前編
側溝の隅に白く溜まった桜の花びらを見るたび、ああ今年も花見に行きそびれた、なんてことをぼんやり思う。
今までは思うだけだった。すぐにそんな哀愁じみた考えは振り切って、せかせかを足を進めて、電車に乗り、会社へ向かうことができた。
でも、今日は違った。
花びらの端が茶色く変色し始めていることに気が付いて、それからなぜか、イヤホンをリビングのテーブルの上に置いてきたことを思い出した。全く関係のないことを、意味ありげに繋ぎ合わせてしまう脳の仕組みを知りたい。
イヤホン。俺の通勤の必需品。電車に乗っている間、きつく耳に詰め込んで、周囲の音を断ち切るためのもの。
自分のローテーションが、通勤前に崩れたことにげんなりする。だからといってアパートに戻る気にはなれない。その労力がもったいなかった。だから俺はまた、駅へ向かって歩き始める。
けれど人間の脳というのは面倒なもので、ついでとばかりに俺の頭は勝手に連想ゲームを始めた。全く関係のないことが次々と頭の中に浮かんでいく。それも、いやなことばかり。
冷蔵庫に突っ込んだままの、傷んだサラダをまた捨て忘れたこと。部屋の更新手続き。そういえば、昨日取引先から電話があったと部長に伝え忘れていた。部長がしょっちゅう席を立つせいだ。今日報告したら、絶対に嫌味を言われる。
先週送って、いまだに返事のないメール。電話を切られる直前に聞こえた舌打ち。締め切りの近い企画書はまだオーケーが出ない。欲しかったスニーカーは残業中に売り切れていた。母さんから一昨日届いた連絡への返事も、億劫で放置したままだ。
次に目にした側溝でも、白い花びらが塊になっていた。
そこで初めて、自分の視線が下にばかり向いていると分かる。
「…………」
面倒くさい。
俺は脳内連想ゲームをやめて、ついでに足も止めた。駅まではまだ距離がある。家賃の安さに目が眩んで、駅からそこそこ遠いアパートに住んでしまったことを後悔するのは何度目だろう。でも、環境を変えるのが面倒だからそのまま契約を更新し続けている。快適じゃなくても、我慢できないほど悪いわけではないから。
面倒くさい。
面倒くさいことに気付いてしまった。
そもそも俺はものぐさな性格だ。物心ついたころから、仮病を使ってはよく学校をサボった。ズル休みをした日に見るテレビはいつもよりも刺激的だった。大学に入ってからはもっとひどい。一限に出られたのは入学当初の半年だけ。バイトと遊びには打ち込んだが、講義の内容なんてほとんど覚えていない。
みんな似たようなものだと思う。髪を黒く戻して短くし、社会人らしい姿になってからは、俺もそれなりに真面目だった。学生時代と違って、簡単にズル休みはできない。それまではなかった責任が生まれるからだ。責任。もうその単語が面倒くさい。俺はそういうのに向いていない。だるい。うざい。やってらんない。ポケットに入れていたスマホを取り出す。
「すみません、今日体調悪いので休みます」
じりじりと疼く罪悪感を封じ込めて、道端で会社に電話を掛けた。ああそう、と素っ気ない上司の声。急な休暇はあっさり受け入れられた。すみません、と追加で三回言ったところで、電話が切られる。
会社ではなんて言われてるんだろう、とみみっちい考えが頭に浮かんで苦笑する。こういう考えに至るあたり、俺も随分社会に染まったようだ。
その場に突っ立ったまま、俺はスマホの画面を眺めていた。このまま家に帰る気にはなれない。有意義な行動なんてもってのほかだ。
視界には白い塊がしつこく紛れ込んでいた。最後に花見に行ったのはいつだろう、と考える。記憶を探って、入社当時にだだっ広い公園で発泡酒を飲んだことを思い出した。ひたすら気を遣うだけでつまらなかった。そもそも俺は花見というものに魅力を感じていないのだ。花を愛でる感性もない。
何の目的もない、完全に無駄なだけの休暇を手に入れてしまった。でも、せっかく時間を取ったのだから、あえて無駄なことをしたいと思う。家ではなく、外で。わざわざ休んでこんなことを、と後から笑い飛ばせるような。
しかし、気合を入れて無駄なことをするというものなかなか難しい。学生の頃なら簡単に思いついた。むしろ身にならないことばかりしていた。社会に出てから知ったたくさんのしがらみが、俺の発想力を貧困にしたのかもしれない。
このままだと、結局アパートに帰って、だらだらとベッドの上で一日を過ごして終わってしまう。まあ、それもこの上なく無駄な時間の使い方だけれど。
