47.及第点
目は口ほどに雄弁である。見る者に空虚な洞を思わせるイデアの黒々とした瞳もそれは例外ではなく、そして彼女をよく知るノヴァだからこそ余計にその事実が突き付けられたのかもしれない。
魔法陣によるブーストで成し得た最大以上の加速。音も置き去りとなった刹那において言葉を発することは彼にも彼女にも当然できなかったが、しかし。発動と同時に魔法陣の中身を読み取った様子のイデアが、なのにそこへ介入しようとしなかったこと。やろうと思えば容易にできたであろうそれをあえて自制した彼女の思惑を、言葉などなくともノヴァには理解できた。
それはやはり誘いである。黒樹の罠に捕らえよう、というのではなく。三重加速を果たした弟子を前に彼女はそんな考えを捨て去って──無防備にもただそこに佇み、この一撃を静かに受け入れるつもりでいるのだ。
その果てに、あるいは根幹にあるものは何か。弟子の成長を見たいという先の発言通りの確認なのか、もしくは彼の目にも無策としか思えない状態でもなんらかの手段を講じているのか。いずれにしろ極限の速度に乗っているノヴァは師の不審さに気付いたとて、もはやどうすることもできない。彼はもう止まれない。止まる気もない。粛々と待つだけの師匠にたとえどんな算段があろうとも自分は真っ直ぐに進み、全力で殴り抜くのみである。
体に纏う魔力を拳の一点に集中。打撃を放つ一瞬に走力とのトレードを果たし、腕力の強化へ注ぎ込む。音越えの速度と相まってシビア極まりないその魔力操作も完璧に果たした彼は、最大最強を自負できる一打を魔女へぶつけた。
「──!」
師は、最後まで何もしなかった。守ることも避けることもせず、弟子の一撃を待つのみだった。そうしてその身に突き立ったノヴァの拳は──紙を突き破るアイスピックも同然に容易くイデアを貫通した。障壁どころか魔力すらも用いずまさしく生身のままにそれを食らった少女は、鮮烈な痛みに顔を歪めた。
ごぼり、と大量の血を口から零す敬愛する師匠の姿。自分がそうさせたというのに、それを目の当たりとしたノヴァの動揺は凄まじかった。
「お、お師匠……」
胸骨を砕き、心臓を潰し、脊髄を貫いた。そのひとつひとつの感触を味わったわけではないが、しかしノヴァは確かに感じた。彼女を殺したという絶対に味わいたくなかった手応えが彼の手の中にある。
いや、そんなことはあり得ない。師には再生能力があるのだから。どういった魔法か弟子たるノヴァにもまるで不明な、一種の呪いめいた不死の力。事故で自らの頭を吹っ飛ばしておきながら瞬時に元通りとなってけろっとしていた当時のことを思い出せば──大泣きする自分と姉弟子に彼女が珍しく困っていたことをよく覚えている──たとえ心臓が潰れたところで大した痛手ではないはずなのだ。
それがわかっていたからこそ容赦なく攻めたし、ここから更なる追撃を見舞わせようと目論んでいた。だからノヴァがすべきは動じることではなく動くこと。突き刺さったままの左腕をさっさと引き抜き、次なる攻撃へ移らねばならない。そうして再生が追い付かなくなるぐらいにダメージを与えねば自分に勝ちはないのだから。
「え……?」
修業時代、あっという間に自分よりも小さくなった師匠の矮躯。その細く頼りない肉体に己が拳が刺さっているという状況は彼の内心に想像以上の衝撃をもたらしたし、血を吐く痛ましい姿には思うところもあったけれど、それでも予定した通りにノヴァは追撃のため腕を抜こうとして……抜けない。ぎっちりと肉に挟まれている──否、掴まれているかの如くにビクともしない。
おかしい。貫く際にはなんの労もなかったというのに、その拳を引き抜くのにこれだけ苦労するとはどういうことなのか。などと考えるまでもなく。
「っ、あんたまさか──!」
「ああ。癒着した。これで俺たちは一心同体ならぬ、二心同体ってわけだ」
血の泡を吹きながら、けれど魔女はにこやかにそう言った。痛みがあろうに、呼吸もできていなかろうに、なのに彼女は心臓も脊髄も壊されたままで静かに弟子の顔を見上げ。
優しくその頬を撫でた。
さらりと落ちる指先の感触に、ノヴァは小さく背筋を震わせた。
「強くなったな、ノヴァ」
「なんの、冗談だよお師匠。わざと食らっておきながら……」
「魔力でも黒樹でも捕まえるのには一苦労って感じだったからね。ちょっと狡いことさせてもらった。だけどまあ、危惧すべきだったと思うぞ。俺に触れられることのリスクを承知しているなら、なおさらな」
こんなの危惧しようがない。傷口と敵を合成することで動きを封じようなどという発想は師匠にしかないものだ、とは思ったがそんな指摘をしたところで彼女は経験不足だと嘆息するだけだろう。それも癪なのでノヴァは黙るしかなかった。
それにうっかり口数を多くすると、思ったよりも平気そうにしている師匠の無事を喜んでいることが彼女にバレてしまいかねない──。
「──一体化してると言ってもだ、お師匠。この腕を捨てるつもりでもっと力を込めればどうなんだ? 俺も無傷じゃ済まないだろうけど、案外すっぽりと。お師匠の体の中ごと引き抜けたりするんじゃないか?」
