35.不測の事態
何者かの訪問を告げるノックの音。それは不測の事態を表していた。
「なーんでこのドアが叩かれるんだ……?」
自前の武器として持ち歩いているクロスボウに手を添えながら、茶髪の男はすぐ目の前の扉を睨む。軽薄そうな笑みを浮かべたまま、だがそこにいくらかの真剣みも宿しているのは、扉を挟んで立つ誰かがまず間違いなく『敵』であるからだ。
見張りに立たせた表の二人であれば入室に際しノックなどするはずがない。そして勧誘中に邪魔が入らないようにすることが彼らの役目であるからして、こうして正体不明の何者かが扉の前にいるというだけでそれ即ち、ブローカーにとっては歓迎すべからざる異変となる。茶髪が警戒と共に武器を構えるのは当然だった。
「待て」
と、今にも扉を開け放って挨拶代わりの一射をくれてやりそうな茶髪を禿げ頭が制す。怪訝な顔付きで振り向いた茶髪には何も言わずに、ローブの男ロウネスへと視線をやった。すると既に心得ていたようで、彼はうむと頷いて言った。
「その程度の扉なら透視が利く。そこを退け、まずは何者か確かめる」
「へえへえ」
ロウネスの居丈高な物言いにも素直に従った茶髪は壁に身を寄せて見通しを確保してやった。クロスボウは上に向けられているが、いつでも発射できるように短矢をつがえることを怠らない。ノックの主を確かめたロウネスが撃てと一言云えばいつでもそれを実行できるように備えておく。そんな彼を視界の端にしてロウネスは呪文を唱えた。
「【クレアボヤンス】」
視覚に作用する魔法類の中でも最も一般的で最も使い手の技量に左右される透視呪文【クレアボヤンス】は、これをあまり得意としないロウネスにも訪問者の正体をしかと教えてくれた。扉越しに見えたものに当初絶句した彼は、しかしすぐに気を取り直し憮然と言った。
「……メイドだ」
「あん? なんだって?」
「だから、メイドだ。扉の前には一人のメイドが立っている」
妙なものを見る目を一同から向けられるという屈辱に耐えながらロウネスは見たままを伝えた。男たちも彼が冗談を言うようなタイプではないと承知しているため、その思わぬワードに戸惑いこそしたが報告の真偽を疑うようなことはしなかった。
「なんだ、女か」
身構えていた短髪の男が戦闘体勢を解き、腕を組み直した。まさかメイドが単身乗り込んでくるはずもない。大方、見張り役たちは相手が女というだけで絆されてしまったのだろう。連中がしばらくの女日照りをぼやいているところを度々目にしているだけに、そもそも女遊びに関心のない彼は少々の呆れを伴ってそう結論付けた。茶髪もまた概ねそのように考えていたが、けれどリーダーである剥げ頭だけはもう少しだけ用心深かった。
確かに見張りの二人は茶髪に輪をかけて軟派なところがあるが、それでも任された仕事をやり遂げる能ぐらいは持っている。そうでなければ仲間になど置いておかない。メイド、と聞いて自分たち以上に戸惑っている家主の少年の様子をちらりと確かめてから、彼はロウネスへと訊ねた。
「あいつらはどうなってる?」
「知らん、扉の前にいたのはメイドだけだ」
にべもない返答に禿げ頭は顔をしかめる。透視の力はもう効果が切れているらしい。しかも見える範囲は本当に扉一枚でしかなかったようだ。意外と不便だな、と思いつつも外の様子を確かめられただけ良かったと考えることにして、禿げ頭はこの場にいる全員に向けて言った。
「所属や目的がなんであれ、こんなボロアパートにメイドが来るのはおかしなことだ。それに番をしてるはずのあいつらの姿もロウネスには見えてねえ。油断すんなよてめーら」
「じゃあどうするよ、リーダー?」
「……とにかく場所を移したほうがよさそうだな」
よくわからない横槍が入った以上まごまごとしているのは得策ではないと判断する。フランはまだ勧誘に応を返していないが、こうなったら彼を運び出してでも問答の場を変えるのが賢明だろう。そう決定した禿げ頭に短髪の男が言った。
「なら裏口から出るか」
このアパートメントの構造は五階建ての二棟が特定の階の渡り廊下で繋がっている、変則的な一棟となっている。渡り廊下があるのは二階と四階。三階のここから直接隣の棟に移る手段がないため、裏口から出て表のメイドに見られず建物を脱出しようとなると少々動線が複雑化するが、しかしフランさえ騒がなければ静かな撤退は充分に可能である。
当然そうするだろうと思っての発言だったのだが、意外にも禿げ頭はこれを否定した。
「いや、用意があるなら裏手にこそ本命を置く。俺だったらな。警戒し過ぎかもしれねえが『もしも』があるならいっそのこと、メイドしかいねえとわかっている表を強行突破したほうがいい」
