57.深淵の魔女
木の上。そんな不安定な場所に片膝を立てた行儀の悪い姿勢で座る少女は、おもむろに近くの枝へと手を伸ばし、そこに実っている果実を乱暴にむしり取った。枝から彼女へと所有権の移ったサンザシはすぐに口へ放り込まれた。ガリっ、と硬いがみずみずしさも感じさせる音。しばらく口内で弄んでいた少女はやがて水分だけ嚥下し実を吐き出した。赤味がかった白い果肉が地に降り落ちる。それを横目にすら見ようとせず口元の水気を手の甲で拭った彼女の視線は、木の傍に立つ一人の男にのみじっと注がれていた。
「──報告に誤りはないんだろうな? つまり、自信を持って嘘じゃないと言えるだけの厳密な調査に基づいたものなのかって確認だが」
「ええ、勿論です。あなたは何よりも嘘を嫌う。しかし拙速を求める程融通の利かない御方でもない。ならば小生は時間をかけてでも『正確』を追求するまで……それが双方にとっての何よりの益となるのですから」
「…………」
揺れず逸れず、まるでこちらを飲み込まんとする大蛇の口を思わせる少女の瞳。そこには真偽を問わんとする確かな圧があったが、それを受けても彼は涼やかに自然な笑みを返すだけ。やがて馬鹿らしくなったように「ふん」と鼻が鳴らされた。
「信じてやるよ。オレも風に流れてきた奴の力を感じたような気はしてたんだ」
「なら何故お試しになるようなことを?」
「だから、確認だよ。いつもしてるだろう? オレに慣れられて曖昧な妄言を吐かれちゃ腹立たしいからな。そんなことになったら怒りに任せて殺してしまいかねない……なんだかんだ便利な奴だからな、お前は。なくすのは惜しい」
「そうならぬよう、肝に銘じておきましょう」
物騒な発言にも怯えを見せずに男はしかつめらしく頷いた。だが少女の目はもう彼に向けられておらず、その返事が耳に届いているかも怪しい様子だった。
「しかしそうか。奴がとうとう表舞台に立ったのか──何をしようとしてやがる、イデア。その名を明かしてまでお前が欲するものはなんなんだ……?」
誰にともなく訊ねられた呟き。それはまさに風に乗せた独り言でしかなかったが、そうとは知りつつも男はあえて彼女に言葉を返した。
「『魔女会談』に顔を出さないどころか、長らくどこで何をしているのかも不明な魔女でしたからね。賢者アーデラが遣わされていなければ我々はその実在も疑わねばならなかったでしょう」
「……つい最近までは、だろ。オレは奴のことを元々承知しているし、他の魔女連中だって存在だけは感じていたはずだぜ。この大陸の歴史に奴が残した爪痕はあまりにも大きすぎる。根城にしてるのはどうやら本当に東方の片田舎だったようだが、地方関係なくそれは否応なしに見えてきちまうもんだ。お前たち賢者程度じゃあ無理かもしれねーが」
「身につまされることです。『賢者』の称号はそれなりに重いものだと戒めも込めて自負しておりますが、他ならぬ我らを使役する『魔女』にそう言われては反論のしようもありませんね」
「しなくていいんだよ、反論なんざ。何を言われても粛々と受け入れろ。深く頭を垂れてな……それがお前の役割であり雑魚に相応しい役回りってものだ。そうだろう?」
「ええ、まさに。小生は一から十まであなた様の望む従者となりましょう──ですがこちらからも確認をひとつ。これはあなた様が調査せよと仰ったものと関わりあることでもありますので、どうかお答えいただきたく」
「なんだ、言ってみろ」
「あなた様は『始原の魔女』が名乗る以前よりイデアという名を存じておいでだったご様子。……かの魔女との間にいったい、どのような縁をお持ちなのでしょうか?」
「縁。縁ねえ……」
ボリボリ、と伸びた爪で首裏を雑に搔きむしった少女は唇をへの字にしながら考え込み。やがて先のサンザシと同じようにその口から言葉を吐き出した。
「奴とオレとの関係性。それを客観的かつ最も類似性のある、その上で反吐が出る表現で例えるなら。……『姉』ってことになるな」
「姉──ですか?」
「ああ。イデアはオレにとっちゃ血のつながらねえ姉貴ってところだ」
「…………」
「なんだよ、おい。自分から訊いといて疑ってやがるのか?」
「いえ、まさかそのような。あなた様がご自分でも嘘を口にすることを嫌っておられるのはよく理解しておりますので……小生はただ、あなた様の姉たるイデアという魔女がどういった御仁なのかますます気になった次第でして」
「どういった御仁? そんなの知ってどうする、オレから奴に鞍替えでもする気か?」
だとしたら面白い。と言わんばかりに身を乗り出して視線に圧を取り戻す少女に、男は苦笑しながら緩やかに首を振った。
「それこそまさかですね。鞍替えなど未来永劫あり得ないことです。小生はいついかなる時もあなた様の賢者なのですから──『深淵の魔女』アビス様」
