36.身体強化
「驚いた。誰かと思えばセリアちゃんじゃないの、久しぶりねえ」
「っ……!」
呼吸が制限され苦しんでいるところに、すぐ後ろからかけられた気安い挨拶の言葉。その聞き覚えのある声にセリアは瞠目した。
「ミ──、」
「ええそうよ、ミザリィ先輩よ。覚えていてくれて嬉しいわ……貴女には私なんて眼中にないと思っていたもの」
微かにとはいえまだ声を出せるか。それを危険視したミザリィはセリアの喉にかける力をもっと強めた。「か、ぁ」と今度こそ声にならない嗚咽が漏れたことでようやくミザリィは一応の安心を得る。
「中を探ろうとしてたわね? でもダメよ、そういうときこそ自分の周囲のチェックを怠っちゃあ……こうなるわよ? 貴女みたいなタイプは押さえ付けて喋れなくしちゃえば何もできなくなるんだから、もっと気を付けないと」
貴女みたいなタイプ。それの意味するところは何か。
──魔法使いには大別して二種類いる。『名称化された呪文を幅広く覚える者』と『名称化されていない特定の呪文を得意とする者』だ。
王道は前者。セリアがこれに当たり、状況に応じて様々な呪文を使い分けるそのスタイルは時と場合を選ばないという点で後者に大きく勝る。しかし、得てして特定の呪文のみに精通している者は時と場合を選ぶことで、要するにハマった状況ではこれ以上ない活躍をする上に、前者の者にない強味も持っている。
それが詠唱の不必要性。
呪文を習得している者の大半は、その呪文名を唱えることで始動させる。構築した魔法式を実働させるための合図のようなものだ。これをするのとしないのとでは、回路を機能させるために用意されているスイッチを押すのと、はたまた電気を通すためにそちらの機材も一から手作りするのと似たような手間の差がある。詠唱は呪文の使用における起点であり負担軽減の大きな要因でもあった──が、それ故に。詠唱に頼る者はそれを封じられると発動まで封じられるという明確な弱点を抱えている。
理論上は詠唱などなくても魔法は成立する。いわゆる無言魔法というものだ。本当に優れた魔法使いなら実行できて然るべきなのだろう。しかし、魔法学校の卒業生たるロウネスすら詠唱なしでは何もできないのが現実。魔法の研究と習熟に生涯を捧げた学校長でようやく、その晩年に限られた呪文による無言魔法を使えた程度。それほどの難度のものを使いこなせる者がいるとすれば、噂に聞く『賢者』の一行。あるいは魔法の始祖とも言われる『始原の魔女』を始めとする魔女伝説の主役たちくらいのものだろう。つまり、例外中の例外だけだ。
しかしそこにもうひとつの例外が加えられる。
「かわいそうかわいそう。首を掴まれただけで熱心に勉強した何もかもがゴミになってしまうなんて。体系化された呪文の良し悪しよね……ま、私は詠唱なんてしないから貴女やロウネスの苦労なんてちっともわからないけれど」
名称化されていない呪文。体系外の通称『無名呪文』。これは使える者が極端に少ないため、研究が一向に進まず理論化できていない魔法類を指す。存在そのものは認知されているが、セリアが使って見せた【サイレンス】や【プロテクション】とは違って基礎魔法式の確立すらされていないまさに魔法界隈の深海世界。こういった呪文を習得する者はこれのみに特化するのが通例であり、また呪文との親和性の高さからか無詠唱での発動に過度な負担が生じないという特異性があった。
その反面それ以外の魔法とは極端に相性が悪いのか、体系的な『名称呪文』とはとんと縁がないが。『お前は一流王道の魔法使いにはなれない』と烙印を押された気がして嫉妬も覚えていたが──そしてその仄暗い感情とは今後も長く付き合っていかねばならないのだろうが、しかしそれならばそれとして。邪道タイプの魔法使いが有する利点を最大限に活かそうという心積もりがミザリィにはあった。
「私なりの無言魔法。『壁の擦り抜け』はとても便利よ。そのおかげでこうして悟られずに部屋を出て、容易に貴女の後ろを取ることができた」
「ぅ……、」
窒息死しないように力加減の調整をしながらセリアを扉横の壁にぐいと押し付け、その耳元からミザリィは囁きかける。
「それにしても、やるようになったのね。虫も殺せないようなセリアちゃんがこんなことをするなんて」
こんなこと、というのは主にブローカーへの敵対行為を指すものだったが。けれどこのときのミザリィの心境としては、足元に転がっている見張り役の情けない姿を見たことで口をついて出た、皮肉を込めた率直な感想にも近かった。
「これ、生きてるかしら? まあ死んでてもどうだっていいんだけど……こんなお間抜け晒してるようなのよりも、よっぽどセリアちゃんのほうが資格ありよね。え、なんのことかわからない? ふふ、どうして一思いに貴女を殺さないようにしていると思っているの? まさか同学のよしみなんかじゃないわよ、ちょっとお話がしたいから。ねえ、物は試しに訊いてみるけど、セリアちゃん。私と一緒に社会の裏側で一旗揚げてみない? 今ちょうど使える仲間を募集中なのよ。貴女なら同僚に相応しいわ……どう? イエスかノーか目だけで答えてちょうだい」
