2.庭園の訪問者
ズキズキと鈍い痛みをお腹に抱えながらエリシアは、ようやく裏庭へと繋がる扉にたどり着くと、真っ暗な外へ飛び出した。
夜でありながらも、星明かりを頼りに裏庭を散歩することは出来たし、この時間の裏庭はエリシアにはとても慣れ親しんだものだった。
学院を囲む木々が風に揺られザワザワと音を立て、エリシアにはそれが心地よかった。
ただ、この瞬間を独り占めにすることは出来ず、恋に現を抜かした男女がチラホラと愛を囁きながら歩いている。
エリシアに聖女の力が無いことを知らない者はこの学院におらず、皆が皆エリシアに哀れみと侮蔑を織り混ぜた眼差しを向けてくる。
そんなこともあって、エリシアの足は自然と人の居ない方へと向かうのだった。
いつものベンチに腰を下ろし、目ではなく耳で夜の庭園を楽しむ。
ここは、丁度学院側からの視線を垣根が遮ってくれるため、エリシアには数少ない安息の場所なのだ。
しばらくの間、風の流れるままに体を揺らし、草葉の擦れる音に耳を傾ける。
『いっそ自分も花であったなら、この学院にも私を愛でてくれる者があったかもしれない』
そんなこと口をついて出そうになるが、言葉にしてしまったら何かが終わってしまうような気がしてそっと胸の内にしまいこむ。
今だけは、全てを忘れて身も心も一人でありたいと思いながら、そんな思いとは裏腹に心は幼い頃の記憶に温もりを求める。
家族との思い出が一つ、また一つと浮かび上がる毎に押さえつけていた感情が押し出される。
「しょっぱいなぁ......」
気がつけば涙が頬を濡らしていた。
声を必死に押さえながら、意思とは関係なく流れる涙に、ただひたすらに止まってくれと願う。
すると、どこからか草木を踏みしめる音が聞こえ、咄嗟に涙を拭う。
どうせ、生徒の誰かだろうと思い、気がつかないふりをしてやり過ごそうとする。
だが、その足音はエリシアの側までやってくると、ピタッと彼女の前で止まったのだ。
「ご機嫌麗しゅう。エリシア・ブレイデント」
ハリンドと同じ台詞、なのに彼とは違い甘く優しさを纏った声。
エリシアが目を開けて顔を上げると、赤い二つの瞳が彼女を見つめていた。
「またお会いしましたね」
しかし、エリシアは答えない。
声の主はしばらくエリシアを見つめていたが、痺れを切らしたのか首を傾げると彼女の顔の前で大きく手を振る。
「おーい聞こえてますか? お前のその目と耳は飾りですか?」
その仕草がなんだかおかしくて、つい笑い声が漏れてしまう。
「ふふ、聞こえてるよ」
「なんだよ! 俺はてっきりストレスか何かで遂に五感をやられちまったのかと思ったぜ」
「あなたねぇ、もうここには来るなって何度言ったら分かるの?」
「つれないこと言うなよ~。俺とお前の仲だろ。な?」
馴れ馴れしい態度の男は、笑いながらエリシアの横に座る。
「俺とお前の仲って、私あなたの名前だって知らないのよ」
「え?!」
男が驚いて目を見開くと、赤い瞳が一層良く見える。
「冗談だよな? 俺はちゃんと自己紹介だってしたってのに、覚えてないのか?!」
「どうだったかなぁ、オルト・カイルテインなんて名前覚えてないかもなぁ」
エリシアが、悪戯っ子のようにオルトに笑いかける。
「なんだよ覚えてるじゃねえか。俺はてっきり日頃のストレスで記憶まで吹き飛んだんじゃないかって」
「その台詞はさっき聞いた」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
オルトとの下らないが、崩れかけた彼女の心をそっと支える。
クスクスと笑うエリシアを、じっと見つめるオルト。
「なあ、何かあったか?」
その言葉に、エリシアの鼓動が早くなる。
「別に何もないよ。どうして?」
この瞬間に水を差したくなくて、咄嗟に嘘が口をつく。
「なんだか元気が無いように見えたからさ、もしかしてまたハリンドとか言う野郎に、何かされたんじゃないかって」
「気のせいだよ。この通りピンピンしてるもの」
そう言ってオルトに向けた彼女の笑顔はどこかぎこちないものだった。
オルトには、それが作ったものだと分かっていたが、彼女が引いたそのラインを越える勇気がなかった。
「そっか、気のせいならいいんだ。だけどよ、いつまでこんなところに居るつもりなんだ?」
「いつまでって、卒業するまでだけど」
「そうじゃなくて、あんまり良い目にはあってないんだろ? だったらこんなところさっさと抜け出しちまえばいいじゃないか」
「出来ないよ。だって、私聖女だよ? それに、そんなことしたら家族にも迷惑かけちゃうし」
「そんなに大事?」
「大事大事。あなたみたいな粗野な人には分からないのかもしれないけど、家族って唯一無二の存在なんだから」
「なら、それと同じくらいあいつらも大事?」
オルトが視線を学院に向ける。
エリシアの目が一瞬泳いだのを、オルトは見逃さなかった。
「......大事だよ。だって、私は聖女だから。それにさ、前はつい色々話しちゃったけど、実はそんなに酷い目にはあってないからさ」
「その言葉、信じていいんだな」
なんだかオルトに心を読まれてしまうような気がして、エリシアは視線を反らす。
「うん......」
「ちゃんと俺の目を見て言って」
エリシアは、オルトに目を向けるがどうしても言葉が出ず、誤魔化すように立ち上がる。
「そもそも、なんで部外者のあなたにそんなこと言わなきゃいけないのよ」
「エリシア......」
「オルトはここの生徒じゃないんだから来ちゃいけないの。ほら、部外者は帰った帰った! 不審者がいるって騒ぐよ」
エリシアは、オルトの手を強引に引いて立たせると、肩を持って彼の体をクルっと回転させる。
「はい、出口はあっちですよ~」
「分かった分かったから。それじゃ、またな」
「またって、もう来ちゃ駄目だからね」
振り返ろうとするオルトの背中をぐいっと押し出す。
観念したのか、オルトはそのまま手を振って闇に消えていった。
「本当にもう、来ちゃ駄目だからね......」
そう言いながらエリシアは、じっと闇を見つめるのだった。