「やってみればいい。それができると思うならな」
「……、」
「……」
無理だ、とノヴァは試すまでもなく直感する。それは諦観ではなく単なる事実としての認識。先程はほんの僅かな接触だけで右腕が犠牲になったのだ。この状態から脱するまでに要する時間も、全力でただそれのみに集中すればそう長くはかからないだろうが。しかしこの魔女を前に差し出す時間としては致命を通り越してもはや絶命しているにも等しいものとなる。
つまり詰みだ。ここからよーいドンで始めても自分は絶対に勝てない。そうとわかっていながら彼は──短く息を吐き。腕に、脚に力を込める。その瞬発力を活かし瞬間的に少女の肉体に取り込まれた左腕を解放せんとして。
「かっ……、」
みちり、とツナギの奥にある魔女の柔肌が悲鳴を上げたところで彼の視界は暗転。腕から全身に回った他者の魔力によって何もかもを掻き乱され、快と不快の両方を堪能しながらその意識を途絶えさせた。
◇◇◇
「……ふむ。こんなものかな」
ノヴァの敗因はいくつかあれど、その全ての元凶となる主だったものをあげるならやはり。『戦法の固執』こそがそれに当たるだろう。
まあ、高速の格闘戦に持ち込もうという発想は悪くない。俺がそういう戦い方と無縁であることを踏まえた上で選ばれた作戦だけあって、確かに効果的だった。実際初めは手も足も出なかったしね。ノヴァも以前は身体強化が得意ではなかったはずだが、この飛躍ぶり。独り立ち後にも修練を欠かしていなかったことが窺えて師匠としては嬉しい限りだ。……まさかいつか俺と対峙すると見越して重点的に鍛えていたとかじゃあないだろうな? だとしたらさすがに悲しいのだけど。
ともかくそれが良い発想だったことは間違いないのだ。が、それだけに頼ろうとしたのが良くない。新戦法に二の矢三の矢まで用意しろとは言わないが、機動戦と並行して呪文を駆使するくらいのことはすべきだったな。ノヴァもただ速く動き回るだけじゃなく、魔力で武器を持ったり魔法陣を仕込んだりと最低限の工夫はしていたが、それらも結局は速さ一点を活かすためのもの。ひとつの策をとことんまでサポートするためのものであり、それは翻って速さ自体が武器にならなければ全てが無為に帰す危険性を孕んでもいる。
あれだけの高速駆動だ。本人もそれの維持に精一杯で呪文戦にまで気を回せないのが現状なのかもしれないが──わざわざ魔法陣を用いたことからもそれはほぼ確定だろう──だとしたら実戦に耐えうる戦い方ではない、と言わせてもらおう。
魔法使い同士の戦闘は結局のところ、リソースの削り合いだ。対処が追いつかなくなったほうが負ける、目には見えない盤面の取り合い。その単純ながらに複雑なルールがあるため、通常は相手が平静を保っていられない状況に陥らせることが最適な一手となる。セリアに対し奇襲をかけて呪文の詠唱を封じたというミザリィのやり口がまさにそれだ。飽和攻撃を仕掛けて自身のリソースまで削りながら実現させるよりもよほどそのほうが手っ取り早く、そして危なげなく勝利を我が物とできる。
その例から言うと、速度特化によるタコ殴り。それだけで俺からある程度の余裕を奪ってみせたノヴァは実に正々堂々としている。相手の苦手とする戦いに持ち込むことも立派なリソースの削りの内ではあるけれど、それにしたって男らしい選択ではあるだろう。男らしすぎてちょっと単調が過ぎた感もあるが、そこを減点したとて。一応は合格点をやってもいいんじゃなかろうか。
この戦法を伸ばし、機動戦と呪文戦を両立できるようになればノヴァは確実に一皮剥ける。末弟ながらに二人の姉弟子にも負けない一流の魔法使いになれるだろう──たぶんね。今はまだ及第点しかあげられないけれど、そうなってくれたらいいと思う。なんだかにわかに残る二人の弟子の様子も気になってきたな……取り立てて探し出そうとも思わないけども。ウザがられたりしたらショックだし。
「よっと」
気を失ってもたれかかってくるノヴァの体を持ち上げて、癒着を解除しながらその腕を体内から引き抜く。少女の肉体とはいえこれくらいのことは強化なしでもできるよ? おっと、俺の血がノヴァの顔にかかってしまった。さっさとこの穴は塞いでしまおう。
付いた血を落としながら、ノヴァの心身を乱している俺の魔力を散らして整える。ついでに傷でもあるならそちらも治そうと思ったのだが、どこにもそんなものはなかった。うーむ、負傷の量や重度さで言えば俺のほうがよっぽど負けているな……どうせ死ぬこともないからとテキトーに戦うのはあまりよくないかな、とノヴァの恐れを抱いた表情を思い出す。いやまあ、それを狙っていなかったと言えば嘘になるけどね。自分から挑んでおきながら師匠の身体をぶち抜いたくらいで動揺するほうがおかしいのだ。そういうところがノヴァの可愛いところでもあるのだが。
石畳の上は寝苦しいだろうからとりあえず膝枕をしてやって、俺は彼が起きるのをのんびりと待つことにした。




