273.地盤固め
「誤解させてしまったようだが、事を急いてはいないんだ。別世界への旅立ちは何も今すぐじゃなくたっていい……君のおかげでこの世界の寿命はそう短くないとも知れたことだし、一層に安心して励むことができるよ。『後進の育成』。どんなに短く見積もっても千年単位でかかるであろうそれに、じっくりと専念することができる」
勿論、イデアがやらなければならないこと。その身に課せられた使命というものは一国の王であり魔女であり世界最強の戦力でもあることから、恐ろしいほど多岐に渡る。とても後進にばかり目を向けてはいられず、それに専念するというのは言葉の綾でしかない。事実リネットの授業を前回から今回で一ヵ月以上も期間を開けてしまったばかりだ。どれだけイデアが熱心になろうと時間は限られている。やれること以上のことはやれない。本当に千年かかったとしても彼女は短いほうだと判断している──それくらいに、今の自分がいる場所へ他の誰かを連れてくるのは難しいことだと理解できているのだ。
だがしかし。イーディスの演技力向上により最近は重要な場面においても代役を頼めるようになってきたし、変装時間も伸びてきている。『魔女会談』においてもアーデラ、ミルコット、ノヴァがそれぞれ立ち位置をランクアップさせてイデアが付きっ切りでなくても論議を取りまとめられる兆しが見えてきている。それに加えて時間精霊の使い方。隙間の研究に忙しくあまり注力できてないそちらの実験でも先日面白い発見をしたところで、やりようによっては一日二十四時間という制限をなくすこともできそうだ……と、そういった良き偶然の連続の後、現れたのがこの鼠少女。
これぞ最大にして最良の偶然。後進育成にもっと集中できそうだ、というタイミングで訪れた知識の来訪。前世以外の別世界があることの確証、世界の存続のルール、壁越えが一部の存在にとってはそう珍しい技術ではないこと。彼女が齎してくれた認識の革新は大きく、まさにイデアが求めていたものそのままであった。素晴らしい、と掛け値なしに思う。全てが噛み合っていく感覚。十年前にもあった、起こる出来事の何もかもが自身の目的へ──理想領域の内包化へと繋がっていった、あのときのことを思い起こさせるような。『何かに導かれている』ようなこの流れは、いみじくもオレクテムが宣った運命というものなのか。
「千年……最短でもそれくらいを地盤固めの目途にして、壁越えを行なうのはその後だってことかい?」
「地盤固めか。ああ、その言い方がぴったりだね。俺がやっているのはまさにそういった作業だ」
鼠少女の理解の示し方にイデアは大いに頷いた──まずはこの世界。イデアにとって基本となるここを、出発点であり帰ってくるための場所として確立させないことには何もできやしない。足元も疎かに他所へ目を向けるのは愚か者の所業としか言いようがなく、無論のことイデアはそんなミスを犯すつもりなどなかった。これはエイドスを手に入れて次の段階へ進めるようになったその日から既に周到に計画立てていたこと。
つまりはそのためなのだ。姉二人に妹一人を千年間閉じ込めると宣言したのも、強引なまでに会談の改革を推し進めたのも。長く時間がかかるとわかりきっていた世界渡航の手段を発見し己が手で再現する作業、それに向けた『整備』こそをいの一番に目指したのである。誰にも茶々入れを許さず、なるだけ効率的に日々を過ごすこと。余裕やゆとりというものをなくさずにそうするのがどれだけ大変であるか、彼女はこの十年でつくづく身に染みて理解をさせられた。
大陸各地で国レベルの問題は頻発するし、せめてそれ以上の面倒は起こらぬようにと気を配っていても今度は大陸の外から侵攻があった。トラブルというものは起こるべくして、そして起こるべからずとも起こるものであるらしい。五百年以上も外界との直接的接触を断って、弟子以外とはほぼ関わりを持たずに研究に明け暮れていた黒い森時代には見舞われなかったそれに、大勢との関わりを持った今だからこそ悩まされる。そのことが鬱陶しくもあり面白くもあり、つまるところそこそこに楽しい。概ね彼女は満足のいく時間を過ごせているが、それはそれとして。
「とはいえそろそろ隙間世界の解明にも限界が見えてきた、ところに君という限界突破の鍵。生けるブレイクスルーがやってきてくれたわけだ。なんてありがたいだろう。だからお礼を言うならこちらのほうなんだよ──よくぞ次なる逃げ場にこの世界を選んでくれた。もしもその判断基準に、隙間世界へ施した俺の工夫が影響しているというのならこんなに嬉しいことはない。単なる偶然じゃなく、これこそ起こるべくして起こった偶然だと言えるのだからね」
