269.友へ
繰り出される打撃。腕力などとは一見して無縁に思えるすらりとした腕が生じさせた威力は凄まじく、打たれた灰は後退を余儀なくされる。遅れて響く炸裂音。音速などという鈍重な世界にいない二人はその時点でもう組み合っていた。
「ッふ──」
鋭く呼気を漏らしながら灰が懐に潜り込み、拳をぶつける。脇腹を抉り込まれたイデアがよろけ、しかし反撃の手は止めず。突き出した掌打はしかと灰の頭部を捉えその上体を後ろへと傾けさせた。
「!」
そのまま倒れる、と思いきや。勢いよく跳ね上がった脚に顎を打ち据えられたことで今度はイデアの上半身が流れていく。バク転しながらの蹴り。それでよくもまあここまでの重みを乗せられるものだと呆れ半分の称賛を抱きながら彼女も地に手をついて後方一回転。そして前を向く。似たような姿勢で両者は眼差しをぶつけ、その直後には拳をぶつけ合う。
ゴウッ、と衝突が隙間世界を揺らす。無限循環と同じく、世界と世界の狭間にある『概念上』の空間。『存在しない存在』である世界間は決して壊れない。そこには破壊や崩壊という概念がないからだ──けれど絶え間なく隙間世界へ激震を走らせるイデアと灰の戦いは、あたかも壊れぬはずの場所を壊してしまえるかのように強く激しく、そして猛々しいものであった。
幾度目かの攻防、互いに滴らせた血を踏みしめながらまたしても同時にクロスカウンターが決まったとき、灰の殴打がついさっきのカウンターよりも深く入っていることに気付いたイデアは口の端を吊り上げた。
「まだ上がっていくのか? 面白い。だったらこちらも無限を更に高めていこう」
矛盾を成立させるのが魔法。果てがないはずの無限を回る円の中に閉じ込める無限循環。を、より多くより速く。現実的に起こり得ない現象だろうとそんなのは今更である。非現実を手の中に生むこと、それがイデアを魅了した魔法であり魔力。無力感と達観──それしかなかった自分に与えられた力であり、可能性。それをどこまでも追求することに否やはなく、躊躇いもなく、そして誰に止められるものでもなく。
「超常を愛し求める。逸脱していれば逸脱しているほどに良い……敵だろうと味方だろうと関係なく、な。だから俺は君のことも愛しているぜ、灰。これはそんなにおかしなことじゃあないだろう?」
「…………、」
「おっ──」
出会ったばかりの、ほぼほぼ縁もゆかりもない強者同士が殺し合っているこの現状。冷静に考えてみればおかしな事態であり、イデアが鼠少女を庇おうとしなければ。あるいは灰があくまでも鼠少女だけを狙うのであれば回避できたはずの死闘──それを嬉々として楽しんでいるイデアは、しかしこの感情は自分だけにあるものではないだろうと。同意どころか返事だって期待せずに投げかけた問いは、思わぬ収穫をもたらした。
笑ったのだ、灰が。鉄仮面もいいところの無表情、無感情。ダメージの度合いを測る以上の機能を持っていなかったその顔に、ほんの少し。僅かに唇を歪ませた程度ではあるが確かに笑みが浮かんでいた──そう確信できる前に灰が動き出し、必然とイデアはそれに対応させられる。気付けば元の無表情に戻っている灰を見てひょっとすると今のは幻だったのではないかと、そんな風にも思うイデアだったが。
「いやさそれじゃあ味気がない。同意してくれたのだと考えることにするよ!」
宣言通りに無限循環を高みへ。もはや上などないはずのそれを、より高次のものとしていく。超越魔力の超越循環。そこまでいけば丹精込めて作られた究極の魔道具と言っていい魔力輪──見た目はシンプルだが人類圏からすればまったく扱い切れないほどにオーバースペックの代物──でさえも完全に無限を押し留めることはできず。イデアは身に纏った五つのリングから零れ落ちるキラキラとした光の粒子を軌跡上に残しながら、それが残像として灰の目に映るよりも速くその背後へと回り込んでいた。
「……!」
反応できない──信じ難い挙動で素早く背後へ攻撃を仕掛けた灰だったが、その人知を遥かに超えた速度であっても遅きに過ぎた。そこにイデアはおらず、自分の真横。すぐ傍で粒子が輝いているのを視認した瞬間には吹き飛ばされていた。遅れてしまっている。ギアが更に一段階引き上げられた直後だというのに、完全に出遅れている。まったく後れを取らされている……いったい何故。どうして突如としてここまで引き離されているのか、灰には理解できない。計算が合わず、演算が追いつかない。
