46.尊敬すべき先達
イデアとその周辺をすっぽりと覆う魔力。これは檻にして澱。ひとたびそこへ足を踏み入れれば彼女の魔力に絡め取られ、落ち潰され、物言わぬ骸へと成り果てるだろう。脆弱な者はその運命に決して抗えない。
無論、そんな空間へ自ら突撃しようとしているこのノヴァは斯様な弱者ではないが、しかし濃密に充満した魔力の圧から逃れる術がないという意味では彼もまた同じだった。どうしたところで高重力下の如き影響を受ける。強化された身体能力を以てしてもその足が鈍ることは確実で──故に魔女は、待ち構えていたところに真正面から。特になんの工夫も見られない状態で弟子が近づいてきたことに興味深げにしながらも、大人しく彼の侵入を待って。
「っ……、?」
そこを捕獲しよう、としたところで彼の姿を見失う。と同時に衝撃。殴られた。そう理解しながら自らの魔力の中を縦に一回転、衝撃を散らして着地。汚泥にも似た魔力を展開しているからこそできるその奇妙な技術でせっかく用意したフィールドから叩き出されないようにしつつ、首を傾げる。どうして自分はまた殴られてしまったのか。それをさせないための檻だというのに……?
「っぐ、……ごっ、……が──」
侵入から脱出までをイデアの目視できない速度で駆け抜けたノヴァが方向を変えて再び侵入。そして殴打。それを三度、四度と連続で食らったことで少女はなるほどと勘付く。要するにこれは、三味線を弾かれていたのだろう。
(さっきまでは最高速じゃなかった、と)
あたかも最初からトップスピードかのように苛烈に襲い掛かりながら、その実ノヴァは速度を意図的に緩めていた。高速機動を武器とすればイデアが何かしらの手段でその優位を打ち消そうとしてくることが読めていたからだ。だから最速を見せるのを控え、その切り所を今とした。それを出すのは魔力の檻への侵入後から脱出を果たすまでのごく短い時間だけでいい。その限定的な加速によって彼は実質、魔力圧の影響を受けながらも速度を落とすことなく動けている。
抑えた速度ではイデアの知覚速度をギリギリで抜けないことは証明済みだが、彼女はノヴァの動きを視認しているのではなく魔力の動きを追って感覚で捉えている。イデアにとってこれは目に頼る以上に確実な捕捉方法ではあるものの、自身の魔力を際限なく垂れ流している今は精密さが売りの魔力察知にも陰りが出ていた。有り体に言って邪魔なのだ、ノヴァの魔力をも包んでしまう自分の魔力が。
結果的に魔力の檻はノヴァばかりを有利にさせている。そうと気付いた魔女は。
「!」
ずん、と魔力が沈み込む。局所的な別世界を形成していたイデアの領域が綺麗さっぱりと消え去り、元の静謐な神殿跡地に戻る。しかし目の前から力場が消えたと言ってもなくなったわけではないのだ。そしてこの場合は魔力の去った場所が何よりも問題だった──地面。この石畳よりも更に下にある大地。魔力はそこを侵すように浸透していった。思わず足を止めて足元を窺ったノヴァの予感に過たず、地響きを伴ってそれは現れた。
「お得意の黒樹か……!」
石畳を突き破り勢いよく生えてきた黒い樹木。イデアが好んで様々な材料の元にも使用しているそれは、まるで彼女の意思が具現化されたかのように奔放かつ異様に伸縮する。実際はただ生え方・伸び方に意図的な指向性が介入しているだけなのだが、触手の如きその枝が自らに向かって迫ってくる様を眼前にしたノヴァにとっては己を食らわんとする怪物の牙にも等しかった。
前方だけでなく背後、そして真下からも出現した黒樹の群れから逃れつつ、身に纏う魔力の一部を固める。腕から伸ばしたそれはブレードの形をしていた。魔力操作の一技術によって作り出されたその武器を振るい、目の前に進むための道を切り開く。形状を自由に定められる剣はこういう場面にいい。魔力の物質化で生み出された武器と違って敵が魔法使いであった場合その干渉を受けやすいという欠点もあるが、より素早く手元へ用意できる利点は足を止められないこの状況では打ってつけだった。
しかし黒樹に囲まれたからには──イデアの姿もその奥に隠れてしまったために──無作為に前進してもいいことなどないだろう。ならばひとまず黒樹の出現範囲外へと出よう。そう考えていたところに、ぬっと。進む先から突如として顔を出した自らの師を見てぎょっとし、咄嗟にノヴァは魔力剣を突き出した。
「ふふ──」
だが、軽くそれを掻い潜った彼女に懐へと入られてしまう。剣が霧散する。触れもせず、見向きもせずに消された。そのことに瞠目しつつ、されどノヴァ一番の動揺は魔女の行動の的確さにあった。
先回りされたのも、剣を避けられたのも。全て読まれていたからこそ許してしまった先手である。彼女の動きにあるのは速さではなく早さだ。自分が逃げようとする方向や、驚いて放つ思考を介さない反射の一手すらも魔女には当然のように見えているのだ。それを黒曜石めいた瞳が可笑しそうに歪むのを間近とすることで理解したノヴァが、何かを言う前に。
