない暴力です。同時に、汚れた票を貰うために反日的、反社会的組織と手を組んだ主権在民党の存在自体も、疑う余地のない暴力です。

 他にも飛弾野勲は、花見の会での選挙買収、自殺者を出した小学校用地払い下げ、大学の学部新設関連の便宜供与、オリンピック汚職、国会での虚偽答弁などいくつもの濃厚な疑惑、解明されるべき問題にまみれた、憲政史上最悪の総理大臣でした。

 暴力は絶対悪でしょうか。それは思考停止状態です。暴力に対しては、暴力でしか対応できない場合があります。権利として認められる場合もあるのです。神蔵雅紀の暴力を全面的に容認する者は少数でしょうが、絶対悪とは言いきれない、とする者は一定数存在すると思います。

 司法をもねじ曲げる国家権力に対し、個人が対処できる手法は何があるでしょう?もしこの国に正義というおとぎ話が存在するなら、小学校用地払い下げ疑惑で大蔵省職員が自殺することは無かったはずです。

 飛弾野勲だけではありませんが、歴代の総理大臣によって、主権在民党という党名に、なんとも、お笑いを通り越して哀れを感じます。そして、その党に投票した人間が相当数いるという現実には、絶望を感じます。


 正当性などありません

 こんな政府を作ってこんな国にしたのは日本人、一般市民、有権者ですが、私はこんな国には従えません。そちらがそうなら、こちらにも考えがあります。なにも大きなことをやろうというわけではありません。そんな力はありませんが、ただちょっと、逆らってみます。

 飛弾野勲が法を無視したのですから、私だって挑戦するくらいの資格はあるはずです。国家のレベルに私という個人が降りていきます。合わせてやります。なにも低い方、卑しいものに合わせる必要はない、それは分かりますが。

 娘を殺された事への復讐をします。法治国家では法で禁じられている復讐。法治国家でなければ、かまわないでしょう。

 復讐を禁じる条文はこの国にもあるでしょう。直接的な条文でなくても、殺人、傷害、暴行、いろいろな間接的条文で禁じられています。実行したら刑罰を受けることになります。

 犯罪を実行しながら、刑罰を受けない人間と受ける人間と二種類ある事は、法の下の平等という原則に反し、権力者が刑罰を逃れることは民主主義に反します。残念ながらこの国の現実は、民主主義から逸れています。

 私は現実を無視しません。現実に妥協します。法治国家ではない、民主主義国家ではないという現実に従います。法は単なるガイドライン、従いたい者や無力な者は従えば良い、強い者は従わなくても良い、と飛弾野勲が世に証明しました。

 私には、飛弾野勲のように警察や検察のトップを呼びつけて、見逃せ、という話はできませんし、忖度も期待できませんから、かなりのハンディキャップがあります。ゴルフゲームのようなスコアの補償調整は無いのです。忌々しいのですが、仕方がありません。

 殺すことと殺さないことの違い、死刑と終身刑(日本には無いのですが)の違いを考えてみましょう。死刑廃止論者は理由の一つとして、死刑を執行してしまうと冤罪を回復できないことを挙げます。だから最高刑は終身刑であるべきだと。終身刑という冤罪は、死刑よりましだというのです。私はそうである場合もあり、そうでない場合もあるだろうと思います。

 終身刑(日本にある無期懲役刑としても結構です)の囚人にも死刑の囚人にも、自殺は許されません。冤罪に絶望して死にたい場合は、死刑執行が絶望の中の救いになるかもしれません。自殺の手段を取り上げられた環境において、冤罪で絶望しながら自然に死ぬまで生かされることの方が、死刑執行による死より残酷と感じる冤罪当事者もいるかも知れません。もちろん冤罪でも、死刑だけは免れたい者もいるでしょう。

 再審で無罪になった例があります。してみると、死刑は廃止が妥当でしょうか。

 しかし、被害者や遺族の、真犯人に対する処罰感情にはどう応えるのでしょう。被害者として殺された者に、既に存在しませんが、どう報いるのでしょうか。殺され損で良いのでしょうか。被害者を殺しても加害者が生きていられるなら、殺人が増えるかもしれません。自分の年齢では少年法により死刑が適用されない、とうそぶく少年犯罪者がいるとか。

 死刑は国家による殺人で、刑罰として残虐に過ぎる、ともいいます。その通りですが、犯罪としての殺人はもっと残虐です。罪の無い者への殺人と罪のある者への殺人は、比較検討する余地があるかも知れません。犯罪者の殺人がなければ、国家の殺人もないのです。

 この国では物的証拠よりも自白を重要視し、警察と検察はストーリーを作ってそれに合致するように拷問によって自白させ、被告人に有利な証拠は弁護側に開示されず、不利な証拠は必要とあれば捏造されます。国家権力が探す容疑者に不利な証拠と、弁護士が探す容疑者に有利な証拠は比べようもなく、後者が少ないのです。この様な国では、死刑は廃止すべきとも言えます。この国の司法の限界、この国の法曹界の知性の限界です。

