序章 蛇足
レヴィの悲しみは、焦がれと揺めきに変わっていた。
レヴィの悲しみが深まれば深まるほど、パイオツはレヴィの胸をついた。
それは、ただの揺めきであり、しかも幻覚の、つまり実在しない2つの揺めき。
パイオツは、だが確かに変わらぬ姿で揺らめく。
ただ、それだけだった。
(だけど。)
本当に、たったそれだけの事。
本当にそれは、たったそれだけの事に過ぎなかった。
レヴィに対して、何かするわけでもない。
幻影の中で、ただただそれは、揺れているだけ。
でもそこにある焦がれは、確かにレヴィを前に急き立てる。
今なお追い求める。
そこにしか答えはないから。
両親を失って、世界が崩れるような喪失の中でも。
その救いが、自分の未来を切り裂く悲劇へと導いたとしても。
そして生きる上で、それらの行為は一切必要ないとしても。
今まさに、呪いの奔流が、自分の全てを刈り取ろうとしていても、なお。
変わらぬ美しさだけを、レヴィの目に突きつけ続ける。痛いくらいの熱とともに。
胸を。
それが、レヴィが見つけた絶望の中の真実。
それが、パイオツ。
葉の隙間から差し込む、わずかな光。
青い。
こんなにも、青かっただろうか。
(空が、見える……。)
レヴィは立ち止まり、
深く息を吸った。
風が通り抜け、木々のざわめきが、まるで歌のように聴こえてくる。
ひどく当たり前の事をわすれていた。
いつも下を向いていた。
血濡れた地面。
倒れた魔物。
そして、自分の足跡だけを追い続けていた。
失ったものを求めて。
あるいは、失ったものを埋められる何かを求めて。
ずっと。
本当にずっと。
(――呪いの剣がなければ、空が見える。)
レヴィは気づいた。
この剣を握ってから、空を、見上げたことなど、なかった。
「……空、見えるんだな」
剣は、静かに脈動した。
まるで、抗うように。
空は遠ざかり、
闇と幻覚が戻る。
空を見ることが好きだった。
――そういえば。
(俺、よく小さな丘の上で、ただ寝転がって空を見ていたんだ。)
意味もなく、ただそれだけで――
満たされていた。
雲が――パイオツの形に見えた。
雲は雲だ。だけど意味は、自分が与えた。
それは、丸く、ふくらみ、やわらかそうに浮かぶ。
それは、双丘の乳房。空に揺れる神の造形。
(そうか……パイオツはそこにあるのか。幻覚を見なくても。)
幻覚は、現実を再構成したものだ。
現実にあるから、パイオツは幻覚の中にもあるのだ。
幻覚の中にしかパイオツがないと思う方がおかしい。
そりゃそうだ。
そしてレヴィは、ふと思った。
「……そうか。両親が、死んだのか」
それは失えば、もう二度と戻らない。
空いた心の喪失が埋まる事もない。
埋められるものもない。
ぽつりと落ちたその言葉は、
あまりに自然で、
だからこそ、レヴィがそれまでに一度も、心から言えなかった真実だった。
わかっていたはずだった。
森が村を覆いはじめ、魔物の群れに追われ、そして自分を守るために、両親はその群れに飲み込まれた。
でも、はっきりとわかった。
――もう、いないんだ。
(こんな事にも気づいていなかった。)
喉がつまり、胸の奥が、ぐっと締め付けられた。
「……ごめん」
誰に向けたのかもわからぬ言葉が、風に消えた。
「それでも、それでも俺は乳を追うだろう。」
レヴィは、静かな森の中で呟いた。
その声は震え、切実で、まるで自分自身に言い聞かせるようだった。
「――あの、果てしのない、2つの膨らみを。」
剣を振るうたびに脳裏に炸裂した、凶暴で甘美な幻覚がレヴィを支えていたのも、また事実なのだから。




