29.一騎当億
平野には渇いた風が吹いていた。大地を浚うように通り抜けていくその妙な熱さを伴った空気の中にあり、セストバルの兵団は落ち着きをなくしていた。睨み合う陣と陣。明らかに兵力に勝る敵国と向かい合うこと既に一時間以上。開戦直前の異様な雰囲気に彼らは全身余すことなく支配されている。
──くす。
臆しているわけではない。だが、これが初めての戦争。過たず難敵たるステイラ公国軍の圧。王を背にすることで良き治世者である彼を守護せしめんと士気こそ高く保たれているものの、他では味わえない緊張による影響はどうしても出る。命を賭して戦うが故の武者震い。命を賭して戦うが故の恐怖の震え。そのふたつが兵士たちの足を地につかなくさせていた。指示通りの陣形を組みながらも彼らがどこかまとまりきれていないように見えるのも、おそらく浮足立つ心情が理由だろう。
──くすくす。
そこで。熱気にやられた彼らの頭にいきなりの冷や水が被せられた。氷水よりもなお涼やかに、突き刺すような冷気を振り撒いているのがいったいなんなのか。……考えるまでもない。心臓が委縮するような感覚と共に兵士たちは皆その原因へと視線をやった。
熱い旋風渦巻く中、ただ一人冷然と、心の底から可笑しそうに笑う少女。
始原の魔女。
彼女自身の希望によりトーテムは最前列の兵士に持たされており、その用意もあって彼女は転移一番に敵戦力を一望することができた。トーテムを握り締めながら、最初に魔女の出現にぎょっとさせられたその兵士は心の底から疑問に思う。あれだけの強大な軍団を確かめておきながら、どうして彼女は笑うのか。
──くすくすくす。
無垢な乙女が秘め事を楽しむような、悪辣な老婆が邪を企むような。彼女の小さくも周囲の者の耳をくすぐるその声には、いずれにしろ確かな喜色が含まれていた。
シン、と一帯は自然と静まり返る。兵士一様に絶え間なかった身じろぎも収まり、口も閉じて、熱気すら霧散したそこの独特な空気に気付いたのか。後方より王のよく通る声が頭上を抜けていった。遅れてやってきた魔女を自分の下まで呼んでいるのだ。
味方とはいえ、敵兵と睨み合う以上の緊張を強いてくる者が視界からいなくなってくれることに一同は深く安堵し、王へ感謝を捧げた。呼び声に反応して振り向いた少女の洞のような瞳に息が詰まりそうになりながらも、どうにか彼女が立ち去るまでをじっと耐え抜く。そうしてまた見えるものがステイラ公国の軍だけになったとき。不思議と彼らの心中に重く鎮座していた恐怖は希薄となり、冷静さを取り戻すことができていた。
否、何も不思議なことはないだろう。あれだけの寒気に身も心も包まれたのだから戦場の熱とて冷めて当然である。そう納得した最前列の兵士は、渡しそびれたトーテムを懐に仕舞った。生きて帰り、この手で直接王に返すことを固く誓いながら。
◇◇◇
「ジョシュア殿」
「おお、イデア殿。来てくれたか。戦地につき上から失礼する──して、貴殿はどう見る。あの脅威的な軍勢を」
「脅威的……まあ、それが的確な表現じゃないかな」
戦争開始まで一番前で待っておくつもりでいたのだけれど、お呼びがかかったのでセリアと一緒に後陣まで下がってみれば、そこでは一際立派な白馬に跨ったジョシュアが苦い顔をしていた。その口から出た問いに思ったままを答えると、彼の表情はますます苦渋に満ちたものとなった。
「こっちの戦力はどれくらいだっけ?」
「歩兵が五千、騎馬が五百。弓兵が千足らずだ」
「おおよそ六千五百。対するあちらは──」
「大まかに数えさせたが、少なくとも私たちの倍以上はいる。多く見積もれば三倍を超えるか」
「やっぱり。陣の豪華さが違うものな」
お付きの一人が「遠眼鏡です」と双眼鏡みたいなのを俺に渡そうとしてきたが、断る。そんなものなくたってよく見えるさ。数の上ではトリプルスコアで間違いないと思う。そして、単純な頭数だけでも負けているところに更に追い打ちをかけるのが、その中身の充実具合だ。
剣、槍、弓がそれぞれの射程に従って並んでいるのは勿論、こちらよりずっと数の多い騎馬に、馬で動かすタイプの戦車と見受けられる物まであちこちに配置されている。セストバルと比べて本当に豪華だな。これが軍事に力を割かなかった国と、特に注力した国との残酷な差なのか。正面衝突してどちらがか勝つかなど火を見るよりも明らかである。
「しかもあいつらの武器や防具……ひとつ残らず魔力が込められているようだ」
「なんだと……!?」
ジョシュアは弾かれたように手持ちの遠眼鏡を覗いたが、自分の目ではよくわからなかったのだろう。すぐに敵陣から視線を外しお付きとして同伴している宮廷魔術師の一人──俺に杖や呪文書の説明をしてくれた人物だ──に説明を求めたが、彼は答えに窮していた。無理もない。
「この距離で気付けってほうが無茶だよ。俺だってこの前に確かめたときにはスルーしちゃっていたし」
「では、今はどうやって看破したのだ?」