 私は娘を殺したひとたち、あるいは深く関わったひとたちを殺してやりたいのですが、実際に殺したらその事実が少しばかり私の心の負担になるような気がます。そこで、死刑に近い刑罰を与えてやることにしました。私が個人で、あのひとたちを終身刑として死ぬまで数十年の拘束はできませんから、植物状態、生きている死者にしてやろうと思います。本当は、私の心の負担から殺さないというより、より残虐なことを考えているのかも知れません。

 医学用語の植物状態とは、思考や行動をコントロールする大脳が機能しないのですが、呼吸などをコントロールする小脳と脳幹は機能していて、自力で生命維持ができる状態、動物として生きているのです。また、極めてまれに回復することがあるそうです。

 医学用語の脳死とは、脳幹を含む全脳髄が機能を失って回復できない状態、即ちひとの死そのものです。機械を接続して心臓を動かし続けることはできますが、脳が死んでいるので動物として生きていない、まるで植物のように生きている状態です。

 沙弥加を殺したひとたちを、脳死ではなく植物状態にします。私にとって最悪のケースですが、もし回復したら、そのひとにとっては最良のケースですが、それでも脳機能の全てが回復するわけではなくわずかに意識を持つ程度ですから、ある意味では最悪を越えるケースと感じることを期待しています。意識があるのですが寝たきり、いくらか考える事はできるのですが体は全く動かないのです。それなら、私にとっては、それで充分です。目には目、歯には歯に比べれば、命には命ではなく植物状態でから、ずいぶん温情ある復讐といえるでしょう。でも、感謝は求めません。


 植物状態への方法

 植物状態になる原因として、頭部外傷による脳の物理的損傷と、心停止や呼吸停止で大脳への酸素が供給されず脳細胞が死ぬことが挙げられます。

 脳を物理的に損傷させるために頭を鉄パイプなどで殴るのは、強く殴りすぎて死んでしまっては困りますし、弱すぎて脳しんとう程度でも困ります。うまく調整できるとは思えません。第一に、血を見たくありません。壊れた頭蓋骨も見たくありません。鉄パイプを通して頭蓋骨を割る感触が記憶に残りそうで、ぞっとします。いずれにしても、この方法は採用できません。

 大脳への酸素供給を妨げる原因となる、心停止と呼吸停止を合わせて心肺停止といいます。さらにその原因として、心筋梗塞、不整脈という心臓病、または肺梗塞、脳卒中が挙げられます。

 心筋梗塞の原因のほとんどは動脈硬化です。動脈硬化の原因は、いわゆる悪玉コレステロールです。人為的に短期間で心筋梗塞を発症させることはできません。

 不整脈の原因は、心臓の病気、高血圧や甲状腺、肺の病気、降圧薬や抗うつ薬などの薬の副作用、その他として加齢、体質、ストレスなどがあげられます。いずれの原因によっても、人為的に短時間で不整脈を発症させることはできません。抗不整脈薬を飲み過ぎると、脈が遅くなりすぎて不整脈の原因になりますが、抗不整脈薬を入手して飲ませることはできません。

 肺梗塞の原因は、エコノミー症候群や脱水などで下肢や腹部の静脈にできた血栓という血の塊が、肺の動脈に詰まって肺の血流が低下して、呼吸困難になったり死亡することです。血栓も人為的に短期間で作ることはできません。

 脳卒中を引き起こす主な原因は、これも動脈硬化です。ですから、やはり人為的に短期間で動脈を硬化させることはできません。

 どれもこれも不可能です。

 脳への酸素供給を断つだけなら、息を止めれば良いのではないでしょうか。暫くの間、大脳が死ぬまで呼吸できないようにするのです。

 手で口と鼻を塞ぐことはできません。暴れるでしょうし、手を噛まれるでしょう。

 気絶させれば、そのあとで手と口を塞ぐことができるかもしれません。しかし、ひとをそう簡単に気絶させられるものでしょうか。テレビでは、ハンカチにクロロホルムを数滴染み込ませて吸わせると即時に失神する描写がありますが、あれは嘘です。都合良くストーリーを進ませるために必要なのでしょう。私がやろうとしているのは、三文ドラマではなく現実の復習です。綿密な調査が必要です。

 西部劇のように殴って気絶させる芸当も、あり得えません。

 ところで、失神と気絶は違うのでしょうか。恐怖などの精神的ショックでは失神する、殴るなどの物理的ショックでは気絶するイメージがあります。失神も気絶も原因は脳への血流低下による意識喪失です。失神は呼吸が止まらず、気絶は呼吸が止まった状態、という説明もあります。数分以上呼吸が止まったら脳細胞が死に、そして体も死にますから、気絶は命に関わることになります。

 失神は医学用語ですが、気絶は医学用語ではないそうです。失神は数秒から数分で意識が戻る場合で、それより長時間にわたる場合は意識不明や昏睡状態と呼びます。卒倒は脳疾患、心臓発作、酸素不足で意識を失って倒れることで、気絶と失神は必ずしも倒れることはない、という説明もあります。気絶や失神したら倒れると私は思うのですが、ネットの情報ですから質問することはできませんし、今はそこまで必要ありません。

