4.ベタついた空気
最悪な朝食を終えて、エリシアは一人授業を受けるために講義室へと向かう。
講義室に入ると、エリシアに気がついた生徒達の視線が一斉に向けれる。
エリシアは、この瞬間が何よりも嫌いだった。
いっそ居ないものとして扱ってくれれば楽なのに、聖女という立場がそれを許さなかった。
ハリンドによる屈辱的な行為に対する同情と、出来損ないの聖女に対する軽蔑が織り混ざった、張り付くような視線に、エリシアは吐き気さえ覚える。
それに耐えるように、振り払うようにひたすらに授業に集中する。
そして、一日の授業が終われば休む間もなく花嫁修業が始まる。
王族に嫁ぐ身として、必要な立ち振舞いからマナーに至るまで厳しい指導を受ける。
だが、エリシアはこの時間が嫌いではなかった。
ビジネス的な関係であると割りきって指導してくる講師のその事務的な対応は、様々な感情に晒され続けるエリシアにとってある種の心地よささえ感じられるものだった。
だからこそ、エリシアは今日まで逃げ出すこともせずにやってこれたのかもしれない。
過密なスケジュールをこなす彼女にとって、一日はあっという間に過ぎていき、気がつけば窓の外が闇に染まっている。
夕食を済ませ、大浴場へと向かう。
一人に一つの浴室が用意されているわけではないため、身分に関係なく皆同じ風呂に入ることになる。
服を脱いで浴場に入ろうとするエリシアだったが、周りから妙視線を感じて自分の腹部を見ると、アザが出来ていた。
エリシアは、それを咄嗟にタオルで隠す。
原因など分かりきっていた。
大浴場の温かさに浸ることも出来ず、体を洗ってそそくさと出ていく。
これでようやく一日が終わる、訳ではなく、浴場を出た彼女が向かった先は図書館だった。
エリシアは、ほとんど毎日のように閉館時間までここで聖女について調べ物をしているのだ。
この国の歴史と聖女は切っても切れる関係ではなく、聖女についての書物はそれこそ腐るほどある。
エリシアは、その一つ一つをしらみ潰しに読んでいき、聖女の力を発現させる方法を探っていた。
しかし、どの書物にも聖女の記録やその功績を讃える文言が書かれているばかりで、力の発現方法について言及している物はない。
それどころか、エリシアのように証があるにも関わらず力が使えない聖女など、今日まで読んだ限りでは前例のないものだった。
これまでいくつもの書籍を読み漁り、幾度となく気を落としてきたエリシアだったが、それでも諦められないでいた。
閉館時間まで残り三十分、今日もなんの成果もなさそうだと半ば諦めていると、ハリンドが図書館に入ってくるのが見えた。
ああ、嫌な予感がする。そんなエリシアの思いは的中し、ハリンドがゆっくりと彼女に向かっていく。
「こんな夜更けまで勉強熱心だな。テストはまだ先だろう?」
「王族に相応しい人間になるためには、必要なことですから」
エリシアにしてみれば、ハリンドを刺激しないために言った無難な言葉であったが、彼にとっては違った。
ハリンドは、黙ってエリシアが読んでいる本を取り上げると中身を確認し始める。
「はっ! 何を読んでるかと思えば」
ハリンドは、勢いよく本を閉じると勢いよく机に叩きつけ、その音にエリシアの体が自然と反応してしまう。
「こんなもの読んでたってなぁ、聖女の力が手に入るわけないだろ!」
「私はただ」
その先の言葉が恐怖で詰まる。
「ただ、なんだ? 言ってみろ」
「ただ、あなたのために、国のために、恥じない存在になりたいだけなのに、どうしてこんなことばかりするのですか」
絞り出すように声を震わせるエリシアに、ハリンドは顔を真っ赤にする。
「あはは! 俺や国のため? 笑えるよ。お前が消えてくれた方がよっぽどためになるってものだよ」
「どうしてそんなことを......」
「まともな聖女は嫁がない、半端者の王子。王子のなり損ない。民を守れない無能王子。これが何か分かるか? 俺が影で言われてることだよ! それもこれも全部お前に力がないせいで......」
怒りが頂点に上ったハリンドが、机に置かれた本の山を力任せになぎ倒すと、大きな音を立てて本が床に落ちる。
「今さらこんなことしたって、もう遅いんだよ!」
ハリンドは、エリシアの左腕を掴むと無理矢理引っ張り上げる。
「痛い!」
「うるさい! お前に、こんな証さえ無ければ......。そうだ、なぁこの手、切り落としてくれないか?」
「え?」
「お前だって死ぬのは嫌だろ。だったら、この手を切り落として聖女じゃなくなれば、俺はお前を嫁に貰わなくていいし、全部解決じゃないか」
「お、お願いします。それだけは」
「そうしたらさぁ、お前も出来損ないだなんだって言われなくなるし、嬉しいだろ?」
「やだ、そんなの嫌だ!」
「黙れよ! 出来ないって言うなら、今ここで俺が、叩き折ってやるよ」
エリシアの腕を掴むハリンドの力がどんどん強くなっていき、ギリギリと音を立て始める。
「閉館! 時間ですから!」
ハリンドの背中から突然大きな声が聞こえ、腕を掴む手から力が抜ける。
ハリンドが振り向くと、女の司書が立っていた。
「ああ?」
「閉館時間ですか、そろそろご退館をお願いします」
ハリンドがチラッと壁の時計に目を向けると、閉館時間まではまだ15分ほどあった。
「まだ時間じゃないみたいだが?」
「今日は、本の整理があるので時間が早いんです」
司書は、ハリンドにじっと睨み付けられて思わず一歩下がってしまう。
「......あっそ。なら帰るわ」
ハリンドは、パッとエリシアから手を離すと黙って出ていった。
「ごめんなさい、騒がしくしてしまって」
「いえ、本が好きな人に悪い人は居ませんから」
二人は、床に落ちた本を拾い上げると、ホコリを払って棚に戻し、エリシアは彼女に深く頭を下げると図書館を後にした。
この司書が備品である本を盗んで売ったとして、学院を追放されたとエリシアが知ったのはそれから数日後のことだった。