「……!」
断るようであればどうなるか。それは口に出さなくても伝わることだった。
◇◇◇
ドガッ、と鈍い音がアパートの通路に響く。
それは玄関が破られた音でもあったし、そのすぐ前で開放を待っていたマニが蝶番から外れた扉に押されてたたらを踏み、欄干にまで後退させられた音でもあった。
「……」
無言で扉を体の前からどかしたマニの目の前に、刈り込んだ短髪の男。やけにタイトな──というよりはパツパツの──シャツを着たその筋肉質な男は既に拳を繰り出してきているところだった。なす術なくそれを食らったマニは階段があるのとは反対側へ殴り飛ばされた。無論、これは男が意図的にそちらへと移動させたのだ。
「!」
これでメイドが落ちてくれればそれで終わりだったのだが、しかし微妙に打点をズラされたこと。そして飛ばされながらも床に手をつき半回転、危なげなく足から着地してみせた身のこなしを受けて、彼はその女がただのメイドではないと確信した。
「俺が抑える。先に行ってろ」
「おう、頼んだぞ」
予定変更だ。通路に出ても他に敵影はなく、しかしメイドはやれる奴である。このパターンは事前予測にはなかったが、先頭を放棄した短髪もそれにあっさりと了承を返した禿げ頭にも淀みはなかった。状況からして、仲間内では最も近接戦闘に長けている短髪がメイドを片付けておくのが適切だろう。と目配せだけで彼らは方針の共有を果たしたのだ。
「おらよっ!」
フランを抱えた禿げ頭と、ちらりとマニの姿を一瞥するだけだったロウネスの後ろから続いて出てきた茶髪が、逃げるついでとばかりにクロスボウを射出。男の戦闘を少しでも有利にしてやろうと、手傷あるいは致命傷を負わせることを狙ったであろう胴体部を狙ったその一射はしかし、素早く動いた右腕によって簡単に弾かれ無為に帰した。
「ひゅう! 見かけによらずやりやがるぜぇ、気を付けろよ」
「いらん世話だ。さっさと行け」
「あいあい」
茶髪はへらへらと笑いながら禿げ頭たちについていく。無下にはしたが、されど彼のおかげでひとつ情報を得られた。──メイドは右腕に何かを仕込んでいる。短矢を払った音が人肌のそれではなかった。
見るほどに奇妙な女だった。顔立ちは幼くも上背があり、あつらえたようなメイド服を身に付けながらもそれを着こなしている印象はない。殴られて撃たれたばかりだというのにぼんやりとした表情。そして何より、右腕だけを長い白手袋で覆っているアンバランスさが目に付いた。剥き出しの左とは違って露出が一切ない……これは、その服と同じく質の良さそうな生地の手袋自体に何か秘密があるというよりも、腕の仕込みが露見しないよう隠す意図でのファッションだろう。だが武具を装着しているとすれば素肌を晒している左腕とシルエットが変わらないのはおかしいか──。
いや、なんだっていい。とにかくメイドの武器は右。それさえ留意しておけばいいのだ。そうシンプルに定めた男が両腕を上げて構えたと同時、彼女のほうも動いた。
ゆらり、とふらついたようにも見えた初動から瞬く間に距離を詰めてくる。そうして放たれた予想通りの右拳を、男はパリングで防御。見張りの二人が何をやられたかも理解できずに沈んだ高速の打撃を、その男の目はしっかりと捉えていた。
それもそのはず、男には筋肉以外にも誇れるものがあった。それが魔力を用いての身体強化。魔力には物体を強める力がある。その性質は無機物に魔力を込める魔化だけでなく、自分自身の強化にも応用が利くものだった。
魔素を吸い、魔力に変え、そして肉体に留める。魔法を使う才能がなくともその手前の段階までなら到達することはそう難しくない。故に、魔法使いでなくとも魔力の扱いに心得がある者は少なからずいる。
男もその一人だ。魔力による身体強化に覚えがある者とそうでない者とでは隔絶した戦闘力の差が生じる。そしてその差は魔力の質と元々の身体能力如何によって更に拡大する。強化率を式とするならそれは掛け算。つまり、魔力によって強化される元来の肉体が強力であればあるほどその効率は累乗されるのだ。
肉体より精神に重きを置く特性上どうしてもひ弱になりがちな魔法使いもそれを補うためにこの手法を取り入れたり、可能であれば強化用の呪文を習得したりもするが、それでも前衛職の単純な魔力強化には及ばないのが常である。数字で例えるなら1の体力を100の魔力で強化することで100の体力を得るのが魔法使い。30の体力を10の魔力で強化して300となるのが前衛職。身体技能が重要となる接近戦となった場合、どちらに軍配が上がるかは明白であった。
もしも表側を担当したのがセリアであれば、部屋から飛び出した男の奇襲であえなく昏倒していただろう。しかし。
「づ……!」
殴打を凌いだ傍から不可解なまでの速度で連続で打たれ、ついに捌き切れずブロックで受けた男は、強化しているはずの自分の腕がメキリと悲鳴を上げたことで新たに敵の情報を得る。細身だというのにこのパワー。間違いない。メイドは自分と同じく、魔力によって強化された肉体で敵を屠る生粋の戦闘職者である──。
 