 呼び方はともかく、まずは意識を奪う必要があります。

 意識を奪う手段として、後頭部や顔面を強打して脳しんとうをおこす、脳への血流を遮断して脳を酸欠状態にする、呼吸困難を誘発させ意識を混沌とさせる、のみっつがあります。

 脳しんとうを起こすために殴るのは論外です。ちょうど失神させる強さや殴る位置をうまく調節できませんし、私の力も足りないでしょう。何よりひとを殴るのは嫌です。

 脳への血流を遮断するためには、首を絞めれば血流が低下することは間違いありませんが、死んでしまうかもしれません。首を絞める強さや時間が不足なら、失神しません。失神しないからと徐々に首を絞める力を強くしていって、それを失神するまで継続する、その時間を耐えられそうにありません。当然ながら相手も苦しいので、死にもの狂いで抵抗や反撃してくるはずです。

 呼吸困難の原因には、心不全、肺うっ血、肺がん、有害物質の吸入、気管支喘息、貧血などがありますが、これらも私ではどうにもできません。

 スタンガンでは、気絶させることはできないそうです。電圧は高いのですが、死亡するリスクをほとんど無いまでに、電流を減らしてあるためです。ひとにより数秒程度呆然となる反応を示すことはありますが、多くは痛みに反応して逃げるそうです。

 意識を失わせることができないなら、短時間でも自由を奪う方法はないものでしょうか。

 催涙スプレーが市販されています。これはなんの制限も無く購入できます。携帯している事を警官に見つかった場合は、包丁同様に軽犯罪になる事もあるようですが、ポケットにも入るサイズですから、挙動不審者でもない限り見とがめられることはありません。

 催涙スプレーが顔にかかると目が痛くて開けられず、涙が出続け、喉が痛み、鼻水と咳が出続け、その場でうずくまり、行動できなくなるそうです。防犯目的で使用したときは、その隙に逃走できます。制圧目的で使用したときは、その隙に拘束・逮捕するそうです。なるほど、用途がふたつあるのです。

 ある護身用品販売サイトでは催涙スプレーのテストを公開していて、大の男が数分に亘って行動不能になっています。時間が経てば症状は消失し、後遺症は無いそうです。

 熊よけスプレーなるものがありますが、これは人間には強力過ぎて失明や皮膚のただれを引き起こしますので、そこまでのものは要りません。

 催涙スプレーには、殺虫剤スプレーのように霧状に噴射するタイプと、水鉄砲のように液状に噴射するタイプがあります。霧状タイプは催涙薬剤が広がります。液状タイプは顔を狙ってピンポイントで中なければなりませんが、噴霧タイプより射程距離が長く、薬剤が拡散しないので、自分に降りかかる可能性が減ります。値段は四千円ほどです。

 液状タイプでも、自分を守るために何らかの保護具は必要でしょう。毒ガス用マスクは、個人には購入しにくいものです。酸素ボンベを背負う呼吸具は、スポーツとしての潜水用として入手できますが、重くて持ち歩けません。

 防塵用の高性能マスクがありました。アメリカのN100という規格をクリアした3M社の8233というモデルです。〇・一ミクロン以上の粒子を九九・九九%濾過する性能を持ち、医療従事者が細菌汚染を防止するためや、放射性物質を扱う現場で使用されますが、値段はわずかに四千円程度です。

 これに、飛び散る塵から顔全体を保護する透明シールド面付きのヘルメットを使用すれば、自分への催涙スプレー被害は防止できます。刈払機で草刈りをするときなどに、跳ねた小石などが顔に当たらないように使うもので、ホームセンターで五千円ほどからあります。

 手錠も護身用品専門店にあります。足も拘束するためにふたつ用意します。

 ここまでで、相手の自由を奪うことができます。ここからは、呼吸できないように手で相手の口と鼻を押さえるつもりでしたが、ちょっと野蛮で原始的です。

 窒息と似たようなものに、酸欠があります。マンホールの工事などで酸素欠乏、つまり酸素濃度の少ない空気を吸って倒れたり、死亡することです。呼吸させないために手で口と鼻を押さえるより、酸素濃度の少ない空気を吸わせる方が、脳死状態に持って行きやすい、完全な窒息より酸欠の方が、体を殺さずに脳細胞だけを殺す調整がしやすいように思えます。

 そこで、脳細胞だけを殺すために、酸素濃度の少ない空気を吸わせることにします。

 大気中の酸素濃度は二一%です。

 一八%が安全の限界です。

 一六から一二%になると、頭痛、耳鳴り、悪心、吐き気、集中力、判断力、筋力が低下します。

 一四から九%になると、精神状態不安定、異常な疲労感、酩酊、嘔吐、全身脱力状態となります。

 一〇から六%で、行動の自由を失い、危険を感じても動けず、叫べず、虚脱、幻覚、意識喪失、昏睡、全身痙攣、死の可能性が出てきます。

 六%以下では数回のあえぎ呼吸で昏睡、呼吸停止、心臓停止、六分で死亡します。

 〇%で即死します。

 六%以下で呼吸停止、心臓停止してしまうと、私には蘇生させることが出来ません。そこで私は八%を選択しました。困難はここからです。心臓を殺さずに脳幹を殺さずに、大脳だけを殺したいのです。

