275.犠牲ではあっても
思うに鼠少女は、決して深刻な調子では口にしなかったけれど。しかしあれだけ真剣に俺の早期渡航を止めるからにはきっと、本当にたくさんの『糸が切れる瞬間』を目にしてきたのだろうな。世界の終わり。理想領域という一個の終わりを目撃した、どころか当事者になった俺ではあるが、しかしあそこはとっくに終わっていた世界だ。オレクテムによって居座っていた姉様方も排除されていた上に、そもそもそのずっと前に世界の主たるオルトーだっていなくなっていた。言ってしまえばその時点でエイドスは存在価値をなくしていたのだ──なんて言い方をしてしまえば実存世界だってその論から逃れられず価値をなくしてしまうのだけど。とまれそれも過去の話、オルトー亡きあとに不在だった管理人の座は今こうしてしっかりと俺に引き継がれている以上、せめて残されたイグジスぐらいは大切にしていきたいところである。……ん、話が逸れたな。
とにかく俺が言いたいことは。一本の糸の半分でしかなく、しかも俺自身の意思で終わらせたエイドス。その喪失などとは比較にもならないほど重々しい終焉というものを何度となく味わってきているはずなのが鼠少女で、それに察しがついたからにはこちらもまた真剣に彼女の思いを受け止める必要があったということ。まあ、そうでなくとも俺だって元々世界をどう残していくか、寿命があるのだとしてもそれをどう伸ばしていくかを壁越えの手法確立と並べての第一目的に据えていたのだから、彼女からの警告もとい助言がなくとも世界を大切に扱っていたことに変わりはないのだけど、しかし多少なりとも真剣みは増したかと我ながら感じる。際立てて深刻でなく、決して脅すような言い方でなかったからこそなのか。却って寄る辺がなくなることの『取り返しのつかなさ』を鮮明にイメージすることができたように思う。神が神として座すための場所を失う……そういった事態がどれだけの悲劇であるかを、ちゃんと理解できた。気がする。
決意のし直しも含め俺のやっていること、やってきたことが間違いではなかったと証明されたのも気持ち的には大きい。や、仮に何をどう間違っていようともそれはするべくしてした失敗。構わないと言えば構わないし、鼠少女からの助言がある以上どうせ軌道修正は叶ったのだけれど、だとしても過ちはどのような意味合いにおいてもしないのが一番だ。それは絶対にそう。錯誤があったからこそ見えてくるものもある、というのは場合によりけり否定もしないが。だけどこういうのって誤りを介さずとも見る目や直感に優れていれば真実というか本質というか、割とすぐに物事の核となるものを掴めるんだよね。それができる人を『要領が良い』と称すのが世間の習わしである。
言わずもがな俺は要領が悪い。相当に悪い。何をやらせても失敗&失敗、ごくごくたまーに一発成功。そしてまた失敗続き……頻度としてはこんな感じで、とてもではないが器用な人間のすることではない。見る目もなければ直感も腐っている。そして何よりそれを自分で問題だと思っていないのが最大の問題だった。いや、そう思うのなら問題視して改善していけよ、というツッコミの声がどこぞより聞こえてきそうだが言わせてほしい。場合によりけり、とはまさしく俺こそがその代表例。仮に少しばかり要領良しの器量良しだったとして、それで俺が今の俺のように目的を果たせていたかというと。そこは正直なところかなり微妙なラインだ。なんでも失敗ばかりで、だからこそ成功に飢える。何がなんでもやると決めたことをやり遂げる──そういう必死さを育むためにはむしろ一発成功なんて少なければ少ないほどいい。と、俺は思うのだ。
何せ基本、すこぶる怠惰でいついかなる時もとかくとにかく楽をしたがるのが俺という男、いやさ女だ。その基本を塗り潰すほどの強烈な原動力となるものがないことには、小目標はともかく大目標を達成するには些か力不足。大切なことは何も成せない抜け殻のような魔法使いとなっていただろう。中途半端に物事への対処が上手かったら確実にそうなっていた。それこそオルトーのお人形のままに今日までを生きて、今日より先もずっと。いつまで経ってもその立場に甘んじていたはずだ。疑問にも思わずに支配され、持ち主の意向のままに永遠を過ごす──想像するだにゾッとするし、非常にゾッとしない話だ。そうならずに済んだこと。不平不満という刺激によって永遠という幻想から脱却できたのを素直に幸運と喜ぶほかない。
