44話 狼
川のせせらぎが、静かに耳をくすぐった。
頬を撫でる風は冷たく、湿った土の匂いが鼻をついた。
レヴィの視界には、青空と木々の緑、それから流れる川の輝きが広がっていた。
呼吸音も響く。息はできている。
頭が痛い。
(流されてきたのか……よく生きてたな。)
「……ここは、どこだ?……いっ……」
立ち上がろうとして、レヴィは全身のだるさと痛みに顔をしかめた。
動けない、というか動かない。
痛みが引き金となり、朧げながら思い出してくる。曖昧だった記憶が鮮明となり、なぜここにいるのか、自分が誰なのか、霧が晴れたようにはっきりしてくる。
(ごめんなノア……ごめん)
全てを終えてしまっていた。
ノアは死に、レヴィは生き残った。
呪いの剣に誘われるようにレヴィは破滅への道をひた歩いた。
レヴィは泣いていた。
弱くて、愚かで、壊れて、自分を罰しようと崖から身を投げて、それでも、生きているから。
生き汚く、生き残っているから。
贖罪に殉じて、詫びなければならないはずなのに。
(死ねよ、ちゃんと。)
それすらできないのか
呪いの剣の運命は、ノアのところに行くことすら、許さないというのか。
その時、草むらがわずかに揺れた。
風の音にまぎれて、低く喉を鳴らすような呼吸。そして姿を現したのは一匹の狼。
痩せていた。
目の奥に強い獣の光。
それも、強い飢えが宿っている。
息は荒い。
レヴィは顔を上げた。
ただその姿を見つめた。
「……そうか。終わりか。」
自分にふさわしい末路だと思った。
狼はじっと、レヴィを見下ろしていた。
狼は一つ低く唸り、鼻先で少年の傷を嗅ぐ。
ぬるりとした感触が、頬を伝った。
その仕草には優しさが、その目には、なぜか哀しみのような色があった。
――牙が来ない。
(なぜ、殺さない……?)
「……なん、で……」
声は震えていた。
生きている事。死ななかった事。狼の慰め。
みっともない自分。
脳裏に浮かぶノアの姿。
全てがぐちゃぐちゃになっていた。
狼は静かに寄り添う。
肯定も否定もしない。
レヴィが動けずにいるあいだ、狼は何度も森へと足を運び、口にくわえては、小さな果実や、噛みちぎられた肉片を運んできた。
ときには川に前脚を突っ込み、魚を取ろうとして水飛沫を浴びることもあった。
レヴィは、ただそれを見ていた。
言葉も返せず、体も動かせず。
そしてレヴィが泣くと、狼は涙を舌で拭った。
レヴィの足は、まだ不安定だった。
それでも、確かに動いた。
動けるなら、歩かなければならない。
(何処へ?)
川辺の冷たい風が頬を撫でる。
傷はまだ深く、肉が引き裂かれた痛みが体中に響いていた。
普通ならもう動けるはずがない傷だった。
そしてレヴィはまるで奇跡のように、その一歩一歩を踏みしめた。
ある夜、満天の星空の下で、ぽつりと呟いた。
「……ありがとう。」
そのレヴィの言葉に、狼は何も言わなかった。
ただ、静かに尻尾を揺らし、鼻を鳴らした。