 ここで脳細胞と酸素濃度に関する四種類の状態を整理します。ひとつめは酸欠、即ち酸素が一八%から六%までの酸素欠乏状態です。ふたつめは酸欠の一種ですが、酸素〇%で即死する状態。みっつめは呼吸停止の状態。よっつめは心臓停止の状態。

 酸欠は酸素濃度が低下する毎に生体へのダメージ大きくなります。

 そして、酸素〇%では即死、即ちひと呼吸すると死亡します。

 呼吸停止と心臓停止と酸素濃度ゼロの空気、つまり純窒素を呼吸することでは、それぞれ人体の反応は違います。

 自分の意志で呼吸を停止した場合、数十秒からひとによって一分以上我慢できます。呼吸を再開すれば、何の障害も残りません。呼吸を停止しても心臓が動いているので、直ちに脳への酸素供給が途絶えるわけではない、と理解できます。呼吸停止状態でも心臓が動いていれば、血液に残存する酸素が脳に供給され、一〇分で死亡率五〇%というデータがあります。

 心臓が停止すると、血液に残存する酸素が脳に供給されなくなり、わずか三分で死亡率五〇%となります。胸骨圧迫、いわゆる心臓マッサージは心臓が停止しているとき血液に残存している酸素を強制的に脳に送ってやるという意味で、例え胸骨が折れても心臓を押して血液を送り出すことが救命に効果的であることが理解できます。

 呼吸停止なら一〇分、心臓停止なら三分と決めるところですが、呼吸があり心臓も動いている状態で、しかし酸素濃度八%では、どれほどの時間で脳細胞が死ぬのでしょうか。もう少し調べてみると、酸素八パーセントで七から八分程度で死亡、六%では瞬時に昏倒、呼吸停止、死亡とする情報がありました。

 個人差もあり難しいところですが、私は五分と決定しました。妥協点かもしれません。駒場ゆかりの運、そして私の運に任せましょう。私は可能な限り精密に、酸素濃度と呼吸時間を調整します。


 植物状態への手順

 通常の空気の酸素濃度は二一%ですから、酸素濃度八%、窒素濃度九二%の場合は空気ではなく混合ガスです。混合ガスを吸わせる為に必要な器材と手順を考えてみます。

 工場での製品製造や各種工事に必要な部品、工具、材料などを販売している会社があります。ホームセンターには揃えていない、よりプロフェッショナルが必要とする機材、資材が揃えてあり、ネットでカタログを見ることが出来ます。

 実験用途に、スプレー缶に入ったガスがありました。酸素純度九九・九%、窒素に至っては九九・九九%もあります。

 防災用酸素濃度計は五万円以下で買えます。酸素と窒素をミックスして、酸素濃度計で測定しながら酸素濃度を調整します。窒素も酸素も大気の構成成分ですから、毒性を心配する必要は全くありません。

 車のタイヤに空気を入れる電動コンプレッサーは五千円程からあります。最大圧力は一メガパスカル。これで酸素八%、窒素九二%の混合ガスを、圧力容器に充填します。

 ステンレス製の圧力容器は数万円であります。五リットルの容器に一メガパスカルで圧縮充填すると、容器から放出して大気圧では、一〇倍の五〇リットルになります。

 ガスを吸わせるには頭部全体を覆う、気密性のガスの入口と出口のある容器が必要です。ウォーターサーバーなどで使用される、空になったとき潰すことのできる柔らかい透明の容器があります。硬質プラスチックボトルと呼ばれていますが、水が減るごとに大気圧で潰れていく柔らかい性質です。二十リットル入りなら、概略直径三〇センチ、高さ三〇センチですが、空の状態では潰して小さくする事ができます。

 硬質プラボトルの口の部分は硬いので、ここにガスを導入するバルブを取り付けることができます。バルブには予め必要なガス流量をチェックして、開度のマーキングをしておきます。

 硬質プラボトルは、頭が通る大きさにボトルの底部を切って、首が絞まらない程度にゴムで開口部を狭くできるように加工します。

 硬質プラボトルのガス入口から、ガスを充填します。すると、首の周囲がガスの出口となって、入っていた大気が漏れ出て、容器の中の大気がガスに置換されます。置換した後もバルブからガスを導入し続け、首の周囲からガスが外部へ漏れるので、外部からボトル内に大気は逆流しません。

 ボトルの容積は、頭の容積分を差し引いて、半分の一〇リットルとなります。ボトルに毎分一〇リットルでガスを入れてやると、一分で容器の中の大気はガスに置換されます。

 手順は次の通りです。

 8233マスクの上に、自分の顔を見られないように目出し帽と、その上に透明シールド面付きヘルメットを被ります。脳細胞へのダメージが不充分で蘇生する可能性も少々あると想定して、念のために顔を見られてはなりません。

