55話 ノアの元へ
「それじゃ命をかけてもらう前に、もっと大事な事を済ませましょう。ノアちゃんの所に帰る。」
気まずそうにレヴィは頷く。
「合わせる顔がないけどな……なあ、セレネ。何そのポーズ。」
セレネは拳を前に構えていた。
「腹パンのポーズ。」
「……なんで腹パン?」
「レヴィ君が逃げたら、こう、しゅっと。」
拳を切る風の音が、レヴィの耳を叩いた。
(逃げねえよ。逃げねえけど……まじで、どの面下げて帰ればいいんだよ。)
セレネはシルフィリアを使役する。
なら、距離はあってないようなものだった。
小さな丘の上に、風に揺れる洗濯物と、日に焼けた屋根が見えた。
「きちまった……」
「そりゃ来るでしょ。」
「いや、そりゃそうだなんだけど。」
「さあ、ちゃっちゃと歩く。土下座でもなんでもして、今は会わないとね。」
セレネと目が合うと、彼女はにっこり笑っていた。圧がすごい。
レヴィはうじうじと考えていた。
孤児院の未来は、守られたはずだった。
レヴィはその上で、ノアを傷つけ、その未来を奪い、のうのうと生き残り──
孤児院の姿は変わらない。
門をくぐると、庭の花壇でしゃがみ込んでいた子供が、こちらを振り返る。
「……え、うそ……レヴィ兄ちゃん!?」
レヴィは手を挙げて応える。
少女の叫びと同時に、他の子供たちがわらわらと駆け寄ってくる。
気づけば、あの古びた木の扉の奥から、懐かしい声が聞こえた。
「レヴィ……!生きてたのね!」
「シスター……元気そうで。」
「元気そうに見える?」
「いえ……見えてないっす。」
痩せてしまった、孤児院の主。杖をついて、子供たちに支えられていた。
皺の増えた顔。けれどその瞳は変わらない。
次の瞬間には、レヴィの腕に、誰かの腕が回っていた。
笑いながら。懐かしい匂いと温もりが、剣の冷たさを包み込む。
レヴィは目を伏せた。
多くを壊してしまった。
本当に馬鹿なことをした。
血と呪いに塗れた、間違いを犯した。
――けれど、ここにだけは。帰ってもいいのだろうか。
「おかえり」
シスターからのその言葉を聞いた時、レヴィの目から涙が落ちた。
「……ただいま」
シスターはお茶を入れた。
「聞かせて。レヴィ。何があったのか。」
「詳しい事はノアと会ってからでいいか?長くなるんだ」
「もちろんよ。」
「ノアの学校は?」
「暖かくなったら王都へ行くわ。間に合ってよかった。今は買い出しに出てる。」
「おねーちゃんすごーい!!手が見えない!!」
セレネはリンゴを切るついでに、包丁でウサギを作る技を見せていた。
空中に放り投げて。
ダースで。
「んじゃ次はゴブリンね。」
歓声が絶えない。
陽が傾きかけた頃、孤児院の門が軋んだ。
「ただいま戻りました、シスター。……あれ? なんだか騒がしい?」
シスターはにこやかに笑い――それから、ひとこと言った。
「……生きてたんだって。」
その瞬間、ノアの目が見開かれた。
ノアの胸の奥がぎゅうっと音を立てて、冷たくなった。
走る。
荷を捨て、扉を蹴るようにして中へ。
そこにいたのは――土下座をした誰かだ。
すでにレヴィは土下座の姿勢だった。
見せる顔がない。
ならせめて、頭をさげるしかない。
見違えるほど大人びた背中、そして背に負った異形の剣。
「……まさか……」
「……」
レヴィは答えなかった。
そして胸倉をつかまれ、ひきずり起こされていた。
そして間髪入れず、ノアからグーパンを食らった。
レヴィはあおむけに倒れる。
何度も、ノアはレヴィの体をたたいた。
ノアは泣いていた。
「バカ……!」
ドン。
「死んだと思ったのに!」
ドン!
「どうして、生きてたなら、黙ってたのよ……!」
ドンッ、ドンッ、ドンッ!
拳は細くて、痛みなんて感じないのに――何より痛かった。
「ごめん……」
「言うな! ごめんなんて……言うな……!そんな言葉で、すむわけが……!!」
涙と怒りが入り混じった顔で、ノアは睨んだ。
けれどその手は、もう殴っていなかった。胸の布を握りしめ、身体を預けるように。
「……どれだけ、どれだけ、私が……!!!!」
周囲の子どもたちがぽかんと立ちすくみ、誰も声をかけられない。
ノアのあまりにも激しい感情の奔流に、息を呑んでいた。
ノアは泣いた。
マジで泣いた。
引くくらい泣いた。
──翌朝
朝靄が、静かに世界を包んでいた。
孤児院の庭に、鳥の鳴き声が響く。
セレネは言った。
「じゃあ、本題に入るから。これからについて話そうか。」