これはメイドが単独で来ていないと仮定してのものだ。その予想が外れていた場合は無駄に姿を見られてしまうことになるが、フランという荷物を抱える以上は何が待ち構えているかわからない裏手から飛び出すよりは堅実な策だと言えた。
「なるほど、それなら確かに突っ切っちまうほうがいい。だがよ、じゃあ裏手にいるかもしれねえ本命はどうする? 場合によっちゃ挟み撃ちだぜ? ずらかろうってのにそんなのはご免だなぁ」
「そっちは──ミザリィ。お前に確認と攪乱を任せたい。裏にいるあいつが無事なら話を伝えてくれ。いざとなってもお前一人だけならいくらでも逃げられるだろ」
「はぁい、任されたわ」
ウェーブのかかった長髪を楽しげに揺らしながらブローカーの紅一点は快く了承した。ロウネスと同じく魔法学校出身である彼女の実力は確かなもの。安心してしんがりの塞ぎとして置くことができる。
「そんじゃ行くかい」
「メイド以外にも注意しとけよ」
先頭に短髪、次にフランを抱えた禿げ頭、三番目にロウネス、最後に茶髪。各々の役割と射程を考えての配置。この急行列車で一同はアパートからの脱出を目指す。
「俺がメイドをどかす。……一応聞くが、あいつらは?」
もがもがと何か言おうとしているフランの口を大きな手で強引に閉じさせながら担ぎ上げた禿げ頭は、短髪からの問いに素っ気なく答えた。
「自分で動けねえようなら置いていく。捕まったとしても口は割らねえさ」
「だといいが」
その言葉を最後に男たちは部屋を飛び出し、ミザリィはそれを見送ることもせずさっさと一人裏口へと足を運んだ。魔力の準備は既に済んでいた。
◇◇◇
想定より百七十七秒も早く扉が叩かれていることなど露知らず、ふたつ目の曲がり角で立ち止まったセリアはその向こうを先以上の慎重さで覗き確かめた。【エコー】を使わないのは、彼女がその呪文を得意としているだけにこのアパートの壁ぐらいなら乗り越えて探知してしまいかねないからだ。本来ならそうやって外から内部の状況まで探りたいところだが、万一にも敵側に魔法使いがいて、その腕前が確かであった場合、魔力の反響によって地形を把握する【エコー】は相手方にもその使用が知られる危険性を孕む。
それを避けるために目視を選んだセリアの瞳は、裏口に蓋するように立つ不審な人物を捉えた。間違いなく先ほどの男たち同様、見張り役だ。表の二人よりも真面目に任に務めている様子のその男に見つからないよう首を引っ込めたセリアは、そこで一度瞼を閉じて大きく深呼吸をした。焦りや不安は魔法使いの天敵だ。魔法式の構築には集中力がいるし、呪文の発動には精神力を消耗する。よって状況に左右されず精神状態を凪に留めておけるかどうかは魔法使いの力量を図る重要なファクターでもあった。
これからすることに恐れと強張りはある。そこを否定してはいけない。その常ならぬ心理状態を受け入れ、それでもと克己するのだ。……そうして目を開いたセリアの脳内にはふたつの魔法式が出来上がっていた。躊躇わず角から出る。
「【サイレンス】──」
「!」
当然、男はすぐセリアに気付く。虚を突かれたような反応から一転、彼女の目が真っ直ぐこちらを見ていることと出てきたのが表に通じている廊下であることから敵だと認識。口を開きながらナイフを取り出し──困惑。確かに「誰だ」と声を出したはずなのに、それが聞こえない。続けて「何をした」と異常の原因らしき女へと問うが、そちらも無音に消えていった。
「【プロテクション】」
セリアの言葉もまた男の耳朶を震わせることはなかったが、唱えたと自認できていれば詠唱は成り立つ。生じたのは魔力で作られた対物理用の障壁。セリアはそれを男に叩きつけ、更に本物の壁へと強く押し付けた。加減が放棄されたそのサンドイッチの衝撃は相当なものだったのだろう、「がっ……!?」という悲鳴すらかき消された男は呆気なく気絶してしまう。
消音の効果が終わり、セリアの息を吐く微かな音だけが戻ってくる。男は動かない。制圧が思った以上に上手くいった──マニがノックを行うまでまだ二分近くある。学校時代、攻撃に適した魔法をついぞ習得できなかったことで苦肉として編み出したこの障壁を用いた戦法。それで初めて敵の無力化に成功した彼女の内心には少なからぬ興奮があったが、それもまた平常心の妨げになるものだ。
努めて冷静さを意識して倒れた男の横を足速に通りすぎたセリアは裏口の前に立ち、その扉にそっと耳を寄せた。運が良ければ中にいる者たちの会話などから状況やその正体、目的も判明するかもしれない……。
「!?」
そうやって室内を探ろうとした途端に響いた、扉を蹴破るような激しい物音。いったい何が起きたのかとセリアが行動に移るよりも先に、次の想定外は襲ってきた。
「うッ……?!」
突如として何者かに首を絞め上げられ、セリアは呪文を唱えることを封じられてしまった。
 