 催涙スプレーで校長を行動不能にしたら、手錠を後ろ手に掛けて、足錠を掛けて自由を奪います。足錠は手錠と同じものを使います。

 催涙スプレーの効果で咳はしても、大声は出せません。

 次に、バルブ付き硬質プラボトルを被せます。

 頭に被せる硬質プラボトル上部のバルブを開き、ガスを毎分一〇リットル流すと、硬質プラボトルの中の空気は一分で酸素八%ガスに置換されます。酸素二一%の大気から一分で酸素八%に低下するので、この間にも酸欠は徐々に進んでいます。

 バルブを毎分一〇リットル開度にして、タイマーをスタートします。一分後にバルブを毎分五リットル開度に、少し閉めます。ガス圧力容器内のガスは、最初の一分で一〇リットル消費され、次の五分で二五リットル消費され、合計で三五リットル消費されます。ガス圧力容器には、圧縮したガス五リットル、大気圧にした場合に五〇リットルのガスが入っていますから、一五リットル余ります。

 実際には、圧力容器のガスが放出され、圧力容器の圧力が低下することに応じて、圧力容器から流出するガス流量は低下するので、一五リットル以上余るでしょう。

 毎分一〇リットルのままで、置換の一分と窒息の五分、合わせて六分間放出すると、、最後の方で圧力が小さくなった分だけ流量が小さくなり、硬質プラボトルに大気が逆流するかも知れませんので、流量を二段階にします。

 ガスを吸わせる合計六分の間、心臓の動きを監視します。パルスオキシメータというものがあります。呼吸器系の病気などを抱えるひとが自宅で、指で動脈血酸素飽和度を測定するもので、脈拍数もわかります。五千円ほどです。

 心臓が停止したら、ガスバルブを閉め、胸骨圧迫を一分間だけやってやります。会社の消防訓練の経験で、一分が私の体力上の限界と知っています。逃走の体力も必要ですから。一分間の胸骨圧迫で心臓の鼓動が戻らなければ、それは彼女の運です。

 心臓が動いている状態で五分間ガスを吸わせたら、直ぐに頭から硬質プラボトルを外して、空気を自由に吸わせます。

 催涙ガス成分は皮膚や衣服に残留するでしょうから、催涙ガスによる呼吸困難と推定されるかもしれません。

 神蔵雅紀のように手製の銃で、反社会的組織と近しい関係にあった元総理の狙撃を見事に成功させたひともいるほどです。私もそこまでは無理でも、酸欠による脳細胞破壊くらいは成功させられるでしょう。


 人質司法

 人質司法という言葉があります。警察や検察が逮捕した容疑者を、自白するまで釈放しないで勾留しておくこと、つまり容疑者を人質として拘束し、自白を強要することを批判的に表現することです。この国の裁判が物的証拠よりも自白を偏重しているから、この様な法の運用をするのでしょう。物的証拠がなくても自白があれば、有罪の充分な根拠として判決されるのです。

 本来は容疑者が警察に逮捕されると、四八時間以内に身柄は検察に送致され、検察官は二四時間以内に釈放するか裁判官に勾留請求を行うことになっています。合計七二時間、この三日の間に容疑者をこれ以上拘束するかどうかを、裁判官が判断することになっています。

 目的は、容疑者の人権を守るためです。まだ容疑者は裁判の結果有罪となったわけではないので、人権上必要以上の拘束をしないため、また違法捜査を回避するためです。

 勾留請求が認められると最長一〇日間拘束されます。複雑な事件などでは更に一〇日間の勾留延長が認められることがあります。検察官はここまでの最大二三日間で、容疑者を起訴して被告人勾留とするか、釈放します。

 検察および警察はなんとしても起訴するために、この二三日間に容疑者を自白させようとします。取り調べでは、大声による威嚇、机を叩く、眠らせない長時間の尋問、水を飲ませない、トイレに行かせないなどがあり、昭和という時代には直接的暴力も行われたそうです。

 この頃、取り調べ時間は一日あたり八時間という制限ができました。しかし取り調べの可視化のために録音・録画されるケースは全体の三%程度とのことです。

 ちなみに容疑者として勾留して一旦起訴すれば、今度は被告人として拘留します。理由は容疑者としての拘留で挙げられている証拠の隠滅、逃亡の防止の他に、被告人として裁判に出廷しないことを回避する、被害者側証人に対して自分に不利な証言をしないように脅しをさせない事、とされています。被告人の勾留には期限がありません。最初に二ヶ月、次に一ヶ月ずつ、回数には制限がないのです。但し被告人になると、保釈金に加えて条件が揃えば保釈される可能性もあります。

