59.アクアメナティス
アルフの言によればリーナと移住者の男性は偶然仲良くなってにわかに急接近したそうなので──つまり互いに惹かれ合っているということだ──まさに彼女は「恋に落ちた」状態であり、人生初のそれの甘酸っぱさを堪能しているところなのだろうが、しかしそこに領主としての立場がまったく関係しなかったかはわからない。
彼女は二十代半ば、もう後半に入ろうとしている。前世の感覚を引き摺っている俺としてはまだまだ結婚に焦る時期ではないと思えるけれど、領地と家督を持つ一粒種という自覚があれば彼女の焦燥は当然だと理解もできる。何かある前に後継ぎが欲しいのだ。自分の代でオーリオ領主の家系を途絶えさせるわけにはいかない、と早くに亡くなった両親のためにも強くそう思っているであろう彼女は故に、生活に潤いの出た今だからこそ積極的に独り身からの脱却を図らなくてはならない。件の男性との出会いは偶然でも、彼に惹かれんとする恋心の裏に理性の打算的後押しがなかったとは誰にも言い切れるものではないだろう。
逆に言うなら確実にあったものと言い切ることもできないし、仮に可及的速やかに後継ぎを残さんとするシステマチックな本能が彼女の内心に介入していたとしても、だからどうしたという話でもある。恋でも愛でも人と人の関係なんて多かれ少なかれそんなものだ。互いに欲するメリットを提示し避けられないデメリットを許容する一種の契約である。この男なら夫として、そして父として不足なしとリーナが判断し、また男性のほうもそう思うのであれば本契約を交わし二人は子を授かる。受験や就職なんかと同じく人生に必要な作業のひとつだ。
もちろんそれが不必要な者も中にはいて、俺もその一人である。だから初めての恋愛体験に浮かれる彼女と一緒になってはしゃいでやることはできそうにもないが、まあ。結婚だけでなく妊娠・出産にも精一杯の祝辞は述べようと思う。
そしてできれば、毎日欠かさず黒葉の紅茶を飲んでいるというリーナ──つまりは俺の魔力の残滓を不断摂取している母体から産まれた赤子がどのような状態か手ずから調べたいところだ。それもなるべく出産直後に。しかしさすがに、まだ恋仲にも発展していないという今の段階でそこまで先の話をしては引かれてしまうこと請け合いだ。なのでその願望はまだ口にせず、あとは世間話だけ交わしてお暇させてもらう。
もう少しゆっくりしていけばいいとリーナは言うが、休憩時間に立ち寄っただけなのでそう長居もしていられない。そう返せば、忙しい中をわざわざ会いに来ていただいて感謝しきりであると恭しく頭を下げられてしまった。アルフも揃ってだ。そうやって見送られながら実は同伴させていたマニも連れて転移。王城に戻ったところでリーナの良い人を一目でも見ておけばよかったかと思ったが、別に急ぐことでもない。破局でもしない限りは彼ともそのうち顔を合わせるだろうし、何も今日に拘らなくていいだろうと結論する。
「どうだった、久しぶりにアルフに家事を見てもらって。何か注意とかされた?」
「……いえ、何も……まったく錆び付いていない、と褒めていただきました」
「ほー」
強化合宿で仕込まれたものがそれだけマニの技術となって根付いているということか。一般的な屋敷におけるメイドらしい仕事をあまりさせていないので──と言ってもそれがどんなものか俺にはアルフくらいしか判断基準がないわけだが──本分を忘れさせないためにも給仕をさせねばとリーナ邸に同行させてアルフを手伝わせたのだが、どうやらブラッシュアップの必要もないほどにマニの仕事ぶりは完璧であったらしい。
……本当か? いやそこに関してスチュアートの誇りを強く持っているアルフがなあなあの評価を下すはずもなく、そして言わずもがなマニが俺を騙そうとすることなどもっとない。彼女には首輪が嵌っているし、それがなくとも今のマニでは自発的な嘘などとてもつけやしない。ならば信じていいだろう。いよいよもって彼女は駄メイドの汚名を完全に返上したのだ、と。
「よかったな、マニ」
「はい」
もっともらしく返事をしたマニだが、何がよかったのか絶対にわかっていないな、この顔付きは。彼女にとっては俺からの言葉が全てであり、他者からの評価などたとえそれが師であるアルフのものであろうとどうでもいいと──正確にはどうでもいいとすらも思っていないはずだ。度重なる精神的負荷とそれを克服するための調整によってマニはこうなってしまった。扱いにくい部分もあるが、忠犬めいた可愛らしさを感じなくもないので、まあ良しとしておこう。これ以上いじくるのもちょっと怖いしね。
「お待ちしておりました、イデア様」
「あれ、モロウ? なんで俺の執務室に?」
政務室に新たにフランとミザリィが加わったことで手狭となり、俺の確認作業は殆どこの執務室で行うようにしているのだが。間の往復はマニと時々セリアに任せているのでモロウがこの部屋に足を運ぶ理由はない。ということは、足を運ばざるを得ない理由ができたということだろう。