まったく。俺はいったい何をしているのだ、と我に返ったあの瞬間の恐ろしさといったらなかったな。自然と自分よりもオルトーを優先していたのが心底から恐怖だったよ。それは別にオルトーが俺に何かした……例えばオレクテムにそうしたように妙なものを植え付けたとか、そういうわけではなくて。ただただ俺が彼にシンパシーを抱き、彼が俺にシンパシーを抱き、産んでもらった恩義を感じ、産んだ覚えのないものが混じっていたことに喜び、互いが互いに目を曇らせていたのがその原因だ。こう、変な物言いにはなるが。すごくプラトニックな関係の恋人同士というか、その手前の段階というか。幼い恋をしていたのだと思う。俺と彼が過ごした時間を言葉で表現するならそれが最も的確だろう。無論、男女の肉体とはいえ俺は少女だし彼は両性で、セックスもしなければキスもしない、どころか手すら握ったことはない、まるで恋人らしい二人ではなかったけれど。だけどそれでも、オルトーが俺に向ける感情は特別なものだったし、俺が彼に向けるものも決してそれに劣っていなかった。そのことは確かだ。
……また話が逸れた。ともかく前世も含めて初めて得られた唯一無二の親友を犠牲にしてまで優先させた自由、それによって得られた俺自身のために生きる生。少しでも謳歌し、懸命に励むことはそれ自体がオルトーへの供養であり、俺が俺に課した義務でもあった。ゆとりをなくすことはしたくないが、ゆとりのみになるのもいただけない。そういう思いで研究を前へ前へと進めたのだ。遅々とした歩みではあるが一歩一歩確実に俺は目当てに近づいて。何百年とかけて培ったものが十年前、数えきれないだけの偶然と出会いに助けられて一気に花開いた。無論のこと、これはたとえ向上心を持っていたとしてもオルトーの庇護下にいたのでは決してなし得なかっただろう。彼から離れる選択をして、それを原動力に換えたからこそ手にすることのできた最良の結果である。
つまるところ。決戦に際しオレクテムには使命などないと語った俺ではあるが、そしてそれは実際にその通りなのだが、しかし徹頭徹尾己のために生き己のために行動する俺ではあっても、そんな俺なりに背負っているものもあるつもりだ。オルトーの命もそうだし、オレクテムの命だって、シースグラムを始めイグジスで奪った数多くの命だって。それら尊い犠牲の上に今の俺が成り立っているのだと理解すればこそ、その犠牲の先にあるものを必ず得なければならないと。強くそう思えるのだ。
俺がすべきは世界の保護。その実行は言い方を変えれば死んでいった命が世界を守っているようなものであり、彼らの死は犠牲ではあっても無駄ではなかった。俺の嫌う無駄とは最も遠いものだったと、そういう見方もできるだろう。少々飾りの過ぎる文句かもしれないが、されど純然たる事実だ。背負ったという意識が、罪の自覚があるからには、俺の行う全ての善行が数多の死した命に背中を押されてのことであるのは間違いのないことだ──それが糸を存続させる最大の原動力。
という話を最後に鼠少女へとした。俺が管理人となった経緯を何から何まで詳らかに語ったわけではないが、彼女も充分に納得してくれたようだった。俺の本心が伝わったからなのか、あるいは呪いと称するその特別らしい両目で何かが視えたのかはわからないけれど。なんにせよ俺たちはもっと別のところでわかり合うことができた。なので、友情と再会を約束して別れた。次は何処へ向かうのかと興味本位で訊ねてみれば、灰の創り手たる神がいる世界へと戻るつもりのようで。当然にそんな危険人物(?)へまた関ることへの心配をする俺に彼女はまだやり残していることがあるのだと告げた……その表情にまた、特別な目などなくとも伝わってくる覚悟があったものだから。こちらもそれ以上は何も言わなかった。なるべく多くの人の力になりたいのだと臆面もなく言ってのけるからにはきっと、彼女でなければできない何かがその世界にはあるのだろう。
新たな友人の背中を見送り、一人きりとなった隙間世界。慣れ親しんだはずの静けさがいつもより耳にうるさく感じられる中で俺はしばし黙考に耽り、それから地下室へと戻った。概算ならできている。もはや領域作り──鼠少女曰くの神域作りに悩む必要もないが、そちらはそちらで別途技術を磨くとして。俺が世界を越えるためにやるべきは、まずイメージの補強。それから実践だ。それが実を結ぶのにどれだけの時間がかかるかは杳として知れないが……いいさ、何度も言ったように別に焦っちゃいないのだ。
道のりをたっぷりと楽しんでいこうじゃないか。