 今でも警察と検察は相変わらず冤罪を創造し、裁判所はそれを支持しています。つまり、裁判官は冤罪を見抜けないのです。

 厚生省課長関愛子に対して検察官が証拠を改ざんして起訴し、関は無罪になった事件がありました。事件を担当した検事は証拠隠滅の容疑で、また証拠改ざんを知りながら隠した上司二人は犯人蔵匿の容疑で、合計検事三人が逮捕される事件に発展しました。

 この事件では容疑者の関は自白をしなかったそうですが、警察と検察はストーリーを作って、それに合わせて証拠を作って、犯人を作り上げたのです。自身や組織の成績のためなのでしょうか。

 証拠隠滅の可能性を排除するために容疑者を拘束する検察が、証拠を改ざん・偽造したのです。裁判が終わるまでは、容疑者だけではなく、検事も拘束する必要があるようです。

 担当検事は有罪が確定して法曹資格を剥奪されましたが、刑期満了後一〇年間罰金以上の刑に処せられなければ、法曹資格は回復するルールになっています。現実的にはもう検事には任官できないでしょうし、弁護士会にも登録を拒否されれば弁護士としても活動できないのですが、それでも法の番人に対しては甘い法律という印象を持ちます。日本人のメンタリティーとしては、法に携わる者には一段と厳しくあることが求められるのではないでしょうか。

 とにかく警察と検察は、どんな汚い手を使ってでも犯人を作り上げます。

 しかし私には、娘に代わっての復讐、娘を殺された私の復讐というふたつの強いモチベーションがありますから、自白はしません。沙弥加を殺された事に対する怒りと絶望が、そのモチベーションを補完します。決定的な物的証拠を残さないことが、私の戦いです。

 冤罪で死刑を執行されたひともいるかもしれません。一方で巨悪は見逃されています。飛弾野勲のいくつもの容疑は見逃されています。現総理は、飛弾野勲は死亡したから調査できないと言っています。そして私がこれから犯すであろう事は、巨悪にはほど遠い、つい魔が差した、取るに足らない、ほんの些事です。

 ところで、検察は証拠を改ざんするくらいですから、自白内容を記述した供述調書を捏造するのも同じことではないでしょうか。何故調書を捏造せずに、自白に拘るのでしょう?

 警察や検察が容疑者から自白を引き出して書く供述調書は、取り調べ段階でその調書を認めてしまうと、裁判では否定してもそれが通らない非常に有力な証拠となります。

 取り調べ時の記憶違いや勘違いを裁判で訂正しようとしても、認められません。裁判のおかしな慣習です。弁護士の立ち合いが許されない取り調べで、警察・検察の威圧や謀略に抵抗してどれだけ正確な調書が作成できるものか、大いに疑問です。

 言葉の意味や印象、受け取り方についても、警察や検察と容疑者で相違があることもあるでしょうが、裁判において、そういう認識ではない、そういう意味ではない、という主張は認められません。

 裁判で否認すれば良いから、ここではとにかくこの調書に署名しろ、ということがあるとすれば、それは警察や検察の極めて悪質な謀略です。証拠を作り上げるくらいですから、あり得ます。あえて曖昧に書いて、細かいことは裁判で言えば良い、程度の事はいくらでもありそうです。

 理由は分かりませんが、日本の裁判では供述調書の証拠能力を異常に高く評価します。ですから尚のこと、警察や検察は拷問のような取り調べをスキップして、供述調書を捏造して手間を省くことがありがちに思えます。取り調べには弁護士の立ち合いが許されないのですから、やりたい放題でしょう。彼らの中にもひとによっては、ギリギリの良心のかけらのようなものがあるのでしょうか?

 仮に私が逮捕された場合には、事件との関わりについては一切黙秘するつもりです。それだけの強い意志を持っています。有り余るほどの怒りがありますから、黙秘が難しいとは思いません。最悪の結果として有罪になっても、犯罪を実行しているわけですから、ダメ元です。そう思えば、むしろ気楽なものです。

 沙弥加をいじめた六人の生徒、担任、校長、教育委員会の構成メンバー、第三者委員会の構成メンバー、さらには、いじめた加害生徒を通学させるためにいじめられた被害生徒が登校できない状況、やむなく転校する、挙げ句の果てに自殺に追い込まれるというこの社会、つまりはこの国、政府、国会議員などへのどうやっても抑えきれない怒りと絶望が、取調室での私をサポートしてくれるでしょう。

 これが最後ではなく、最初なのです。私の復讐は続きます。そうです、六人の悪ふざけの度が過ぎた生徒にも、同じように悪ふざけで対抗してやらなければなりません。彼らを、復讐の未来が手ぐすねを引いて、待っているのです。始めたばかりで、挫折するわけには行きません。これも、警察や検察と対決する私のモチベーションになってくれるでしょう。

 まずは防犯カメラ対策として、変装します。似ていても、明らかに私であると分からなければ充分です。顔認証技術を調べてみると、2Dと3Dという二種類があります。

 2Dは、目、鼻、口などの位置を認識する方式です。照明や髪型、化粧で精度が低下します。3Dは赤外線を使用して顔を立体的に計測、認識する方式で、髪型や化粧ではごまかせません。しかしこれは顔認証の技術であり、3Dデータを記録する防犯カメラが、どこにでもあるわけではありません。要するに、顔認証技術を使用しても一般的な防犯カメラのデータでは、髪型や化粧でごまかせるのです。

