43話 白鳥の詩
血が、止まらなかった。
ノアは震える手で、レヴィの腕を握り締めた。
ノアの声はか細く、それでも決して諦めなかった。
「良かった。レヴィ、戻れたんだ……言ったでしょ……私がレヴィを幻覚から目を覚まさせるって。ふふん、どうよ……」
「ああ、すげえよ。いつもすげえよ。ノアは。」
「でしょ……」
ノアはゆっくりと、レヴィの顔を見つめた。
(私は知ってる。いつも見てきた。君はいつだって立ち上がってきた。どんな時も。どんな理不尽な状況に直面しても)
だからこんな事で、君は絶望に呑まれりなんかしない。
どんなに闇が深くても、きっと君は、そこから踏み出すんだ。
ノアは涙をこぼしながら、レヴィの頬にそっと手を触れた。
「あなたは、一人じゃない。私がいる。ずっと一緒だよ。」
その言葉は、風に乗って、呪いの闇を切り裂くかのように、レヴィの魂に触れた――
ノアは、レヴィの顔を見つめる。
ずっと変わらないその顔と、黒い血と瘴気にまみれてもわかる、優しい瞳を。
「レヴィ」
ノアの声は震えていた。
やがて手から力が消えた。
レヴィの目に、倒れ伏すノアの姿が映る。
血の匂いがまだ空気に漂い、揺れる森の影が彼女の体を包む。
ノアは動かない。死んだ。
守りたかった。
だが、守れなかった。
崖の縁で、レヴィは風に髪を揺らしながら、静かに目を閉じた。
ノアの血の匂い、倒れ伏した姿、呪いに蝕まれた森の記憶──すべてが胸に押し寄せていた。
ノアを傷つけ、守れなかった罪。呪い。己。
一歩踏み出せば、等しくすべてを終わらせられる。
レヴィは剣を見下ろした。その奥に見える崖を。
「……全てを、終わらせよう。」
胸の奥で長く絡まり続けていた鎖が、ぷつり、と切れる音がした。
──もう守るべきものは、いない。
──なら、それでいい。
真実は抱けた。ノアの犠牲で。
崖の闇に向けて、一歩、足を踏み出そうとしたその瞬間──
「……投降しろ、レヴィ」
ゼルディスは諦観をもってそれを言った
「レヴィ。まだ戻れる。早まるな。俺の手を取れレヴィ。俺の手を取った後で、自分を罰するでも、なんでもすればいい。」
「……ゼルディス。俺は戻れない。戻れないんだ。」
掻き消されるようなレヴィの声に、ゼルディスの瞳が一瞬揺れた。
「ノアを……殺してしまったんだ。俺が……ノアを守りたかった。俺は、ノアと共に歩みたかった。ノアの未来をただ、見届けたかったんだ。」
レヴィは、地に伏すノアを見る。
失ってもなお、これほどに愛おしいと思うその姿を。
(守りたいと同じくらい抱きしめたかった。命の続く限り、祈るように、最後まで。)
この願いにも似た愛しさを、伝えたかった。
不器用にしか最後だと伝えられなくても。
(俺は馬鹿だ。ただ、伝えれば良かったんだ。おまえといれてよかったって。ずっと愛していたって。)
いつだって遠回りする。
終わってから気づくんだ。
こうすれば良かったんだって。
手の震えは止まっていた。
崖からの風がうるさい。
ゼルディスはそれでもレヴィに手を伸ばしていた。
レヴィは静かに思った。
(終わったんだな……終わらせたのか。俺が。)
どこかで自分のことを、冷酷に選択に従う、感情の薄い、何も持たない人間だと思っていた。
それは違った。
誰よりも終わりが怖かった。
終わってもなお、そこにはかつてと変わらぬ想いがあった。
真剣に人を愛し、こんなにも切ないほどに守りたいと願った。そして。
レヴィは今、息もできないほど絶望していた。
――感情は、確かにあったんだ。
――身を切るほどに強く、呪いのように激しく、裂かれるくらいに焼きつくように。
「……俺にそんなものがあったってことだけは、教えてくれたな。呪いの剣。そりゃそうだ。何もないわけないよな。」
ノアは大事だもんな。
レヴィは小さく、微笑んだ。
それが、レヴィが崖に踏み出す直前、心に灯した最後の想い。
怒りでも憎しみでもない、わずかな感謝。
躊躇う理由はすでになかった。
「レヴィ。待て――」
ゼルディスは崖に踏み出したレヴィの姿を追うも、
遥か眼下の激流に消えて、すでにその姿はなかった。
崖の向こうには、ただ風と光だけがあった。
誰の声も、もう届かない。
レヴィは目を閉じる。
胸の奥に、ノアの笑顔が一瞬だけ浮かぶ。
――ごめん。
小さく呟いた言葉が、風に千切れて消えた。
落下する感覚は、まるで世界から解き放たれるようだった。いや、そんなことはないか。
呪いも、剣も、すべてが遠ざかっていく。




