97.どっちが大切?
「地下、ですかー? いいえ、ステイラバートに地下施設は存在しませんがー……」
若いうちに国を飛び出し、地方線をも越えてメギスティンに流れ着き、ステイラバートで勤続三十年。そんなベテラン教員であるところのクアラルブルは、それだけ長くいるこの学校に『地下はない』と言い切った。……うん、予想内の反応だ。
「ところがあるんだな。明らかにこの島の下部には何かが眠っている……探知してもそこだけぽっかりとなんの反応もないからね」
そもそも。スロープ状の長い長い橋(正門と裏門に繋がるふたつだ)でしか通じていないこの学院島が、即ち小高い山のような形状になっていることは言うまでもない。さすがに敷地内は平地に整えられているものの、本来なら必要のない高さが生まれているのは確かであり、では稼いだ高度をどう役立てているのか? そう考えたとき、空白地帯である地下にこそ何かしらが隠されているのではないかと行き着くのは自然なことだった。
「探知というのは【ディテクト】や【エコー】のようなものですかね? それなら何もない場所を探っても当然に反応はないと思いますがー」
「一般的な探知系の呪文とは少し違うかな。俺がやったのは感覚の拡大だからね……たとえ探るべき対象がなくともそれ相応の感応はあるんだ。ところがここの地下からはそういった『何もない反応』すらもない。これはおかしなことだよ、クアラルブル」
「はー……」
感心したように息を吐くクアラルブルを前に、俺は軽くこめかみを掻いた。予想していたこととはいえ彼女からまったく情報を得られないとなると少しばかり困ってしまうな……他に伝手もないからして。と、そうやって考え込んで無言でいることにクアラルブルは恐縮したのか、ぺこりと頭を下げた。
「お役に立てず申し訳ないですー」
「謝る必要はないけどさ。でもそうだな、こうなると決断すべきなのかもしれないな……クアラルブル、確認させてほしい。これは重大なことだと心得て答えてくれ」
「はいはい、なんなりとー」
「俺とステイラバート、どっちが大切?」
「えー……っと?」
「流れ者でも立派に聖職を務めている君だ。きっと教師という仕事が天職なんだろう……そう理解した上で訊ねている。つまり、俺のせいでこのステイラバートが駄目になってしまうと君はどれくらい困るのかって意味だが」
「……駄目に、してしまうんですかー?」
「もしもの話だけどね。実際に生徒として通ってみてステイラバートが価値ある学校だということは重々に承知できた。けれど、どうしても興味が勝つ。俺は俺のためならこの学校がどうなってしまっても構わないと思っている。無論、積極的にどうこうしようってことじゃない。結果的にそうなるかもしれない、ということが言いたいんだ。そして可能ならば君にその手伝いをしてもらいたいとも思っている。どうかな? 君の人生設計はやはりどうしても、学術院がないと立ち行かないものなのかな? だとするなら俺もやり方は選ぶよ……ああ、変に難しく考えないでくれ。これは本心であって捻くれた脅しの台詞じゃあない。だから君も自分に正直になればいい──さあ、どっちだ?」
俺を優先するか、ステイラバートを優先するか。仮に後者だとしても俺はちっとも構わない……いやそうなるとやりたいことができなくなるので大いに構いはするが、だからとてクアラルブルを咎めたりしない。まずもって現役職員がここまで協力してくれただけ望外のことなのだ。学校に害が及ぶようなら手を貸せない、と言うのであればそれもよし。あるいは俺の言葉を信用できずこの瞬間から敵に回る、という過激な選択をしたとしても、それも彼女の選択だ。尊重しよう。ただしその場合は記憶操作の餌食となってもらうけれども。
さて、どちらを選ぶのか。呆気に取られた様子のクアラルブルの返答をしばらく待っていると、おもむろに彼女は口を開いて言った。
「何をされるおつもりなのかは杳とわかりませんがー」
「うん」
「私としては、次の職場をご用意いただけるのなら今の職場がどうなろうと痛手ではないですねー」
「うん?」
これはまた、意外な言葉を聞いたな。思わず驚いた俺に、クアラルブルはいたずらっ子めいた所作で口元に手を当ててくすりと笑った。
「この仕事も楽しくはあるんですけどねー。物を教えるとか、生徒を育てるとか。そういうのが思いの外性に合っていたものですから、ずるずると三十年も続けちゃいましたけどー……当初の予定ではすぐにここを出ていくつもりだったんですよ? 最初の五年は非常勤でしたしねー」
「流れで、か。だけどそれこそ愛着あってのことだろう? 待遇に不満があるわけでもなし。どうしてそこまで転職に前向きになれる?」
「楽しかったからなんとなーく続けた。なら、もっと楽しそうな職場があればそちらに移りたいと願うのはそんなにおかしなことですかー?」
「……なるほど」
ということは要するに、彼女もイーディスと同じなわけだ。ステイラバート所属の肩書き以上に俺の──『始原の魔女』の配下という肩書きに価値を見出し、それを欲していると。明言こそしていないがクアラルブルもまたイデア城での勤務を希望していることはひしひしと伝わってくる。とくれば、万が一にも彼女がここで働けなくなってしまった際にはその席を用意してやることが俺の義務だろう。まあ、あくまでこれは現時点では「もしも」の話だが……しかし。