 数年前に始まった感染症騒ぎで、マスクで顔を隠すことはむしろ自然です。帽子やサングラス、ウィッグもあります。女性に化ける手もあります。女装している男とばれても、派手な化粧は不自然ではなく、また女装という印象を残せばむしろプラスです。ウィッグ、化粧、女装、マスク、サングラス、これで第三者の目や防犯カメラをごまかせるでしょう。

 もちろん指紋対策として、ゴム手袋をします。

 引き抜いた髪に付着している毛球(皮膚の内側の毛根、毛乳頭、毛母基、毛細血管)からはDNA鑑定によって容易に個人識別できますが、毛球の付いていない毛髪(皮膚から外側の部分)ではDNAを検出して個人を特定するのは必ずしも容易ではありません。

 毛髪や体毛を現場に落とさないように、剃っておきます。

 取り調べ段階の調書でも公判でも、公訴事実を否定します。さてどの様な裁判になり、判決になるのでしょう。


 リハーサル

 リハーサルを二回行いました。

 化粧は相当濃くして、素顔を分からなくします。youTubeで化粧の仕方を勉強しました。

 8233マスク、目出し帽、透明シールド面付きヘルメット、催涙ガス、頭に被せるバルブ付き硬質プラスチックボトル、酸素八%ガス容器、手錠二個、タイマー、変装用品、変装と言うより男に戻る服装ですが、これらをひとつのリュックに入れて、女装して外を歩きます。

 自宅に戻って、ゴム手袋をはめて、8233マスク、目出し帽、ヘルメットを素早く被ります。実際には、駒場ゆかりのドアを開けさせる直前にやることです。

 ドアを開けて予め用意しておいた標的の人形に、催涙ガスの代わりに液体を飛ばす洗剤を吹き付けます。スプレーは広がるので、標的の狙いがいい加減になりますから、液状に飛ぶようにノズルをセットして、椅子に固定した人形の頭を的にして噴射します。

 実際の催涙スプレーは、山林で噴射テストを行いました。持ち方、重さ、噴射させるために必要な指の力、液体の飛び具合、狙いの付け方を習得しました。

 標的人形を置いた椅子の後ろに回って、手錠を掛ける動作をします。

 手首を傷つけないように、手錠には包帯のようなものでも巻こうかと思いましたが、そうすると手錠を徐々に締めていって最後に外れて一回転して、また締まる機能を使用できなくなるので止めました。警察は手首の傷を見つけるでしょうが、やむを得ません。手錠を外しておいて、手首に回して掛ける方法もありますが、手錠のひとつの便利な機能が制限されますので、その点での安全確実性を選びます。

 手錠を掛けたら、次に足錠を掛けます。

 人形の頭に、硬質プラスチックボトルを被せる動作をします。この点はなかなかシミュレーションとまでは行きません。暴れるでしょうし、実際には手こずるかもしれません。それでも、手順の確認にはなります。首の部分が軽く締まっていることを確認します。

 頭に被せた硬質プラボトルに、ガス圧力容器を接続します。直ぐにバルブを毎分一〇リットルで開けます。リハーサル時のガス容器の中身は空気です。

 タイマーをスタートします。

 呼吸しているかどうか、仰向けにした人形の胸の高さに視線を下げて、胸の上下動を確認します。

 脈があるか、つまり心臓が動いているかを確認する為に、パルスオキシメータを人形の手にセットします。

 一分後に、ガスバルブを毎分五リットルに絞ります。

 五分後に、バルブを閉めて、硬質プラボトルの底部を緩めて頭からボトルを外します。

 途中で心臓が停止したら一分だけ、一〇〇回だけ胸骨圧迫をやります。蘇生しなければどうしようもありません。放置します。

 全ての器材をリュックに入れて、再びウィッグを被って逃走します。

 マンションを出てできるだけ早く、しかも人目に付かないところでウィッグを外し、代わりに帽子を被り、化粧を落とし、女物の服の上に男物のジャンパーを羽織ります。

 これを二回やりました。動作の流れがスムーズになりました。いきなりひとを相手に本番となるより、相当良い結果を生むでしょう。


 最大の後悔

 今のところ全てがうまく行っています。

 実行の翌日、駒場ゆかりは意識不明であると報道されました。体は生き残ってくれたのです。これからもできるだけ生き続けて欲しいと思います。しかし、意識は戻らないはずです。少なくとも大脳細胞の多くは死滅しているので、かすかな意識が戻っても植物状態です。奇蹟はそう安易に期待できるものではありません。

 警察の事情聴取は受けました。警察は少々の疑いは抱いていたでしょうが、私はいじめで娘を失った悲劇の父、ある意味被害者であるため、向こうも人権という単語を知っていたようで、まぁ、紳士的なものでした。なにせ、物的証拠がないのです。決して自白するつもりはありません。