たとえば、誰かと一緒なら、まだ。
「……あ」
時間潰したいと思ったら、いつでも呼んでよ。
以前、そう言われたことを思い出した。言った相手は俺の当時の恋人だ。男だった。真っ直ぐな黒髪が記憶の中でちらつく。
三年間付き合って、別れたのは冬だった。別れは拍子抜けするくらいにあっさりとしていた。あいつは最後まで飄々と振る舞った。
付き合っていたころ、暖かくなるたび「花見でも行く?」とどちらともなく言い合った。でも、一度も行かなかった。互いに桜を見たいなんてこれっぽっちも思っていないことが分かったから。
別れてから、もう二年が経っている。その間、俺は一度もあいつに連絡をしなかった。別れるってそういうことだ。連絡する理由を失うこと。優先してもらう権利がなくなること。
あの言葉は、まだ有効なんだろうか。
俺は画面に指をすべらせる。サク。あいつの名前。
電話帳には番号を登録していない。覚えていたから、登録する必要がなかった。自分の感覚だけを頼りに数字を押していく。真ん中の四桁は自信がなかったが、最後の四桁は覚えていた。発信のマークをタップする。
妙な喉の渇きを覚えながら、俺はスマホを耳に当てた。こんな思いつきで別れた恋人に電話をかけるなんて、俺は相当ろくでもない人間だ。呼出音が鼓膜を震わせる。
『……もしもし?』
電話は繋がった。
気だるげな声に対して名前を告げれば、サクは笑って「知ってる」と答えた。
◆◆◆
サクと出会ったのは五年前の夏のことだ。
大学四年生だった俺は、人生最後の夏休みを謳歌しようと、友人たちと頻繁に飲み歩いていた。
当時の俺は彼女に振られたばかりで、でも就職先は決まっていて、落ち着けばいいのか荒れればいいのか、よく分からなくなっていた。その日はサークルの仲間と居酒屋で飲んで、カラオケに行ったあと、もう一軒行こうと誘ったが誰も付いてこなかった。
俺って、本当は嫌われてるのかも。
苛立ちと寂しさを抱えて、目についたバーに入った。バーに入るの自体初めてだった。
カウンター席しかない小さな店だ。客は三十過ぎくらいのカップルが一組だけ。ぎりぎりまで絞られた照明と軽やかなジャズの音に、俺はすぐに自分が場違いな客であることを知った。でもそこで引き返すのも間抜けな気がして、空いていた奥の席へと進み、座った。
「何にしますか」
声を掛けてきたのが、サクだった。髪が真っ黒で、目は線を引いたように細い。華やかさはないが、印象に残りやすい顔だ。
同じ年代に見えたから、俺はやけにほっとして「何かおしゃれなやつ」と馬鹿な注文をした。実際、ビールだけで学生生活を過ごしてきた俺には、バーで一体何が飲めるのかが分かっていなかった。
サクは俺のような酔っぱらいの扱いに慣れているのか、さらりと「分かりました」と答えてみせた。そしてカシャカシャと軽やかな音のあと、目の前に白く濁ったカクテルを差し出してきた。
「そこそこおしゃれなやつです」
冗談めかした言い方に好感を抱いて、俺はグラスに口をつけた。ほのかなレモンの香り。優しい苦味が舌の上に広がった。
「……なんか、おしゃれな味がする」
「でしょ」
細い目がますます細くなる。目が閉じているんだか開いているんだか、分からないくらいに。なんだかそれがおかしくて、俺は調子に乗って次々にカクテルを注文した。サクは話が上手かった。というより、話を聞くのが上手かった。俺は言わなくて良いことをべらべら喋った。
サクは俺より一つ上だったが、その若さで店長を務めているのだという。「雇われですけど」と謙遜する様子も相まって、俺にはサクがひどく大人っぽく見えた。
俺はさらに飲み続けた。そして、当然ながら潰れた。立てなくなってカウンターに突っ伏して眠り込み、目が覚めると隣にサクが座っていた。俺が浮腫んだ顔を上げたのを見て、困ったように笑う。
「君さあ、バーで飲むの向いてないよ」
嫌味ではなく、諭すような口調だった。その証拠に、俺はちっともいやな気分にならなかった。サクの言葉は、いつだってやわらかい。
向いてないとは言われたものの、俺はサクを気に入って、一人でバーに通った。気に入った、なんて偉そうな言い方だけれど、とにかく気に入ったとしか言いようがない。俺は単価の低い客だったが、ただ純粋に、サクと話をするのが心地良かった。そして、サクも俺を気に入ったようだった。
