30.光
間もなく開戦時刻だと兵士の一人から教えてもらって──双方で合意された時間だとか。野蛮なことを始めるにしては紳士的な取り決めである──俺は隊列から抜け出して平野を進んだ。ついてきているのはセリアだけだ。無論それは俺がそうするように彼らに言っておいたからだが、目立つせいかさすがに背後からの視線が痛いな。王城前広場での即位式で浴びたものとはまた違った種類の目を感じる。うーん、こそばゆい。
「セリアも前まで来るのか? 陣のほうにいても見えると思うけど」
「見えるとは?」
「俺の魔法」
「…………」
何か含みのある間を空けてから、セリアは一言一句を絞り出すようにゆっくりと答えた。
「興味本位で同行しているわけではありません。イデア様の御力を疑うようなことはしませんが、けれど、だからといってお一人にはさせられません。セストバルの者が付かずともせめて私だけはその傍らにいさせてください」
もしもの場合私のことはどうかお気になさらず、と。クールだが確かな恐れも声に滲ませながら彼女は言った。なんというか、本当に律義だなこの子は。行くぞと声をかけたものの前線に一緒に立つつもりはなかったし、ここまで悲壮な覚悟を決めてまで従者の立場を全うしようとしてくれなくても別にいいんだけどな……でもまあ、本人がそうしたいと言うのならその意思を尊重しようか。
そう決めた俺の耳に、「ですが」と幾分か細くなったセリアの言葉が届く。
「セストバル王の言うことは私も正しいと感じました」
「ジョシュアが言っていたこと?」
「多勢に無勢である、という意見です。拝見したイデア様の魔法の威力は確かに常識を超えて凄まじいものではありましたが──」
◇◇◇
鎧を着込んだ兵がひとまとめに目にも見えぬ塵と化したあの光景を、セリアは今も瞼を閉じれば鮮明に思い出せる。しかし、それを踏まえても尚ステイラ公国の戦力は膨大に過ぎると思えた。意思持たぬ操り人形だったリルデン王城の兵士では比較にならないほどよく鍛えられ、数にも多く、そして魔化された武具と防具に身を包んでいる。まさしく脅威としか言いようのない軍勢。それを相手にたった一人で先陣を務めようというイデアの思惑がどういったものか、セリアには判じようがなかった。
彼女がそうする以上、勝機はあるのだろう。だが自分では戦場という盤面をどう見回してもその勝機がさっぱりと見えてこない。
「──あの風魔法であっても、私にはあれだけの兵士をどうにかできるとはとても考えられないのです」
「いやちょっと待って。俺の魔法の威力なんてセリアに見せたっけ……? それに風魔法ってなんのことだ?」
「はい?」
首を傾げながら見上げてくる少女に、セリアは大きな困惑を覚えた。何かが凄まじく食い違っている。彼女がそう気付くのと同時に、イデアのほうも「ああ」と納得したように前に向き直った。
「モロウの兵士をやっつけたときのことか。あはは、なんだよセリア。あれを風魔法だと勘違いしていたのか」
「ち、違うのですか?」
ではあのとき見たものはなんだったのか……彼女がそう訊ねる前に、イデアの口からなんでもないことのように真相が語られた。
「あれはただの魔力風だよ」
「魔力風──あれが、ですか?」
「そう。やる意味もないから滅多にやらないけどさ。魔力を体内で上手い具合にぐるぐるさせると魔力風もある程度操作できるんだ。まあ、隠し芸みたいなものだ」
エイドスの魔力じゃないとあそこまではならないけどね、と付け足された言葉にセリアは気が遠くなる思いだった。魔法を使う際の自然現象である魔力風を自分の意思で操るということ自体が理解に難しいものだというのに、それで人間を消し飛ばす威力を発揮するとはどういうことなのか。彼女にはまったくわけがわからなかった。
「ほ、本当にそんなことが……? いえそもそも、だとしても何故イデア様は魔力風だけで対処を?」
「あの時点じゃ王様が無事じゃないと決まってもいなかったし、王城を壊すのはよくないだろうと思ってさ。魔力風だけでも廊下は散々になっていたけれど、エイドス魔法を使うとあんなものじゃ済ませられないから」
「……!」
では。自分はまだ、イデアが常々口にする『エイドス魔法』の真の威力を知らないことになる。
そう気付いたセリアは自分の表情が強張っていることに気付きながらも、しかし訊かずにはいられなかった。
「それでは、イデア様がお使いになられる本来の魔法というのは──っ、」
鬨の声。両陣営から上がった平野中を揺るがすような雄叫びにセリアの問いはかき消された。戦争の始まりが告げられたこの瞬間、イデアとセリアは敵と味方のちょうど中間に位置しており、迫りくるステイラ公国の軍団を誰よりも間近で目撃することとなった。
その尋常ならざる迫力に圧され黙り込んだセリアに、同じものを目にしながらもまるで何も視界に映していないかのような、極々いつも通りの調子でイデアは返答した。