 アリバイはありません。無理してアリバイを作る必要は無いでしょう。誰でも、その日、その時間、どこで、何をしていた、を証明できないことは珍しくないでしょう。小細工はしない方が良いと思いました。

 取材も受けました。テレビも、少々の疑いを持っていたかも知れません。取材でいけしゃあしゃあとインタビューに答えて、後日容疑者として逮捕されたという例もいくつかあります。視聴率や部数のためなら母親でも売るような連中ですから、その為の映像や写真を撮りたかったのかも知れません。しかし私は言葉少なに、訊かれたことに答えるに止めました。

 復讐を決意してから目立った言動を避けてきました。

 実行の一ヶ月前にパソコンの全てのデータを外付けHDDにバックアップし、パソコンのSSDをフォーマットし、不自然では無い程度にHDDからデータをパソコンに戻し、そのHDDを廃棄しました。以来パソコンは、実行に関係するような使い方をしていません。ブラウザの検索履歴は残さない設定にしました。

 携帯も同様に、電話帳、ライン、メールなどを一旦削除して、不自然でないように一部復旧して、そのあとは実行に関係するような使い方をしていません。

 実行時は携帯を家に置きました。携帯と基地局の通信で、移動経路を辿られるかも知れないからです。

 実行に必要な器材は、全て販売店に出向いて現金購入しました。クレジットカード使用履歴とネットでの購入履歴を残さないためです。

 警察だからといって、何でもお見通しの千里眼ではありません。現行犯でない限りは、怪しそうなひとを探して、事情聴取して、自白させるのが関の山です。

 殺人事件の逮捕率は九〇%程度という説がありますが、どうでしょう?死体が無ければ、殺人事件として捜査されません。死体があっても当局が殺人と認定しなければ、捜査されません。自首すれば、捜査しなくても逮捕できます。あからさまな証拠があれば、捜査がずさんでも逮捕できます。捜査側が逮捕率九〇%と言っても実際は五〇%、それ以下かも知れません。

 殺人と認定された中で、自首したケース、通り魔のように多くの目撃者がいたケース、現行犯逮捕されたケースで逮捕率は稼げるでしょうが、自殺や行方不明の中にどれほど殺人が埋もれているかは、捜査しないので警察も把握のしようがありません。積極的に巧妙に隠蔽したケースの逮捕率はどれほどでしょうか?指名手配という、逃走で逮捕を免れているケースもあります。

 実行前は、事情聴取に対しては黙秘を予定していましたが、事情聴取で実際に警察と対面してみて、答えられることには答え、答えたくないことには答えないことにしました。分からない、覚えていない、知らない、です。

 その日、その時間は、よく覚えていないが、ファストフードと本屋に行った、と答えました。それを証明してくれる第三者はいません。例えば実行の時間に本屋で作家のサイン会があったとしても、そうですか、気付きませんでした、覚えていません、で通すつもりでした。

 実行に使用した器材は、山に行って捨てました。衣類、プラスチック、金属、全てが毎日回収されるわけではありませんから、マンションのゴミ集積場に置いたままでは危険です。山梨県の山へ行って、簡単に埋めました。そう深くする必要は無いでしょう。動物が掘り返すことはありませんから。

 Nシステムというものがあります。自動車ナンバー自動読み取り装置、運転者の顔も撮影可能だそうです。システムの設置場所は公開されていて、人口密度の高い都市部に集中しています。Nシステムで途中までは足取りをつかまれても、最終的にどこへ行ったかは分かりません。富士山を見に行ったとでも言えば良いのです。現地で土産を買って、行ったという証拠を作る様なわざとらしいことはやっていません。

 これから、沙弥加を直接いじめて死に追い込んだ六人を、どの様に処理するかを考えます。

 最近、有用なネット情報を見つけました。非合法な物を手に入れたり、非合法な行動を依頼する事ができるかもしれない、ダークウェブというものです。誰がアクセスしているのかをたどられないように、特別なブラウザを使います。もちろん非合法な内容ですから、金だけ取って物を送ってこない、行動を実行しない、などの詐欺サイトも多いようです。しかし私には、いつまでに実行しなければならないという時間の制限はありませんので、ダークウェブの利用もオプションのひとつとして、じっくりと六人の処理方法を研究します。

 受けた苦痛に対して、寛容に許しを与えることによって自らが救われる人間もいるでしょうし、私のように復習をすることでしか生きられない人間もいるでしょう。この多様性が、動物に与えられた固体の生存と種の保存の力なのだろうと思っていました。しかし今となっては、劣悪な政府や遺伝子の多様性を理由に私の行動を正当化する必要は無く、シンプルに私にはこの生き方しかできなかった、と気づきました。

 後悔はありません。むしろ、達成感があります。やらなかったことの後悔を、人生でひとつの、そして最大の後悔を減らすことができました。私は今、成功による脳内麻薬に酔っているのかも知れません。

(おわり)


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