ぴたりとその腕にイデアの手が添えられた。
「まだまだだな、ノヴァ」
「ッ──!」
弾かれたように吹き飛ばされるノヴァ。否、飛ばされたのではなく彼は自らそうしたのだ。そうやって魔女から距離を取り死に物狂いで蠢く黒樹地帯より脱した彼は、惜しむように届きもしない枝を伸ばしてくる木々の貪欲さを遠目にしながら荒くなった息を整える。そしてそっと確かめる──しかし、確かめるまでもなく。
魔女に触れられた右腕は動きそうになかった。
魔力を注入された。イデアが得意とするエイドスの魔力を用いた魔化は、強力過ぎるが故に人体には直接的に行えない制約があるが、それは人命を慮るからこそ生じるもの。害して構わない場面において、つまりは敵対者に対して行う場合に限って言えばその制約は立派な攻撃法にも昇華されるものだ。
たった一瞬。接触の瞬間にはもう脱するために動いていた彼だが、それでも今の今まで剣を振るっていた右腕はもうただの荷物へと成り果てていた。無理矢理混在させられた魔女の魔力を吐き出すことは可能だが、それには時間がかかる。今すぐに、それも戦闘継続中にどうにかできるものではなかった。
文字通りの片手落ちで戦うことを強いられたノヴァは、「ハッ」と唾でも吐き捨てるような調子で笑う。
──これだから師匠は。身体強化には防御力を引き上げる効果もある。魔力が鎧代わりになるのだから当然、対物理対魔法を問わずにある程度の身の守りが保障されているのだ。そして理想世界より引き出した常人には扱えない高次の魔力でそれを行っているからには、防御性能もまた通常の魔力による強化とは比較にもならない。……そのはずがこれだ。
何百年と研鑽された技術によるものか、はたまた単に存在の格が違うとでもいうのか。なんにせよこちらの意思も防御もまったくお構いなしにこんなことをされては堪ったものではない。あとほんの少しでも長く魔力を注がれていれば全身がこうなって決着していただろう。その光景が途轍もないリアリティを伴って想像できるだけに、ノヴァは冷や汗を止めることができなかった。
「!」
そんな彼の僅かな委縮を敏感に察したか。あるいは片腕を封じたことでもはや恐れるものなしと見做したか。静かな歩みで黒樹の小さな森から出てきたイデアは、その姿を見せつけるように真っ直ぐノヴァを見据えた。
確かに肉弾戦に勝機を見出している彼にとって利き手が使い物にならない現状は窮地と言って差し支えないだろう。本来魔法使いであれば片腕の有無など大した問題にもならないのだが、オーソドックスな魔法戦を避ける都合上この負傷は間違いなく重い。だからと言ってここで方針転換し火力戦を演じようとするのも悪手と言う他なく、どこまでいってもノヴァはイデアからの反撃を許してしまった己の迂闊さを呪うしかない。
だから彼は笑ったのだ。自分の至らなさと、そして師の凄まじさ。その双方を改めて思い知らされた。離れて対面しては死路となり、されど近づくことも活路とはなり得ない。なんと厄介な相手で──なんと尊敬すべき先達であることか。彼女こそが史上最高の魔法使いであると信じて疑わないノヴァは、故に、その彼女に打ち勝つことを今一度強く胸に思い描き渇望する。
ただ近づくだけじゃ駄目だというなら、思い切り。
己の全てを投じ全力で近づくまでだ。
「……!」
一歩。たったそれだけでノヴァは加速を終えた。もはや騙る意味もなしと初速から最高速を出した彼は、イデアが身を隠さずに姿を晒している意味をしかと察していた。あれは釣りだ。触れた腕に魔力を注ぐと同時に彼女は再び足元にも魔力を伸ばしていた。それは黒樹のエリアを拡大させるためのもの。つまり範囲外に見えて、イデアが立つその場所からも黒樹は生える。そこに誘い込み捕獲するための餌を、彼女は自らで担っているのだ。
それを承知の上でノヴァはまたしても正面突破を選んだ。それは追い詰められてのやけなどではなく確かな勝算あってのもの。師が攻撃と同時に仕込みを行っていたように彼もまた逃げながらある仕込みをしていたのだ。その正体を、このとき魔女は看破していた。
(ほお──更なる加速用の魔法陣)
ノヴァが踏んだそれの効果をイデアは刹那に、それでいて正確に読み取った。そして感嘆する。なるほど、素晴らしい。あの位置まで下がる最中にこんなものを用意していたのかと彼女はその思わぬ芸当に素直に驚いた。
通常、魔法陣とは作図の手間をかけて設置ないしは保管するものだ。つまりそれ用の道具と時間が必要となるところを、ノヴァは駆け抜け際のついでに、自前の魔力文字だけでその作成を終えていた。やっていることは地味だが高度かつ有効な技術だ。しかも、進路上に置かれた魔法陣はふたつ。
連続で発動する加速呪文の魔法陣。イデアの見つめる先で重ねた加速にもう一段階の加速を乗せたノヴァの接近速度は音速を超えて──そのまま激突。防御も反撃もなくされるがままに胸部を殴られた師匠の背中から、貫通した弟子の拳が血と共に飛び出した。