「『東方連書』に関することでご判断を伺いたく」
「うん? 申請国の受け入れの是非についてはお前たちに任せたはずだろう」
どの国を加盟させるかさせないか。その判断に従うのはむしろ俺じゃないのか、と疑問を呈せばモロウは申し訳なさそうな表情と声音で答えた。
「それが僕たちだけではどうにも対応に困るものが二件ございまして……政務室で話し合ったのですが結局、ここはイデア様にご一報と共にその考えを拝聴すべきということになった次第です」
むむむ。うちの優秀な政務室でも考えがまとまらなかったものを俺に投げるというのか。それもふたつも? この時点でお手上げとしたいところだったが、けれど彼らと俺の得意とするところは違う。モロウたちには難しいものであっても俺にもそうだとは限らない──だからこそこうしてまとまらないうちから話を持ってきたのだと思うし、面倒臭がる前にまずは聞いてみようか。
「話してみるといい」
「ありがとうございます!」
低頭の姿勢で感謝を口にしたモロウは、しかし俺が無駄を嫌うことをよく存じているからだろう。ぱっと顔を上げてすぐに話し始めた。
「まずひとつが、東方最南端。つまり南方に面したとある国からのSOSとも取れる訴えがありました」
「SOSって……その国もセストバルみたいに他所から侵攻でも受けようとしているのか?」
「当たらずとも遠からずといったところでしょうか。地方線を挟み隣接している国からの圧力によって『東方連書』への署名が困難である、と遠回しに知らせる書簡が届けられております。これは実質、同盟のために手を貸してくれと暗に新王国の助けを求めているのでしょう」
「ふーむ、結局はまた国同士のいざこざってわけか。確かにこれは手を出すべきか迷うな」
東方の多くの国同様、その国も俺が望んで──というより強いて各国を立ち上がらせていると思い込んでいる様子だ。同盟という名の支配リストに署名してやるからその手助けくらいはしてくれ、なんて切実ながらも開き直った声明こそがその証拠であり、手紙の意味するところだろう。
弁明になってしまうが『東方連書』は俺の決定で成立したものであっても、その策定においてはむしろジョシュアやステイラ公の思惑が大きい。俺は彼らの不安の種であり受け皿にもなっているというだけで、重ねて言うが何も東方全域を巻き込もうと目論んでいるわけではないのだ。
このヘルプに従うと新王国のやっていることが以前ジョシュアから聞かされた帝国のそれとまったく同じになってしまう。それを良しとすべきか否か、モロウたちでは判断がつかなかったということなのだろう。
「で、もうひとつは?」
「はい、もうひとつは……僕らにとっては更に悩ましいものでして」
「なんとまあ、これ以上に? まさか圧力をかけているほうの国も何か言ってきたとか?」
「いえ、そちらに関しては今のところ何も。しかし国からの言葉であることは確かです。南端ではなく、この東方の僻地にある新王国よりも更に東。大陸の外から石板が届けられたのです」
「大陸の外から、石板が……? ちょっとどういうことかよくわからないんだが」
困惑はモロウも同じようで、彼は自分でも何を言っているのかよくわかっていないような表情で、とにかくあるがままを話してくれた。
「大陸の外に人がいるはずもなく、国の存在などもっての外です。石板には文章だけでなく国の位置を教える簡易的な図面が掘られておりましたが、地図で確認しても所在地が示された場所にはやはり海が広がるばかりで島のひとつすらもないようでした。海岸から数キロといったところでそう離れてもいないので、地図のほうが誤っているとはとても思えません。それに、海上に国があるとするのはまだしも、手紙ではなく石板で意思疎通を図る訳。それも誰に届けさせるでもなくこの城の正門に立てかけられて放置されていたのを市民が通報したことで発見されたものです。何もかもが不可解。お耳に入れるべきか迷いもしましたが、悪戯とするには手が込み過ぎていることからこうしてご報告いたしております」
石板にもっともらしく地図や文章を掘り、その中身がただの妄想であるとするなら確かに尋常ではない。よっぽどの暇人やその妄想を妄想だと理解できていない狂人の類いであればこういうことをしても不思議ではないかもだけど……。
「文章にはなんと書いてあったんだ?」
「非常に読みづらいものでしたが、『魔女とお会いしたい』と。そう掘られているようでした。差出人の名義はアクアメナティス。その者が治めるという国の名はインディエゴ、ともありました。無論、どちらも僕やダンバスには聞き覚えのないものです」
「アクアメナティス……?」
あれ。
なんだかそれ、俺には聞き覚えのある名前だな。