「んー……理由とするならテンションなのかな。一応、戦うモードに入っているから。普段よりも敏感になっているんだよ、ジョシュア殿」
笑いかけた俺に、ジョシュアはにこりともせずに深く頷いた。
「頼もしいことだ、イデア殿。貴殿の助力を得られたことを今一度天に感謝したい気持ちだ。──しかし、敵戦力も想定した以上のもの。まさか装備を魔化させているとは……ステイラめ、いったいどうやって」
魔化、というのか。魔力を込めることを世間では? ふーん、初めて知った。俺も今後使わせてもらおう。
魔力を込めるというのがどういうことかと言うと。魔力はそもそも、魔法式を介して呪文を成立させるだけでなく、単にそれそのものだけでも物質を強化するという性質を持っている。鎧であれば同じ重さでより頑丈に、剣であればより切れ味が増すようになる。魔力の込め方を工夫したり、あるいはその作業に呪文を加えればもっと特殊な強化も可能となるが、そちらはなかなか難度が高い。
ちなみに、俺が魔力を使って土地や人に活力を与えるのもこの性質を利用してのものだ。まあ、エイドスの魔力でやっているからちょっとやり過ぎると強化を通り越して恐ろしいことになるのだけど……そして直近の顕著な被害者がマニなのだけど。まあ、そこもいつか完璧にマスターできたらいいね。
それより今は敵軍の魔化のことだ。
「どうやっても何も、ステイラにも雇われている魔法使いがいるってことだろう?」
「無論、それはいるのだろうが……だが魔化というのは非常に大変なものだと聞いている。ひとつの物に魔力を込めるだけでも時間がかかり、だというのに込めた先からみるみると魔力が抜け、使い物になる時間は極端に短いと」
「定着させられなかったら何に込めようとそうなるだろうね。それじゃあただ魔力を素通りさせているみたいなものだし」
「その定着とやらが難しい技術なのだろう?」
「ああ、なるほどね」
バツの悪そうにしている杖をくれた彼を一瞥し、苦笑する。なんかごめんね、俺基準で話していいことじゃあなかったな。これではまるで遠回しに彼を無能だと詰っているようではないか。……言いたいことはそうではないんだけどな。
「でもジョシュア殿の言はもっともだな。あれは俺から見ても少々妙だ」
戦車にまで魔力が込められている徹底ぶり。ざっと見ても十万点以上のアイテムに魔化させるなんてことは、ちょっと俺にもできない。や、できるできないで言えばできるんだけど、単純に面倒くさくてやりたくないのだ。しかもあれ、あの数なのにどーにもどれもこれも魔力が画一的に思える。つまり大勢で手分けしてやったわけでもないようなので……うむ。
「ちゃちゃっと終わらせるつもりだったけど、そうもいかなさそうか……」
「……、」
俺の言葉にジョシュアはハッとしたような顔をして、口をぎゅっと強く結んだ。それから彼は決意の眼差しを俺に向けてきた。
「苦しい戦いになることはわかっていた……それでも我らは勇ましく戦ってみせよう。イデア殿、貴殿は私たちの更に後ろへ」
「え?」
「なるべく長く戦線を持ち堪えせさせよう。その間に唱えられるだけの呪文で援護を頼みたい。勿論、敵が突破してきたらすぐにセリア殿を連れて撤退してくれて構わない」
「んん?」
「せめてもの一念、大将首だけでも落としたいところだが……難しいかもしれんな。されどここで少しでも長く粘り、敵の想定以上の被害を及ばせれば次にも繋がろう。イデア殿。鉄火場を前にこんなことを言う無礼を許してほしいが、どうか私の亡きあとには息子と娘に──」
「ちょっと待て、ジョシュア殿」
「──如何された、イデア殿」
如何された、じゃないよ。それこっちの台詞だから。何を急に死ぬ気満々になってくれているんだこの人は。しかも言っていることがどれも滅茶苦茶もいいところだ。
「俺は下がるつもりなんてないし、守られるつもりもない。むしろ逆だ、俺がジョシュア殿も含めて皆を守る。そういう約束をしたはずだ」
先陣は俺に任せてくれ、と。そう告げるとジョシュアは目を剥いた。
「い、いくらなんでも無茶というものではないぞイデア殿。貴殿がどれだけ強かろうと多勢に無勢、数に飲み込まれて終わりだ! 一人で戦わせることなどできるはずもない」
「傷付くな。一騎当千と讃えてくれたのはリップサービスの真っ赤な嘘だったのか?」
「決して嘘なものか! しかし如何に一騎当千の力があっても、敵の戦力は万を超えるのだ!」
「一騎当千じゃ足りないか。だったら一騎当億の働きをしよう。それなら敵が何万だろうと何十万だろうと関係ない。そうだな?」
「イデア殿──」
「ジョシュア殿。あなたが頼ると決めてくれたこの俺を、あまり侮ってくれるな」
彼が乗っている大人しい白馬を撫でてその毛並みを味わいながら返事を待ったが、ジョシュアはもう何も言わなかった。頭の上の彼がどんな顔をしているのか確かめることはせず、俺はそこで話を打ち切って背を向けた。
「行くぞ、セリア」
「はい」
静かに応じた彼女と共に、隊列の最前線へと戻る。──ジョシュアを安心させてやるとしよう。




