72.黒鉄の魔女
あらゆる理屈と常識を飛び越えてそれを瞬間的に把握できた魔女とは違い、彼女以外の者たち──居館内にて政務作業に没頭していたセリア、モロウ、ダンバス、ミザリィ。その小間使いとして執務室との往復を繰り返すマニ。そして二度目の個人授業によって昏倒し療養中のフラン。人外めいた直感力を有しない彼女らは故にその時、何が起きたのかまるで理解が及ばなかった。
作業の手を止めるよりも早く始まった連鎖的な崩落。天井も壁も床もまとめて落ちていく。耳を掻きむしるような轟音と内臓が浮かび上がる浮遊感。それらに魔女ならば覚えない人らしい恐怖を覚えつつ、しかしこの全員が人ではあっても常人ではなく魔法使い。急転直下の異変にも対応せんと自分にできることをやろうとして──、
「……っ?!」
魔女の部下という立場が立場なだけに突発的事態への備えは常にできているセリアたち。混乱の中にあっても咄嗟の行動として彼女たちは最速かつ最適なものを各々導いていたが、けれど。魔法によって解決を図ろうとしたその身を、不意に頭の天辺からつま先まですっぽりと水色の何かに覆われたことで呪文を唱えるどころではなくなってしまった。硬く柔らかいそれがなんなのか正体を知る前に、まるで倒れ伏すように沈む建物。その振り落ちる瓦礫に埋もれて一同の様子は確認できなくなった。
◇◇◇
「………………」
眼下を見つめる眼差しに温度はなかった。建物にも規格で劣らない巨大な槍を投擲し、見るも無残な惨状を作り上げておきながら彼女には一切の感情も感慨も湧いていない。
──否、そうではない。平坦で色味がないように見えるその冷徹さは表面だけのもの。冷えた鋼のような瞳の奥には確かな憤りがぐつぐつと煮え滾っている。さながら溶鉱炉の如く鎮まりを見せないそれは、建築物ひとつを潰した程度ではまったく満足できない彼女の怒りの激しさを物語っていた。
「──?」
ゆっくりと首を傾げる。他人の棲み処に、それも一国の主たる者の城に襲撃をかけたのだ。報復行為がすぐに行われるものと予想し、こうして待ち構えているところだというのに……一向に反撃の気配がない。
巨槍の一撃には殺意を込めた。が、それは何も主敵たる城の主を殺せると期待してのことではない。不意打ちの一発だけで仕留められるような魔女など魔女とは呼ばれない──故に、なかんずく彼女が奪いたかった命は居館に詰めているであろう城主の臣下である。魔女ならば死なずとも、魔女でない者たちならば死ぬ。その単純な計算には単純だからこそ計算違いが生じる余地などないはずだが。
瓦礫の山。その隙間から滲み出る、水のような──粘液のような何か。その粘性物体に吐き出される幾人かの人影を見た彼女は合点がいったことで傾げた首を元に戻し、代わりに眉をひそめた。どういう魔法かは知らないが間違いない。あれは魔女が城に施した防衛機構の一種だ。槍の着弾と同時に粘性液が建物内のどこぞから飛び出して働き、思いのほか少ない、あるいは臣下においても特に重要な人物だけを崩落の衝撃から守ったのだろう……。
粘液の中から吐き出されたどの人物においても傷らしい傷を負っていないことからそれを悟って、ならばと。上層階を貫き地下にまで深々と突き刺さっている巨槍を操作し、駄目押しの一撃を加えてやろうと彼女は手を動かして。
「おい」
穂先で横薙ぎに瓦礫を浚い粘液ごと人間たちを磨り潰す──のを中断。背後から聞こえた声に反応し素早く振り向き、そして視線がかち合う。
「…………、」
黒い、どこまでも黒い洞のような瞳。その双眸を向けられた多くの者は恐慌に苛まれる。心の内にやましいところがあれば尚のことその傾向は強くなるものだが、けれど。予告なしの拠点襲撃という無礼どころではない蛮行を仕掛けておきながら、しかし彼女には目の前の魔女に対する恐れや怯えなど一切なかった。悠然と構え、何かを口にしようとする黒い魔女の言葉を待つ。
「やってくれたな。本殿よりもよっぽど大事にしている建物だっていうのに、おかげでまた仕込み直しじゃないか……メナティスを使ったエアバッグならぬアクアバッグ。完成したてだったんだぞ? ──いや、完成前に来られていたほうが困っていたのか。じゃあそれを責めるのはお門違いだな……でも。無駄な仕事を増やしてくれたことに変わりはないものな」
「…………」
「で、お前は誰なんだ?」
「ディータ。得られた字は黒鉄」
「ふうん、黒鉄。『黒鉄の魔女』ディータか」
自分を知っていたのか、それとも状況判断の推測か。ともかく質問を重ねることなく納得を見せた彼女に、ディータは自らも問いかけた。
「『始原の魔女』。覚悟はできている?」
「なんの覚悟かな」
「お前は『魔女会談』の十二箇条をふたつも破り越権行為を犯している。そのうちのひとつ、魔女同士の相互不可侵を守らなかったこと──今から後悔させる」