出会って三ヶ月が経ったころ、俺とサクは付き合い始めた。ある日サクが「俺、どっちでもいける人」と口にしたから、「じゃあ俺は?」と聞いてみたのが始まりだった。
それまで、男と付き合うなんて考えてみたこともなかった。でも、サクならいけそう、なんて簡単に考えた。そして「君って軽すぎて不安」と向けられた鋭い視線にぞくぞくした。感じたことのない、悪寒にも似た震え。そのとき、俺はサクが好きだと確信した。
俺たちは、結構うまくやっていたように思う。喧嘩はしなかったし、休みが合うときは出かけたりもした。身体の相性も良かった。俺が社会人になっても、関係は続いた。
楽だった。女の子と付き合うのとは全然違う。相手がサクだから余計にそう感じたのかもしれない。
記念日なんて覚えてなくていい。飯も自分の食いたいところに行ける。プレゼントもなし。いちいち機嫌も取らなくていいし、ムード作りなんてものもいらない。
「サク。今日、何する?」
「何もしないことをする」
「賛成」
俺はサラリーマンで、サクはバーの店長を続けていたから、一緒に過ごせる時間は少なかった。どちらかに時間ができたら、相手に電話をかけてみる。都合が良ければ会いにいく。忙しいと断られたら引き下がる。そんな淡白な付き合いが繰り返された。
サクに不満を抱いたことはない。けれど三年目を迎えたとき、突然ふっと不安になった。男同士で、生活リズムも違う。周りにも関係は隠していた。そのとき楽しければそれでいい、という幼い考えは徐々に薄まり、「将来」という現実が目の前に現れた。
この先どうするんだろう。
漠然とした揺らぎは、一度生まれるとしつこく居座り続ける。サクの真っ直ぐな髪が好きだった。夜を感じさせない清潔な空気も、気負いのない話し方も。
けれど時間が経つにつれ、自分が「サクの好きなところ」を必死に探していることに気が付いた。サクとの関係を続けることに、何かしらの真っ当な理由を見出そうとしていた。必死になってしまうこと自体が、終わりのしるしだった。
付き合う理由は「好き」の一言で済むのに、別れのときはあちこちからもっともらしい理由をかき集めなければいけない。本当は、あれがいやだった、あの言葉にも傷ついた。そうやって、自分が正しいと主張する材料が欲しくなる。
でも、サクには責めるべきところがひとつもなかった。そこで俺は、自分がサクに甘えてばかりだったことに気付く。俺が楽だと感じているとき、サクも同じように安らいでいるとは限らない。うまくやっている。どちらかの努力なしに、安定した関係が続けられるはずがないのに。
「別れよっか」
サクがそう言い出したのは突然だった。
俺たちは深夜のファミレスで、ドリンクバーでじりじりと粘っていた。外では粉雪がちらつき、寝静まった街をますます寂しく見せていた。周りの席に客はいなかった。
お互い仕事で疲れていて、会話が何度も空中で解けた。話が続かないのは、疲れのせいだけではなかったかもしれない。会うことすら久しぶりだった。会うことを、俺が拒んでいた。
「なんで」
俺は神妙な顔を作ってそう返した。本当は、自分から別れを告げずに済んだことにほっとしていたくせに、ショックを受けたふりをした。悪者にはなりたくなかった。サクは薄い色のオレンジジュースを音を立てて啜ってから、視線を上げて目元を緩めた。
「もういいかなって」
諭すような口調に、出会ったころを思い出した。ほのかなレモンの香りと、優しい苦味。
途端に頷くことが惜しくなる。本当に手放してもいいのだろうか。俺は間違えた選択をしようとしているんじゃないだろうか。
けれど同時に、サクは俺の考えをすべて見透かしているんじゃないか、というおそれを抱いた。サクは俺の浅はかさを初めから分かっていて、今も同情して、別れを口にしているんじゃないだろうか。
「分かった」
余計なことを言わないよう、俺はそのまま頷いた。なぜか、サクは笑った。笑った理由が、俺には分からなかった。別れが決まって初めて、サクのことを何ひとつ理解していなかったと思い知る。何も知らない。何を考え、何を感じていたのか。喋るのはいつも俺だった。
胸の中に後悔が広がる。でもその後悔の後ろには、不安定な将来を手放した安堵が潜んでいた。ファミレスの金は俺が出した。
「まあ、これでさよならだけど」
サクは店から出るなり、俺の方を振り返って軽く言った。
「時間潰したいと思ったら、いつでも呼んでよ」
そのとき自分が何を思ったのか、今はもう、覚えていない。