始原に類する二つ名は深淵。魔女伝説に謳われる七魔女の一人、アビスはそう呼ばれた途端に獣のような動きで木の上から飛び降りた。ボリュームのある真っ白な髪が宙を踊り、枝から引っかけた緑葉もついてくるが、乱れた身だしなみなどまるで気にした様子もなく。
地へ降り立った彼女はあくまで堂々と、されど胡乱な目付きで自身の忠実なる下僕を見上げた。
「いつも言ってるだろうが……気軽にオレの名を呼ぶんじゃねえよ」
「これは失礼を。ただ小生は、お仕えするは常にあなた様一人であるとお伝えしたかったのです。誓って隔意はございません。よろしければあなた様が持つイデアという魔女の知識を、この従僕めにも分けてはいただけませんか」
「ふん……知識なんて大した言い方はできないさ。奴のことなんてこの世の誰にもわかりやしないんだから」
「しかし、姉であると称せるほどには親密だった時期もあったのですよね?」
「ちっ。だからって前言を撤回するつもりもないが……まあ、少なくとも奴は乱暴でもなければ凶暴でもねーよ。沸点だってえらく高いし嫌になるほど理性的だ。だがそれでも間違いなく、とびきり危険だぜ。てめーら雑魚にとっちゃこのオレ以上にな。そう断言してやるよ。これだけでもイデアがどんな存在かお前には充分知れるだろ」
「……ええ、よくわかりました」
確かな理解の色を瞳に宿した男は、アビスがこうまで言うのであれば中央賢者の判断も決して過ちではなさそうだと安堵する。魔女と呼ばれる人物は誰も彼もが付き合うには難儀な者ばかり。言うに及ばず自分の主である深淵は取り分け──他の賢者からすれば大いに異論ありかもしれないが──その傾向が強い。なのでどう伝えたものかと悩ましかった中央からの打診も、このぶんなら彼女の気分を害することもなさそうだと恐れることなく口にすることができた。
「調査中に、臨時会を開きたいとの連絡が小生にありました」
「臨時会だぁ? 急な『魔女会談』を開こうってのかよ。つーかまずもって定例会が臨時会みたいなものじゃねえか……連絡ってのは今回もあの司会進行役の雑魚からか?」
「はい。あなた様が賢者である小生を動かしてそうしたように、他の魔女のお歴々も独自に『始原の魔女』の動向を確かめていたのでしょう。それも加味した上で一度会する場を開くべきだと考えたのかと」
「はん。そりゃあ各々が勝手に動いちゃ収拾なんざつかなくなるだろうな。オレはちっとも構わねーが……ここは乗っといてやるか。イデアの領土の広げ方は恐ろしい。奴の賢者からの伝聞でしか知らねー連中にとっては尚のことそうだろう。急にどこぞの国を乗っ取ったかと思えば瞬く間に東方中を支配下に収めちまったんだからな。くくく、お前の報告が正確だってんなら、カッカしやすい南方の魔女なんかはとっくに頭に血を上らせてるんじゃないか? それを思えばここで臨時の会談を差し込んだのはいいタイミングだな。でなけりゃ魔女同士の戦争が起きちまいかねん。オレはそれもまた構わない──いやむしろ」
魔女戦争も大歓迎だがな、と。
輝く黄金の瞳に血の気を滾らせ、深淵の魔女はくつくつと喉の奥を鳴らした。その楽しげな様を微笑みながら見守る賢者が何を思っているのか。そんなことには欠片も興味を向けず、「いずれにしろ」とアビスは言った。
「様子見も兼ねて連中の知見を得ておくのも悪くはねえ。いくらイデアだろうとまさか考えなしにこんな真似をしているはずもねえんだからな。あの腹の読めねー厄介者が何を狙っているのか、ちょいとばかし仲良く頭を捻ってみようか──それで明らかになるとも思っちゃいねえがな」
◇◇◇
「え? それでは成り行き任せなのですか? 王国を新王国として蘇らせたのも、セストバル王国とステイラ公国の仲立ちをして同盟国とさせたのも、全ては偶然のことだと?」
「そうしたきっかけはあるけれど、全部やろうと思ってやったことではないね。だから偶然と言えば偶然で正しいと思う……別に俺に狙いなんてものはないしさ」
そうだったのですか、とリーナは感心とも呆れともつかない表情を見せる。逆なら俺だってそういう顔をするだろうな。ここまで大々的に動いておきながらその実、どの場面においても俺自身は大した決定をしていないとなれば驚かれて当然だ。着地点を選んだのは俺だけど、選ぶ必要を迫られたのは本当に成り行き上のことであるからして、明確なヴィジョンを持って行動したことなど一度もないのだ。
リーナは俺が何かしらの意図を持って国を興し、それに伴って他国も積極的に支配下へ置いているのだと思い込んでいたようだ。そして大方の国民もまた──セストバルやステイラの民も含めて──同じように考えているのだろう。が、それは大変に真っ赤な誤解である。
なんだって俺はこんなにも誤解されやすいんだろうな? なんて、その原因は最近になって段々とわかり始めてきているところだけれども。だからと言って納得できるかはまた別の話だからねえ。




