5.異変
いつもと変わらない周囲の視線、いつもと変わらない惨めな日々、だが、ここ数日エリシアはハリンドに妙な違和感を覚えていた。
ハリンドの機嫌が良いのだ。
エリシアにとっては、喜ばしいこと以外の何物でもないが、学内で顔を合わせても嫌味の一つも言ってこないハリンドに、不気味さを感じていた。
それと異変がもう一つ、ハリンドの傍らにはいつもどこかしらの令嬢がついているが、ここ数日女性を連れだって歩いていないのだ。
一体ハリンドの心境にどんな変化があったのかは分からないが、せめて自分が卒業するまではこのままで居て欲しいとエリシアは願うのだった。
比較的平穏な一日を終えて、エリシアは久しぶりに息抜きをしようと裏庭へ足を向ける。
こんなに落ち着いた気分で夜の裏庭を歩くのは、初めてかもしれない。
いつもは、人の目から逃れるように物言わぬ自然に身を委ねていたが、精神的苦痛が和らいでいる今は純粋に裏庭の美しさに浸ることが出来た。
あのままの彼で居てくれればきっと自分を失くさずに生きていける。
だから、もう聖女の力を目覚めさせたいだとか贅沢なことは言わないから、このまま、このまま波風のない生を続けさせて下さいと、エリシアはそっと祈るのだった。
どれくらいそうして居ただろうか、エリシアがゆっくり裏庭を歩いて回っていると、遠くの暗がりから聞き覚えのある声が聞こえた。
好奇心が勝った彼女は、そっと声のする方へ歩いていくと、近づくにつれてそれが誰かと話をしている声だと分かった。
木々に身を隠すように更に近づくと、ハリンドの後ろ姿が見えて咄嗟に立ち止まる。
その奥にはもう一人誰か居るようだが、暗すぎてよく分からない。
だが、学生服を着ていないことは分かった。
「しかし、私にはそんな資格がありませんから」
若い女性の声だ。
「そんなことないって。きっと親も納得してくれるし、なにより皆喜ぶはずだ」
「ですが、王子には既に婚約者が」
「そんなの関係ない! あんな、使えない証を振りかざすような女なんてどうだっていいだろ」
まあそうだろうなという冷静にその言葉を受け止める自分と、言葉の鋭さに胸を痛める自分がエリシアの中で重なる。
「こんな、こんな私でも宜しいのでしょうか」
女のすすり泣く音が聞こえる。
「......おいで」
ハリンドと女の影が一つになる。
彼がここ最近大人しかったのは、好いた女が出来たからだった。
なぜ彼が大人しくなったのかは不思議であったが、蓋を開けてみれば簡単な答えだったわけである。
ハリンドが、自分以外の女を作ることなど慣れたことではあったが、なぜ今回に限って大人しくなったのかは解せなかった。
ただ一つ分かったことは、この平穏がそう長くは続かないということである。
どうせ、あの女に飽きればまたハリンドは牙を剥くに違いない。
そう考えると、今日までの平穏を神に祈ったのが馬鹿らしく思えてきた。
せめて、あと一週間くらいはハリンドの心を留めて置いてくれるよう願いながら、エリシアはその場を離れるのだった。
それから数日は、いつハリンドの怒りの矛先が自分に向けられるかと、怯えながらエリシアは過ごしていたが全くその気配がなく、更には日を追うごとに彼の態度が軟化していることに気が付いた。
それまでは、会えば必ずと言っていいほどハリンドから蔑むような視線を向けられていたが、それがなくなったかと思うと遂には笑顔で挨拶までしてくるようになっていた。
「やあエリシアおはよう」
なんて言われた日には、嬉しさよりも気持ち悪さが勝ってしまい鳥肌がたったものだ。
何があったのかは知らないが、密会の相手がうまいことハリンドの機嫌を取ってくれているのだろうと考え、顔も知らない相手にエリシアは密かに感謝するのだった。
他の学生はと言うと、ハリンドがなぜ態度を急変させたのか見当も付いていない様子で、最初の頃こそ驚きを隠せていなかったが、次第にそれにも慣れたのか極当たり前の光景として受け入れるようになっていった。