「んー……一応訊きたい。お前の担当地方と、俺の越権というのが何を指したものなのか」
「南方。私の物である南スエゴスヴェリカにお前が支配の手を伸ばすことは甚だ不当。……私は十二箇条を破らない。それは私が持つありとあらゆるものを他の魔女にも固く侵害させないため」
「つまり?」
「つまり。破った者には容赦をしない」
巨槍が瓦礫の山から引き抜かれ、その向きを反転。膨大な質量を感じさせない速度で重力に逆らって突き進み、瞬く間にイデアへと到達した。刺さる、どころではなく矮躯が消し飛ぶに相応しい宣言通り情け容赦なしの一撃。どんな盾も貫く絶倒の矛。
しかしそれを、イデアは素足で難なく受け止めていた。
「……!」
「後悔させる、ねえ。今まさに少し前の安易な決定を悔やんでいるところなんだが。それで留飲を下げてはくれないんだろう?」
「当然」
「だったら仕方ない。──俺もお前にノックのやり方を教えてやる」
巨槍が消失する。まるで初めからそんなものはどこにもなかったかのように。
異名の由来でもある黒鉄は『魔力の物質化』をより先鋭化した独自の技能によるもの。重く大きく、そして他者からの干渉を受け付けない。それは物質化という手段そのものが持つ特性ではあるが、ディータの黒鉄にはたとえ同格たる魔女を相手にもその魔力を突破できるだけの特大の力があった。
それが当たり前のようにかき消されたのだから用心もする。ディータは飛び退いて距離を取りながら再生成を実行。そこに巨槍以上の圧縮をかけ、しかし巨槍を越えるほどに巨大な剣を作り出す。山脈すら断ち切るに不足ないであろう、城だけでなく王都とそこに住まう全市民を巻き込むことに一切の躊躇がない一振り。その明らかにやりすぎな大きさに呆れながら、振り下ろされる白刃ならぬ黒刃にイデアは手をかざした。
「おっ、と!」
先と同じように受け止めて、解す。そのつもりで伸ばした手に降りかかった想定を超えた剣圧にイデアは下方に押し込まれ──かけたのをどうにか留まり、魔力による介入を急ぐ。巨槍よりも遥かに堅固な巨剣をそうやって霧散させたところで。
「かっ──」
その腹部に蹴りが突き刺さった。黒鉄の足鎧に覆われたディータの足によってくの字に折り曲げられたイデアの体が、続くガントレットに包まれた右拳の殴打によって上空へ打ち上げられる。遠ざかっていくその小さな目標へと狙い定め、ディータは再び槍を作り出した。常識的なサイズのそれは巨槍よりも巨剣よりもなお強く圧縮し限界まで黒鉄としての質を高めた物。破壊力以上に貫通力。イデアの干渉を突破することに注力されて生まれた真なる絶倒の矛が発射されて。
「!?」
命中する、という確信があったディータの目が見開かれる。素早く身を翻したイデアがその手で難なく槍を掴み、多少押されはしたもののまたしても消失させてしまったからだ。──干渉力の桁が違う。これが始原の魔女の力か、とイデアの厄介さを悟ったディータはそれに伴って「一撃に意味を持たせよう」とする思考が誤りであることも理解した。
必要なのは質ではなく、質も兼ね備えた手数であると。
「…………」
こちらを見据えながら自由落下に身を任せるイデアに対し、ディータは高度を上げていく。王都上空五百メートル。その高さで交錯した魔女と魔女は互いに動く。黒鉄の鎧を纏う両手両足で連撃を繰り出すディータ。火を噴くようなその猛攻のどれをもイデアは薄皮一枚ぶんの瀬戸際で躱し、そのついでに相手の手足、正確にはそれを守る鎧へと軽くタッチ。ふわり、と雪解けを連想させる優しさで黒鉄が解除された。
──マズい。ディータがそう思った瞬間には、彼女の剥き出しの腕にそっと指先が触れていた。
「人体魔化」
「ッ……!」
強引に。身体の裡へ無理やり侵入ってくるイデアの魔力。あたかも血液に混ざった毒のように瞬時に全身へ巡ったそれを、ディータは己が魔力を体内で乱流させることで流し去った。
「おお」
仕組みはフランが魔力暴発を誘発させたのとそう変わりない。しかしそれよりも余程に高度で自傷もない、完璧と言っていい対処法。過去に人体魔化を食らった経験でもあるのか、この場での純然たる閃きの産物か。いずれにしろ愛弟子すらも防げなかったこれを無効化されたというのは、イデアにとって端的にディータの実力の確かさが提示されたに等しく。
さすがに『魔女』、火力もなかなかだが売りはそれだけじゃないらしい。そのことに口の端を吊り上げたイデアから再度一定の距離を設けたディータは、今度は何をしてくれるのかという好奇心一色の視線に晒されていることをしかと認識しながら。
「開け、我が汪溢たる城」
ならば存分に見せてやろうではないかとふんだんに魔素を取り込み、即座に変換。渾身に魔力を練り上げ周囲へ広げ、そして物質化。その結果そこには、空中に浮かぶ黒鉄の城砦という威容。ディータの誇る絶対なる支配空間──魔女の領域が出来上がっていた。




