10話 魔瘴の森
──村から出なければならない。
しかし、その道は容易ではない。
村は、聖なる木の根を中心として、ばあちゃんが残した結界に覆われ、村を守っている。
ばあちゃんの魔力と風の精霊の加護が染みついているその結界は、外部の侵入者を遮断し、村を守ってきた。
結界を越えれば、すぐに魔瘴の森が広がっている。
魔瘴の森──
それは、常識も理も通用しない、異形の生物と呪いが蔓延る危険地帯だった。
すでにその森は、村の多くを飲み込み、境界線は刻一刻と迫っていた。
──ノアは、静かに頷いた。
レヴィが語った決意、魔瘴の森を越えるという無謀な計画、結界の外に広がる未知と恐怖。すべて受け止めた上で、それでも、彼女は頷いた。
「わかった。行こう。……子供たちを、守ろう。……レヴィがいてくれて良かったよ。そうじゃなかったら決断できなかったと思う」
「いや、余裕だろ。メンタルお化けじゃん」
「どういう意味よ」
「助けられてるって意味以外ない」
「ホントかなあ」
ノアは膨れた。
「レヴィ……わたし、もう誰かがいなくなるの嫌だよ。」
「死ぬ時は死ぬよ。俺らは」
「はあ。ひねくれ者だねえ。相変わらず」
「うっせ」
誰もいなくなってしまった。
残されたのはレヴィやノアの他にも数人、子供たちだけだ。
「魔瘴の森を越えるとか、冷静に考えるとやべえよな。それでも、行くしかないんだけど」
「私たちなら、できるよ。きっと。あ、お茶入れるね。熱いやつ」
ノアは茶を入れてきた。
「……実は、レヴィが“みんなのために動いた”こと、実は意外に思ってたり」
「ひでー」
ノアは言う。変わらない様子で。それが、なんでもないことのように。
──ノアは、本当に強い。
レヴィは思う。
レヴィはまだ迷っていた。まだ怖がっていた。
けれど彼女は、もう先を見据えていた。
「ありがとう」
レヴィは短くそう言って、子供たちが眠る小さな集会所を見やった。
夜が明けたら、出発する。
希望と恐怖を背負う逃避行。
その先にある何かを信じて。
──出発の日。
夜明け前、空はまだ濃い藍色に染まっていた。
鳥の声すら聞こえない。
風もなく、ただ静かだった。
村は、まるで息をひそめているようだった。
レヴィは結界の前に立っていた。
隣にはノア。
腰には、呪いの剣。
背には、少し大きすぎる荷を背負った子供たち。
「……本当に行くんだね」
「準備はできてる。どのみち行くしかない。」
「……はあ。10年くらい前は隣街なんてすぐ行けたのにさ。魔瘴の森厄介すぎるよ。燃やせないかな?」
「村で試したろ。魔術の火ならともかく、通常の火じゃ無理だった。障気が火を消しちまう。」
「ままならないなー」
ノアの声は、どこか遠くから聞こえるようだった。
彼女もまた、剣を持ち、肩に守るべきものを背負っていた。
笑ってはいない。泣いてもいない。
ただ、静かな覚悟がそこにあった。
「行ってくるよ、ばあちゃん」
「いってきます。ばあちゃん」
結界を──抜ける。
光がきらめき、残滓のように空へ舞う。
同時に、森の空気が──変わった。
濃密な“魔”が押し寄せる。
何かがこちらを見ている気配。
この世のものではない気配。
レヴィは振り返り、子供たちを見やった。
怯えた目。震える手。
それでも、誰ひとり泣いていなかった。
ノアは頷く。
「大丈夫。あたしたちがついてる」
そして、レヴィは一歩を踏み出した。
──「行くか」
レヴィはそう呟いて、一歩を踏み出した。
その声には、もう迷いはなかった。
背後には村。
かつての暮らし、想い出、後悔と懺悔、全部置いてきた。
前方には──魔瘴の森。
「結構、空気がすぐ変わるんだね。息が詰まるというか」
ノアは少し顔を顰めつつ言った。
「油断するなよ。この辺でももうゴブリンとかは出るぞ」
「うん。わかってる。……レヴィはこんなところに毎日出かけてたんだよね」
「呪いの剣があったからな」
「なんだか世界の法則が捩れてるというか、なんというか。結構、怖いね」
ノアは魔法の素養を持つばあちゃんの孫だ。
感じるものもあるのだろう。
木々は捻じれ、根が空を這い、葉が耳元で囁くようだった。
霧が流れ、足音を飲み込む。
ここでは、見るもの、聞くもの、感じるものすべてが信じられない。
「気をつけてねみんな。ここからは……全部が敵になるかもしれない」
ノアが子供達を警告する声にも、どこか緊張が走っていた。
レヴィは頷き、子供たちに目配せをする。
「絶対に、俺たちから離れるな。何が見えても、何が聞こえても、ついてこい」
子供たちは頷いた。
怯えてはいたが、その瞳には信じる強さが宿っていた。
周囲の空気がぐにゃりと歪んだ。
音が泡のように弾け、視界の端に知らない顔が見えた──
否。知っている顔だ。
「……ばあちゃん?」
子供達がざわめく。
「ばあちゃんじゃない?」
「ばあちゃんだ。」
レヴィやノアが立ち止まる。
森の中に、村の家がある。
囲炉裏の煙が立ち、あの懐かしい笑顔が、そこに──
「来なさいよォ……ごはん冷めるでしょォ……」
ばあちゃんの声。
でも、声の奥が何かがおかしい。
舌足らずで、ずるずると引きずるような語尾。
目だけが、笑っていなかった。
──魔瘴の試練が始まった。
「いや、すでに幻覚マイスターの俺に、そんなの通じるかよ」
レヴィは一歩前に出る。
ばあちゃんの幻影は、にこにこと笑っていた。
その奥の、微かに濁った瞳。引きつるような笑み。
現実とは微妙にズレた輪郭線。
「なんだ。アマチュアかよ。がっかりさせやがって。」
レヴィは冷たく吐き捨てた。
「ごはん冷めるでしょォ……来なさ……」
ザンッ
言葉の途中で、剣が空を裂いた。
一閃。
容赦もなく、ためらいもなく。
呪いの剣が唸りを上げ、幻影の中の“ばあちゃん”の顔が、
ばきんっと面が割れるように歪んだ。
裂けた口が呻いた。
その瞬間、周囲の空気が裂けるように震え、
幻影が溶け、魔物の正体が露わになった。
瘦せ細った異形の獣。
森の腐敗そのもののような気配を纏い、なおも“ばあちゃん”の声を出そうとしている。
「……お前のこと、ずっと見てたのよ……」
「知るかッ!!子供でも見破れるような、クソみたいな幻覚見せんじゃねえ!!」
二撃目。
躊躇はゼロ。
“思い出”という名の皮を被った敵に、
レヴィは殺意の全開でぶち込んだ。
剣が魔物の中核を裂き、呪いの光が炸裂する。
──ドゥグン。
魔物の核が、割れた。
幻影が完全に崩れ、化け物は黒い霧となって消えていく。
「──ふう、すっきりした。」
剣についた魔物の体液をレヴィは拭う。
ノアは思った。
(いや、すっきりしねえよ。後味最悪だよ!!)