「そうだ。エイドス魔法っていうのは、属性を持っていたり系統立てられたりしているような通常魔法とは根本からして違うものだ」
「きゃあっ……!?」
突如としてイデアの足元から噴き上がった魔力風に体を押され、セリアは倒れ込んだ。天高く立ち昇っていくそれに起きようとすることも忘れて圧倒されている彼女へ、イデアの講釈は続く。
敵の先鋒は近く、もうその顔立ちすら視認できる距離だ。
「いい機会だからしっかり見ておくといい。エイドス魔法が持つ力っていうのは──どこまでいってもただの『力』だってことを」
そして、それは放たれた。
◇◇◇
「む……! もしや!?」
兵士らを率いる身でありながら誰よりも速く馬を走らせて先駆けるその男、ステイラ兵団の戦隊長は厳めしい顔付きに喜びの笑みを浮かべた。それはその視線の先に小柄な敵影を見たからだ。
セストバルの兵とするには小さく細いその影。その傍には他にもう一人見えるが戦隊長の本能的な──野性的と言ってもいい──勘はその小さき者こそが『始原の魔女』であると強く訴えていた。これは、なんと喜ばしいことか。冗談ながらに多分に欲望も交えて話した「魔女をこの手で討ちたい」という言葉が、まさか本当に叶うとは。
小癪にもセストバル王が本当にイデア新王国へ縋りついていたことには侮蔑を込めて鼻を鳴らしたい気持ちだったが、しかし伝説の魔女という馳走を自分の目の前に用意してくれたことには心から感謝しよう。
魔女を獲り、敵国の王の首も獲る。それらは自身にこそ相応しい戦功である。と、彼は信じて疑わない。
「ははははははははは! 今行くぞっ、我が剛剣の錆となれぃ!」
馬術にも精通している戦隊長は呪文のひとつやふたつ程度難なく避けられる自信があった。そして距離さえ詰めてしまえば魔女とてなんら恐ろしいものではない。魔法使いが呪文を唱えるよりも剣の一振りのほうが遥かに早いというのは誰もが知る常識である。ましてやステイラ一の戦士である自分ともなれば、横のお付きらしき女共々一撃で屠り去ることすら容易い。
戦意と殺意に漲る彼は、そこで目が合った。ローブを異様なほど激しく揺らしながら佇むその影。近くに寄りてはっきりと見えるようになったその少女の眼差しと真っ向からぶつかり合って──。
彼は自分が死ぬのだと理解した。
……いったいなぜ? 何がどうなってそうなるのかはまったくわからなかったが、けれど少女の手によってそれが起こることは確実だった。この一瞬後にはもう己の意識が永遠に途絶えているであろうことを予感──いや実感させられた戦隊長が戸惑うよりも、恐れるよりも先に。
光。そう、光だ。言い表すとしたらそれは『光』としか形容のしようがなかった。
セストバル兵の全体包囲をも目論んで両翼に広く展開していた戦列が、その端から光の中に消えていく。一条の極大なその閃光の動きが、指揮棒でも振るかのような魔女の手の動きと連動していることに気付くのと、光が彼の真横にまで迫ってくるのはほとんど同時であった。
自分もまたこれに飲み込まれる。これが通り過ぎた後にはどんな眺めが広がっているのか──この光の先には何が待っているのか。何ひとつ思いもよらない戦隊長は、時間が間延びしたようなその末期の瞬間に。暴力的なまでの純白に目を潰される直前、そこに神の存在を感じた。
「おお……?!」
大戦で敵を一人でも多く斬り殺すことばかりを夢見てきた戦士は、けれど最期の時だけは血に狂った欲望を完全に忘れ去って──そしてその自慢の名剣や駿馬ごと、血肉の一片すら残さずに消滅したのだった。
◇◇◇
「な、なんという……なんという」
身体中をわななかせて、ジョシュアはそれ以上何も言うことができなかった。何を言えばいいのか、何が言いたかったのかも彼にはわからなかった。
イデアの迫力に呑まれ単騎でステイラを相手取ることを止む無く許してしまったが、しかしそれはそれとして彼女に加勢しない理由にはならない。なので開戦時刻を告げる太鼓が叩かれたと同時にジョシュアは号令を発し、それに呼応して兵士らも口々に鼓舞の声を上げて突撃を始めんとして……その足が誰からともなく止まってしまったのは致し方ないことであった。
ぽつんと平野の中心に立つイデアの、魔法と思しき、けれどジョシュアはおろかそのお供たる宮廷魔法使いであってもそれが本当に魔法なのか判別できない──まさしく力の極致。『暴力』の権化。そうとしか言葉にできない光線が発射され、ステイラの軍勢を総なめにしていった。最右から最左へ。その単純な動線で平野をなぞった光の軌跡の後には、そこにいたはずの何もかもが……消えていた。
何も、誰も、音すらも。
全てを遍く飲み干し、満足したとばかりに光は収束。
まるで最初からそうだったかのように、そこには無人の野ばかりが広がる。
誰もが内心に忌避を覚えていた此度の戦争の、呆気ない終幕。その事実をしかと認識しながらも、しかし勝鬨の声は一向に上がらなかった。
息遣いも制止した平野において。たったひとつ、それを為した魔女のローブだけが風に揺れ動いていた。