殴られたのか蹴られたのか。はたまたもっと別の攻撃法か……どうやって自分が吹き飛ばされたのかすら判然としないまま強引に重心を入れ替え、空中で姿勢を正しながら制動をかけて着地。追撃がやってこないことを疑問に感じながらイデアの様子を確かめれば、彼女はリングだけでなく全身からも淡く光を放っている現在の自分自身を夢中になって確認していた。
「ふーむ、興味深い。高次魔力を煮詰めれば黒く染まるのは俺だけの特色ではなく誰にでも共通する事項だったが、これはどうなのかな? 似ても似つかないが似通った現象ではあるはずだ……仮に俺以外が超越魔力を得ていたとしてもこうなったのか、それともならないのか。変化には必ず理由がある。意味もあるかは場合によりけりだし、高次魔力のそれと同様におそらく意味と呼べるほどのものはないんじゃないかと推測するが……まあ、だとしても見栄えはいいね。黒にばかり縁があったからちょっと新鮮だ」
気に入ったよ、と。そこで、まるで賛同を求めるかのようにこちらを向いたイデアに灰は「…………」やはり無言で答える。それ以外に返しようがなかったと言っていい。──自我なき彼女にも、もうわかっているのだ。模造品にして失敗作。神にとある最強を模して作られた己よりも、遥かに道理を足蹴にした無茶苦茶な存在。それがこのイデアという少女であると、己などよりもよっぽどに本物に近いのだと。だとすれば自分程度が敵う相手ではないと──もうわかっている。
存在としての格が、核が違う。ここまではどうにか食らいついてきた灰も、ここからは圧倒されるばかりだろうと。新たな境地のひとつに達したらしいイデアを見てなんの悲観もなくそう思う……思ってしまう、からこそ。
戦うことだけが意義の自分へ、そんな無駄な感情めいたものを抱かせるくらいには得難い敵なのだ。それが立ち塞がってくれたこと。最後にしてようやくきちんとした戦闘ができたことを、自我も思考も介さずに。しかし確かに灰は『心』のどこかで深く感謝していた。
「! ……、」
対峙する者の出で立ち。どこがどう、と言葉で説明することはできずともその雰囲気に何かしらの変化があったのを、イデアも敏感に察した。変化には、理由がある。それを詳しく読み取ることはできずとも通じ合うものはあった。故に沈黙、不動。数瞬の間を設け、後に。
「「……っ」」
スタートを切る。神格を有する両者はその片鱗を輝きとして振り撒きながら白い空を駆け、翔け、疾け──そして激突。予定調和であるそれは結果だってわかりきっている。共に予想過たず押し負けたのは灰。だが押された勢いを利用するように、受けたダメージを威力に転化するようにやり返した反撃の拳は、確かにイデアへと命中したが。しかし揺るがない。ビクともしない。灰をして渾身と言えるだけの一打をモロに浴びておきながら、その瞳はどこまでも静かであった。
「──、」
「終わりにしよう」
黒い水面に映る自身を見て。そっと、穏やかさすら感じさせる仕草で添えられた手を見て。そこに集う力の極限を見るともなく見て。
灰は敗北を悟った。
「兆重超越呪式魔化魔力加速砲」
それがゼロ距離から放たれる刹那。いや刹那よりも短い幻想の如き一瞬を、敗北を知りながらも灰は諦めようとしなかった。間に合わないと認めながら、間に合ったところでどうにもならないと認めながら、しかしそれでも拳を。自分絶対の誇りのような何かである武器を最後の最後まで。最期の一際まで振るい続けんとして──案の定。拳の先がイデアへ届くよりも先に、彼女の視界は白よりも白い究極的な純白に埋め尽くされた。
何を思うでもなく苦しむでもなく自分という物体が洗い流されていくようなほろほろとほつれるようなゆらゆらとゆらめくようなそういう名状し難い感覚だけに染められて得体の知れないそれをどこか心地良くすら感じて。
「、──…………」
──灰は、消えた。肉体の一欠けらも血の一滴すらも残さずに。失敗作として放棄された道具が、ようやく意義なき破壊活動から解放される瞬間。それを見届けたイデアは。
「さようなら、灰。そしてありがとう。君のおかげで俺はまた一歩、次へ進むに相応しい俺になれたよ」
別世界の神によって生み出された神具。何かが違っていれば自分が辿っていたかもしれない末路をまざまざと見せてくれた友へ、イデアはその安らかな出立を祈る。願わくばこれよりの彼女の旅路が幸福に恵まれたものであらんことを──死したる魂がどこへ行くのかは、一度命を落としている彼女にもわからぬ永遠の謎である。だからせめて、惜しむべき喪失に対してはそれを悼まねばならない。
「無駄じゃあ、ないよな。こういう気持ちはさ」
誰に問うでもなくそう呟いたイデアは、既に元の姿へと戻っていた。