「巡り合わせ。それもまた流れのひとつさ。そういう意味では確かに、ぼくは君に呼び込まれたようなものだったのかもしれないね。そしてそれはぼくにとっても得難くありがたい運命だった……うん」
わかったよ、と鼠少女は感じ入ったように言った。
「謝ろう、ぼくはイデアを誤解していた。この世界がどうなってもいいから外へ飛び出したいと……それくらい興味津々に見えたものだから。でもそんなことはなかった。ちゃんと今いる場所の価値が君にはわかっていたんだね。偉ぶって苦言を呈したのが恥ずかしくなってくるや」
なんだかイデアに関しては見誤ってばかりだな、と鼠少女は内心で苦笑する。彼女が持つ目の性能は据え置き。どれだけの時が経とうと変化しない。劣化も、進化もだ。なんでも見通すその目を以てしても見間違いばかり。そのような事態が起こったとなれば、原因は目ではなくそれを扱う鼠少女自身のミス。もしくは、神の一端にすら届く目の力であっても不思議と見通せない『何か』──これまで度々出会ってきた、そういった因子とでも呼ぶべきよくわからない素養を持っている者。イデアもまたその枠組みにいる存在なのだと見做すべきか。
あまりにも長く、永く生きていることで単純にガタがきていないとも限らないが。そう思いながらも鼠少女は、原因は自分でなくイデアにこそあると半ば確信していた。特殊な目と際立って相性の悪い、滅多には出くわさない因子。それを確実にこの少女は持っている。いやいっそ、因子そのもので構成されているのがイデアだと言ってしまってもいい。そんな風に感じてしまうほど『見通せない』。それは今も変わらない。こうして落ち着いて話をしている彼女は、その黒々としたまるで何も映していないような瞳を除けば。ごくごく理性的でごくごく一般的な、なんの異端も匂わせない只人にしか見えず……それがどれだけ間違った印象であるかを既に存じているだけに、鼠少女はもはや愉快ですらあった。
「しかしぼくは疑り深くてね。生来からそうだし、後天的にもっと酷くなった。だから恩人である君に対しても懐疑的にならざるを得ない──ぼくの安心のため約束してくれるかい? これは君のためでもある。恩人に後悔なんてさせたくないからこその念入りの約束だ。絶対に。この世界を任せるに足る後進が見つかり、育て終わるまでは重ねて絶対に。『別の糸』へ出向くことはないと改めてここに誓ってほしい」
「いいとも、誓おうじゃないか。自慢じゃないが俺は友との約束を破った試しがない。やると言ったらやるし、やらないと言ったらやらない。後進育成は必ず成し遂げる。そしてそれが完了するまで壁越えを実践することはないとここに誓おう──たとえ君からその方法を教わったとしても、実行の時はずっと未来のこと。それでいい。何せ元からそのつもりでいたんだから」
計画に変更はなく、支障もなく。何も変わらない。隙間世界の実験に四苦八苦して時間を取られることがなくなるかもしれないという、それだけの変化はあるが、けれどそれは悩むべくもない良化であるからして何も問題などないのだ。方法の確立が済んだとてそれに逸って事を急くような真似をイデアはしない。自他共に認められる程度には用心深く、そして世界一の臆病者を自称する程度にはあらゆる可能性を想定する彼女のこと、そんな危なっかしい行為は誰に止められるまでもなくするはずもなかった。
「どのみちこの世界の気掛かりというか、やり切っていないところを放ったまま出かけるのでは気持ちが悪い。もう少しで完成するパズルの、たった数ピースだ。それを嵌めずに旅行へ出発するなんてこと普通はしないだろう? いやまあ、この例で言えば俺はようやくパズルの外枠を埋め始めたってところだから、あまり適切な喩えではなかったかもしれないが。とにかく俺に焦りや迷いはない。それだけは断じて宣言しておくよ」
「ならば何よりだね。ぼくも安心を得られた。これで気兼ねなく教えることができるよ──壁越えのコツ。というよりも、世界を越えるために君には何が足りていないのか。その真相をね」
「……! わかるのかい、鼠くん。君にはそれが視えているのか」
「視えているんじゃあなく、これは経験則だよ。神に準ずる力を持ちながらもちっとも壁越えに手が伸ばせないとなればまず間違いなく。君が抱く認識の齟齬こそがその理由だろう──」