「こう言ってはなんですけどー、イデア様。私は東方の出身なんですよ? イデア様と職場のどちらが大切かなんて答えは決まり切っているじゃないですかー。そもそも比べること自体がナンセンスです」
うふふ、と。普段よく見る目付き。モロウやフラン君が俺に向けてくるそれによく似た色がクアラルブルの瞳にもじわりと宿った。ごく一瞬だったが見間違いなどではない──魔法使いにしては珍しく俺にフランクな対応を取ってくれる彼女だが、しかしてその内面はあの二人、そしてイーディスに近しい『狂信者』側だったようだ。
いくら東方出身だと言ってもそれだけでこうはなるまい。モロウ、フラン君に共通するのは幼少期に親から始原の魔女についての布教と刷り込みが行われていたことが挙げられる。イーディスに関しては俺自身がそれをしたようなもので、つまりはクアラルブルもまた、彼女の人格形成の期において何かしらのことがあって強烈なまでに俺を支持するに至っていると考えられる……と言っても別にそこを解明したいわけじゃない。過去に何があろうとも現在の彼女が俺に忠誠心を誓ってくれていること、それだけが重要だ。
「そこまで言ってくれるのなら覚悟ありと見做してもいいかな?」
「はーい、なんなりと仰ってみてください。できる範囲で頑張っちゃいますからー」
「できる範囲でね……ふふ」
気負いを感じさせないその言い草になんだか可笑しくなるが、しかし当たり前だな。人ができる以上のことを望んだって命じるほうも命じられたほうもいいことなんてない。やれるだけをやればいいのだ、仕事なんてものは。そのほうが俺も気が楽なことだし。
「頼みたいのは陽動だ」
「陽動」
「うん。どこぞに必ずあるだろう入口を探し出して、単身地下に潜ってみようと思っていてね。ただし、それをすると俺はどうしても院長もしくはルナリスに見つかってしまうだろう」
真実そこに隠匿された物があるとするなら、夜行館がそうだったように。そして夜行館以上の密度の魔法的防衛機能がそこに働いているであろうことは疑うまでもない。ルナリスという魔女が聞きしに及ぶ通りの性格をしているのなら尚のことだ──故に。
「どうせバレてしまうなら派手にいくべきだ。魔法使いの戦い、その基本はリソースの削り合いにあるからね」
「なるほどー……私に、本命を通すための二の矢になれと仰っているんですね?」
「その通り。他の場所でも騒ぎが起こっている中でなら多少なりとも俺の強行突破が楽になる。運が良ければ素通りもできるかもしれない……なんていうのはさすがに望み過ぎだと思うけど、そうでなくても警備の目を他所に向けさせておくのはやって損のない手だろう」
島内に常駐している警備員たち、だけではなく。有事の際には市内のほうからも応援が駆けつける手筈になっているとのことなので、それが押し寄せてくるのを防ぐ意味合いもある。俺の邪魔さえしないのであればどれだけ大人数の守衛がいたって構わないのだ。むしろ騒ぎが大きくなればなるほどこちらとしてはありがたい。
「クアラルブルは職員棟にでも仕込みをしてもらおうかな。そして三の矢として君だけじゃなくイーディスにも手伝ってもらうつもりだ。地下へは同調せずに俺自身で目指すから、その間に彼女には本校舎に火でも付けさせよう」
「わあ、それはまた……イーディスさんからも承諾は得られてるんですかー?」
「その点については心配ないよ、これは彼女に後押ししてもらったようなものだからね。俺が言えばイーディスはどんなことだって喜んでしてくれる」
「そうですか、ならいいんですけどー」
あ、でも。と何かに思い至ったのか、クアラルブルはそこで急に眉根を寄せた。
「果たして私とイーディスさんが陽動足り得るかの不安要素はありますねー。というのも、学院常駐ではないんですが一人とても凄腕の警備員がいましてー……まだ入って数年の新人さんなんですけど、以前にご挨拶したところ私の見立てでは」
「見立てでは?」
「戦っても数分と持たないだろうな、とー……勿論、私のほうがですけど」
「へえ。それじゃあそいつに見つかってしまえばその時点で君たちは終わりか」
クアラルブルの実力かどの程度かと言うと。実戦の様を目にしていないのでこれも見立てではあるが、それなり以上に高いように俺には思える。具体的には、そうだな。例えばうちではモロウを除けば、フラン君に勝てる者は誰もいない。そのモロウだって初手に肉体の操作権を奪う以外で勝ち目はなく、戦闘らしい戦闘が成立しないのだが。しかし、その例にクアラルブルも加えるのであれば──彼女ならおそらくフラン君とも互角以上に戦えるだろう、と俺の感覚は告げている。
エリート校中のエリート校で長年勤めている経歴は伊達ではなく、彼女にはそれだけの強さがある。そんなクアラルブルが謙遜でも弱気でもなんでもなく、単なる事実として己では数分も戦えないと断定できてしまうような相手とは。
「ふふん、それはそれで面白いじゃないか。俄然その新人警備員君にも興味が湧いてきたよ」




