15話 風の大精霊シルフィリア
レヴィの幻覚に映しだされた殺意が、敵性存在の場所を伝えている。
木々の奥で、何かがこちらを見ている。
獣の目の光。複数。
二足歩行の影。複数。
呪いの剣が唸る。
あれは、ゴブリンではないな……でかい。オーガか。とりまきのゴブリンや獣の魔物も多い。
油断すれば死ぬな。
一匹でも逃せば、ノアや子供達をひと噛みで、内臓を喰い破る。
そして――奴は咆哮する。
「……■■■■」
大きい。だが慣れた咆哮だ。
幻覚に浮かされているのか、明らかに様子もおかしい。
レヴィの指が、呪いの剣の柄を握る。
視界の隅、木の陰に別の影。
複数の魔物。完全に包囲されている。
「うるせえんだよ。ギャーギャー言いやがって。ノアを泣かせたままで、俺が寝られるか」
剣を抜く。
風が、レヴィの髪を揺らす。
森が、どれほど危険でも――
レヴィの中の“怒り”は、それ以上に熱かった。
レヴィは、血に濡れた剣を引きずりながら戻ってきた。
「……ノア。……子供たちは?」
かすれた声。
彼の目は深い闇に沈み、微かに赤い光が瞬く。
「無事よ……! みんな、ちゃんと守った!」
ノアは必死に声を張る。
子供たちは結界の中で蹲り、涙と嗚咽でぐしゃぐしゃになっている。
でも、誰も欠けていない。
「よかった……それなら……」
少年はふらりとよろめき、地面に片膝をつく。
剣の先端が土に刺さり、じわりと黒い靄が広がった。
「レヴィ……お願い……! 頑張って……!」
ノアは駆け寄り、少年の顔を両手で支える。
その手は震え、青ざめていた。
「大丈夫……っ、絶対に戻れる! だから……っ、帰ってきて!」
ノアは叫ぶ。
小さな体に残る魔力を絞り、治癒の光を少年に注ぎ込む。
「……ああ……ああ……」
少年は呻き、剣を強く握りしめた。
黒い靄が微かに収まり、赤い光が薄れていく。
「ノア……お前が……いるなら……」
少年は弱く笑った。
「……うん。行こう。森を抜けて、みんなで……生きるんだ」
ノアの声が震える。
レヴィは頷き、剣を支えに立ち上がった。
その背はまだ重く、影をまとっている。
子供たちは、結界の中で膝を抱えていた。
泣くことすら、もう声にならない。
森の幻覚は、無垢な心に容赦なく襲いかかってくる。
ありもしない両親の呼ぶ声、笑顔、失った温もり。
その全てが、黒い霧の中に溶けていく。
彼らの前に立つレヴィは、その彼らの幼い目から見ても、完全に死にかけていた。
皮膚には裂傷が走り、攻撃を受けたであろう傷が無数に刻まれている。
何より、その瞳には、今にも完全に消え入りそうな微かな光しか、残っていなかった。
子供たちは、何も言えなかった。
声を出せない。
怖くて、寒くて、苦しくて、ただただ息を詰めて見つめるしかなかった。
ノアだけが、声を振り絞っていた。
「お願い、お願い……! 絶対に倒れないで……!」
小さな結界の内側で、震える手を伸ばし、少年の姿を支えようとしていた。
「……ノア……すまん。また胸に頼った」
「いいから。そんなのは、いくらでもいいから……!」
子供たちは、恐怖に泣き崩れながらも、その光景を見つめていた。
レヴィの死にかけた姿は、化け物に近かった。
けれど――
それでも、彼が自分たちを守ろうとしていることだけは、確かに伝わっていた。
それだけが、彼らがまだ結界の中に留まる理由だった。
それだけが、恐怖に耐える理由だった。
幻覚は、まるで生き物のように絡みついてきた。
子供たちの足元には、血を啜るような黒い影が伸び、耳元では失われた家族の声が囁く。
「おいで……帰ろう……」
泣きながら手を伸ばす小さな手。
だが、それを取れば二度と帰れないと、心のどこかで分かっている。
その間にも、魔性の森の獣が木の幹を割って飛び出す。
獣の目は深い赤に光り、黒い毛は障気を浴びてなお蠢いていた。
鋭い爪が結界を裂こうと叩きつけられるたび、ノアの体が跳ねる。
「……来るなっ!!」
ノアは必死に結界を補強し、火の魔法を撃ち込む。
赤い閃光が一瞬だけ森を照らすが、すぐにまた闇が飲み込む。
そして、ゴブリンたちが現れた。
緑黒い肌を持ち、鋭利な骨の短剣を構えて這い寄る。
ただの野生ではない。
人のような狡猾さで、弱った者を狙い、後ろから回り込む。
「ッ、はぁ……っ、もう……っ!!」
ノアは喘ぎ、結界を押し広げるように魔力を絞る。
だが、額からは血のような汗が垂れ落ちる。
レヴィは死にかけの身体を引きずり、幻覚の中を斬り進む。
呪いの剣が示す「殺意の赤線」を辿り、黒い影を、ゴブリンを、魔性の獣を切り裂く。
ゴブリンは躊躇なく結界を噛み破ろうとし、森の獣は狂ったように咆哮し、幻覚は優しくも残酷に子供たちを抱き込もうとする。
それでも、レヴィ達は進んだ。
剣を振るうたび、血と障気が飛び散る。
もう何度倒れてもおかしくないほど傷だらけの体で、それでも。
ノアは最後の力を振り絞り、結界を光のように輝かせた。
「お願い……生きて……!!」
子供たちは声を失い、ただ必死に泣いていた。
泣いて、泣いて、泣くことしかできなかった。
幻覚の魔物やゴブリンとはじめとした魔物は、容赦なくレヴィ達を襲った。
レヴィはそれら全てを撃退した。
一匹でも残せば、ノアも子供達も死ぬのだから。
やがて少し開けた場所に出た。
ここまでの場所とは違う。
そこには魔性の森特有の、不気味な雰囲気がなかった。
小鳥がさえずり、鹿がいた。生命の静寂さがあった。
魔物は見る限りいない。
ノアはできる限り索敵をして、レヴィを横にする。
ここなら、休める。
幻覚かと見紛うほどの、美しい女性が、宙から彼らを見下ろしていた。




