ダイブ!
すぐ近くで水が流れる音。少し離れた場所から小鳥がさえずる音が聞こえてくる。
――何だ、ダイブ失敗したのか。
そう思いながら瞼を開けた虎太郎は、目の前に『始まりの広場』の景色が広がっていることに気づいて驚いた。
デフォルメの衣装を着ている虎太郎は、噴水の縁に背中を凭せ掛けて座っている。
辺り一帯、石畳になっていて、虎太郎の前方は緩やかな下り坂が続いている。その先に鏡面のように澄んで光る湖面が広がり、薄い靄がかかっていて対岸は見えない。
その緩やかな坂の左右と、広場を囲うようにズラリと建つレンガの家はどれも年季が入っていて、レンガの色褪せ具合や壁面にツタが這う様子がリアルに表現されている。
虎太郎が腰を落ち着けている石畳の隙間には雑草が生えていて、アリがエサを運んでいる。
背もたれにしている縁越しに噴水の中を覗くと、色とりどりの小魚が泳いでいる。その傍らに立つ樹の枝に停まっている水色の羽に覆われた小鳥は木の実をついばんでいた。
空には雲が流れ、太陽が姿を表したり隠れたりしている。
噴水を囲うようにして何人かの行商人が屋台を開き、焼きリンゴの熟した甘い香りが漂ってきた。
行き交う人々の人種は様々だけど、誰もが日本語を話し、その会話に耳を傾けると、とてもAIキャラとは思えないほどに自由かつ自然に世間話をしている。そして、虎太郎と目が合うと誰もがアットホームな笑顔で会釈してくれた。
虎太郎は立ち上がり、大きく伸びをして胸いっぱいに空気を吸い込んだ。肺が新鮮な酸素で満たされる。カラダは違和感なく自由に動いた。何もかもがあまりにリアルで自然なため、仮想空間にいることを忘れてしまいそうだ。
虎太郎が初ダイブの感動に浸っていると、すぐ近くの地面から鈴が鳴るような音がして、その辺りが白く光った。そして、その光は次第に大きく濃さを増していき、やがて人間のカタチになって、パッと光の粒子が砕け散ると、白い衣装を着た舞香が現れた。
噴水の縁に背中を凭せ掛けた舞香がゆっくり瞼を開く。
「舞香」
虎太郎が呼びかけると、
「コーちゃん」
寝ぼけた表情で見上げてくる。
「ニーベリアへようこそ」
虎太郎は上機嫌で笑いながら片手を差し出した。
「でもわたし……」
舞香は虎太郎が差し出した手から自分の足へと視線を移して、
「あっ!」
何かを感じ取り、目を丸くして虎太郎を見上げた。
「立てるだろ?」
虎太郎は舞香の手を取り、もう片方の手で背中を支えてあげた。
舞香は最初は虎太郎に体重を預けて、やがて自分の両足でしっかり立ち上がり、
「立った」
呆然とした表情で虎太郎の顔を見つめ、よろこびの感情がその顔にじんわり広がり、
「わたし、立ってる!」
歓喜の声を上げた。
その声を合図にしたように、広場にいる人々が突然、それぞれ物陰に隠していた楽器を手に取り、軽快な音楽を奏で始めた。
フラッシュモブに驚いて抱きついてきた舞香と笑い合い、虎太郎は舞香の目尻から流れるうれし涙を指で拭ってあげた。
やがて演奏が終わると、
「ニーベリアへようこそ!」
街の人々が声を合わせて、歓迎の拍手の嵐を広場に響かせた。
虎太郎と舞香が照れくさそうにしていると、
「今夜はウチの宿に泊まってくれ。ニーベリア一の景色のいい部屋を用意するよ」
「ニーベリア名産のハチミツをたっぷり使ったホットケーキ、よかったら食べて頂戴」
次々に声をかけられて、食べ物を押しつけられた。それらは虎太郎が手にした瞬間にパッと消える。ホログラムを表示させて『アイテム』を確認すると、そこにしっかり『ホットケーキ』と記録されていた。
街の人々から歓待を受けている内に、虎太郎と舞香は自然と緩やかな坂を下り、湖のすぐ近くまで来ていた。
「どこへ行こうか」
歓迎ムードからようやく解放されたところで虎太郎は立ち止まり、ホログラムのマップ画面を開くと、横から舞香が覗き込んできた。
湖は街と山に囲まれていて、いくつかの山の頂上には『飛行場』と記され、そこをクリックすると『ハングライダー』と表記された。
山の中腹にはグランピング場やアスレチック施設がいくつか点在している。
「どうする?」
虎太郎がもう一度訊くと、
「少し歩きたい」
舞香は一歩、二歩と地面の感触をしっかり確かめるように歩いて、くるりと振り向いて笑顔を見せた。
「そうだな」
虎太郎も笑顔を返して、
「大丈夫か、久しぶりだけど」
舞香と肩を並べてゆっくり歩いた。
「うん。昔の記憶が残ってる。それに、毎日イメージし続けてきたから」
「毎日……」
虎太郎は胸がチクっと痛んだ。
「そんな顔しないで」
舞香は笑いながら虎太郎の頬を人差し指で突っつく。
「コーちゃんには感謝してるんだから。コーちゃんと一緒じゃなきゃ、ここに来る勇気は持てなかった」
「そう言ってもらえるとうれしいよ」
「それから、手術を受ける決心もついた」
「本当に?」
虎太郎は驚いた。ニーベリアにいる間、時間をかけて説得するつもりだったのだから。
「うん。現実の世界でもこうして自分の足で歩きたい」
「よかった。おばさんたちもよろこぶよ」
何よりの土産ができたと虎太郎は心が軽くなった。
「その代わり、コーちゃんにも約束して欲しいの」
「約束?」
「また、サッカーをやって」
「もう無理だよ。ブランクがあり過ぎて、練習についていけない」
虎太郎は小学生の時、地元のサッカークラブのエースストライカーとして活躍していた。舞香がケガをするまでは。
「だったら、サッカーじゃなくてもいい。とにかく、コーちゃんが好きなことをして」
「好きなことか。……特にないな」
「じゃあ見つければいい。約束してくれなきゃ、わたしは手術を受けない」
舞香は虎太郎の行く手を遮るように立ち止まり、怒ったような、泣くのをこらえるような真剣な眼差しを向けてきた。
「わ、わかったよ。何だよ急に、そんなムキになって」
「急にじゃない。ずっとだもん」
舞香の表情は揺るがない。
「じゃあこうしよう。指切りげんまん」
虎太郎が小指を突き出すと、
「大丈夫。コーちゃんは一度言ったことは必ず守るって知ってるから」
舞香はやっと微笑み、
「あっ、あれ乗ろうよ」
急に子どものように無邪気な声を出して、スワンボートの停留所へと駆けて行く。
何だかなぁ、と翻弄されて戸惑うも、舞香が元気を出してくれて虎太郎はうれしく思った。
その反面、舞香の手術が成功したら自分たちの関係性は変わるのではないかと思い、微かな寂しさを感じてと、複雑な感情を抱くことにもなった。