だが、エリシアに対する態度が相変わらず侮蔑を交えたものであることは変わらず、エリシアの扱いが婚約者に苛められる出来損ないの哀れな聖女から、出来損ないの聖女になったまでのことだった。
それでもエリシアは、以前より随分と過ごしやすくなった学院生活に大いに満足していた。
これで力を覚醒させることに今までよりも集中出来ると、エリシアは以前にも増してその作業にのめり込んでいった。
しかし、幸運がそう連続するわけもなく、エリシアの気持ちを嘲笑うかのように証が光ることはなかった。
なんの成果も出ないまま時間だけが過ぎていき、ある日エリシアは、もう何日も夜の散歩に出ていないことに気が付いた。
終わりの見えない作業にストレスが溜まっていたエリシアの頭に、ふとオルトの顔が浮かぶ。
このまま順当にいけば、いずれここを離れてハリンドと共に過ごすことになる。
ハリンドの態度の変化により、それを以前よりも具体的に想像出来るようになったエリシアは、自分のわがままに付き合わせてしまったオルトにケジメを付けなければいけないと考えていた。
エリシアは、裏庭に足を運びいつものベンチでそっと耳を澄ませて待つ。
それはほんの一時の待ち時間だったかもしれないが、エリシアにはそれが無限に感じられた。
時間が経てば経つだけ、エリシアの決意に揺らぎが生まれ始め、やっぱり話はまた今度にしようかなんて考えていると、突然足音が聞こえて彼女の背筋が伸びる。
「随分と久しぶりじゃないか。ここに居るってことは俺に会いに来てくれたってことかな?」
暗闇に赤い瞳が光り、星明かりが朧気にオルトの輪郭を映し出す。
「そう。今日はオルトに会いに来た」
真剣な面持ちなエリシアに、オルトは動揺したように笑顔を崩す。
「お、おおそうか。珍しいな、お前がそんな風に言うなんて」
オルトは、エリシアの隣に座ると調子を取り戻すように咳払いする。
「で、ここんとこ姿を見せなかったが、調子はどうだ?」
「......最高、とは言えないけれど以前よりは良くなったと思う」
「もしかして、未来の旦那様を腕力でねじ伏せてやり返してやったのか?」
「そんなことしないわよ! 最近ね、妙に優しいのよハリンドが」
「それ、マジで言ってるのか? あの暴力王子様が?」
もしかしたら、この台詞をエリシアが言わされているのではないかと疑ったオルトが、周囲を確認するようにキョロキョロとする。
「マジだよ。そんな嘘ついたって虚しくなるだけだもの。まあ、優しくなった理由が他に好きな女が出来たっていう最低なものだけど」
「はぁ~、あいつらしいな」
「でもいいの。どんな理由だってハリンドが優しくなったのは事実だから。それでね、前はハリンドと生活するなんて無理なんじゃないかって思ってたんだけど、最近は一緒にやっていけるんじゃないかって考えたりもしてさ」
エリシアの言葉に、オルトの眉がピクリと動く。
「でも、あいつの愛はお前には向いて無いんだぜ? それでいいのかよ」
「いいも何も、これは私が産まれた時から決まっていたことだし、それに今更愛されたいなんて思わないよ」
「だけど、それじゃ、あんまりにも寂しすぎるだろ。聖女の血を受け継ぐためだけの存在になるなんて、そんなの」
「ねぇ。やめて」
オルトの言葉をエリシアが遮る。
「あなたも分かってるでしょ、聖女の存在がこの国にとってどれだけ大切か。私なら幼い頃から覚悟してきたことだから大丈夫。だから、これ以上私の決意を揺らさないで」
「エリシア......」
オルトが寂しそうに呟く。
自分で誘うようなことをしておいて、こんなことを言うのは間違っているってことはエリシアにも分かっている。
けれどもエリシアは、彼女自身のために言わなければならなかった。
「オルト、私はもう二度とここには来ない。だから、最後におめでとうって言って欲しいの。あなたに祝福して貰えたら、きっとこの先もうまくやっていけるから」
少しだけ、二人の間に静寂が訪れる。
「エリシア」
「うん」
「幸せになれよ」
「......ありがとう」
エリシアの笑顔に涙が伝った。